この日は、朝から頭痛がした。ギュッと頭に輪をはめられたような圧迫感と、後頭部の斜め右にズキズキと腫瘍でも出来たかのような痛みが、二重になって山縣を襲っていた。緊張性の頭痛と偏頭痛、どちらか片方だけであっても辛いというのに、一気に両者に襲われて、目眩と吐き気がすぐに湧き上がってきた。
しかし、本日は、どうしても外せない会談がある。
伊藤の邸宅に呼び出されていた。家ではあるが、私的なものではない。
メンバーもここの所元老と呼ばれる者達だ。山縣が欠けるわけには行かなかった。
道中で、横切っていく黒猫を、山縣は馬車の中から眺める。その後すぐ、伊藤邸についた。黒猫は不吉な事象を呼び寄せるという伝承を遊学中に聞いた事を思い出していた。
「山縣」
邸宅の応接間に行くと、伊藤が開口一番名を呼んだ。
既に全員が揃っているのを山縣は視線で確認し、懐中時計を取り出した。
まだ開始時刻の三十分前である。遅刻しなかった己に安堵していた。
「自由民権運動を認めて欲しい」
伊藤の声に、山縣はスっと目を細めた。その間も、絶えず頭痛がしていた。
「福島の事件を思い出せ」
山縣が言うと、その場に、一瞬重い沈黙が溢れた。山縣はこめかみに指を添えて頭痛を鎮めようと試みながら、嘆息する。己が出した、『福島』という語で、会津を思い出したが、あの風景は、今は封印すべきだと小さくかぶりを振る。
「……山縣、それはある種の側面だ」
「そうだな。いくつかの爆弾を使用した自由民権運動の支持者の行為も、側面だな」
「山縣、だから――」
「爆弾だぞ。倒幕中や戊辰戦争であっても、爆弾は存在したが、より精度の高い品を使おうという考え、それらを支持者は持っている。ある側面において、な」
山縣は、頭痛が止まらないものだから、二度、拳で額を叩いた。すると伊藤が片目を細めて、腕を組んだ。頭痛が酷いため、山縣はその表情から何かを汲み取る余裕が無い。
「極端な話、そう言った思想を持つ連中が、陸軍と結びついたらどうなると思う? 軍の爆薬を使ってのクーデターでも起こってみろ。幕府よりも、歴史が浅く、脆弱性もあるこの政府が耐えられると思うのか?」
そう言った山縣を睨むように見据えてから、伊藤は小さく頷いた。
「危険性は理解しているよ」
その日の議論は、そこで終わった。解散時刻に、伊藤は山縣の肩を叩く。
「ちょっと良い?」
「なんだ?」
本当は、頭痛が辛いから早く帰宅したかった山縣であるが、立ち止まる。
「富貴楼で話そう」
「……ああ」
断ることすら億劫で、山縣は曖昧になっている思考で頷いた。二人はそれから列車に乗り、横浜の地を踏む。二人の正面を黒猫が横切った。お倉が出迎え、いつものお座敷に通された。山縣は、ずっと頭痛に耐えていた。
「狂介」
久々にそう呼ばれ、山縣は緩慢に視線を上げる。
「僕達は、昔諜報活動で、京に行ったよね」
「そうだな」
「あの頃から、狂介は、密偵を放つのが得意だよね」
「ああ」
「――福島の事件。内部から、暴動を煽った者がいたようだけれど。逮捕も迅速だった」
「それが?」
「君が密偵に煽らせたんじゃないのかい?」
率直な伊藤の言葉に、山縣は――反論しなかった。反論する元気が無かったのだ。
山縣の指示ではないが、反乱分子の中に、直接的に入り込み接触している密偵がいたのは、事実である。あるいは、その者が扇動に関わったのかもしれない。そうであるならば、放った山縣自身にも責はある。指示こそしていないが、回りまわれば己のせいかもしれない。だがそれを伊藤に説明する気力がない。頭痛が酷すぎた。
「――仮にそうだとしても、煽られ行動するのでは、元々不穏分子だったという事だ」
山縣は、密偵を伊藤が好まない事を知っていたが、事実を伝えた。理由の一つに、最近密偵が内密に阻止した事件の中に、伊藤を狙ったものがあったのを写真から特定していたと言う事実がある。だが――自分が狙われていた話など聞きたくはないだろうと、山縣は言葉を止めた。
「狂介、時流は変わっている。人々は、自由を求めているんだよ」
「……」
山縣とて、自由が悪だとは思わない。だが、それらが暴徒化するのは、絶対に阻止しなければならないのだ。優しい伊藤は、自由を求める民を止められない――ならば、親友として、自分が止めるしかないではないか。山縣は、そう考えていた。伊藤の冷酷さには、気づいていない。伊藤は、概念のみ取り入れて、政党政治をして、『犯罪者』は切り捨てるつもりでいる。根幹的には、大隈重信の唱えるような『自由』を選択するつもりは無かったのである。
「頼む、認めてくれ」
「無理だ」
二人の言葉は、交わらない。重ならない。
「どうしてそんなに頭が硬いの?」
「国を思うからだ」
「硬すぎる。ちょっと、ほぐした方がいいんじゃないの? 頭痛もしているみたいだし」
「どうしてわかった? わかっていたなら、俺を素直に帰せ。とにかく認められない」
「――狂介、君はさ、もうその辺の豆腐にでも頭をぶつけて消えたら?」
頑なな山縣に苛立って、伊藤は引きつった笑みを浮かべて嫌味を放った。
「いいや、もっと硬いもの、そうだな、ここの卓にでも頭をぶつけて、陥没させて、もっと考える隙間を作ったら?」
「何が言いたい」
「要するに、君が死ねばいいと思うくらい苛立ってる。僕がわざわざ『頼む』とまで口にしたのに、その態度、どうにかならないのかい?」
それを聞いた瞬間、頭痛がもたらすめまいにより曖昧模糊としていた山縣の意識が、ついに限界を迎えた。山縣の体がガクリと傾く。そのままお台のものが載る、黒い卓の角に山縣は頭をぶつけてから、畳の上に倒れた。激突したこめかみが痛む。血が流れているのを自覚し、それを最後に、山縣は完全に意識を喪失した。
「え」
伊藤はその光景に狼狽えた。山縣が自分でぶつけた冗談――……では、なさそうだと、すぐに気づいて、焦って抱き起こす。山縣に意識は無い。
「え? や、山縣? 狂介? ちょ」
「――頭痛がしていらっしゃったのですよね? きっと目眩か貧血です」
歩み寄ってきたお倉が、山縣のこめかみに布を当てながら、冷静にいい、外に控えていた男衆を呼んだ。そして冷静に、「お医者様を呼びなさい」という。
「伊藤様、動かさない方が良いので、抱き起こすのではなく、元の位置へ」
「あ、ああ……え!?」
伊藤は己の言葉をぐるぐると振り返っていた。無論、苛立って放っただけで、本心ではない。
「お倉、僕は、本心で頭をぶつけて死ねばいいなんて思ってはいなかったんだ」
「分かっておりますよ」
「これが山縣とのやり取りの最後になったらどうすれば良い?」
「打ちどころが悪ければそうなるかもしれませぬが、ちょと切っただけにしか見えません。そこまで動揺なさらなくても」
「……」
「落ち着いてください、伊藤様」
「お倉、君は落ち着きすぎだ」
その後、丸一日、山縣は目を覚まさなかった。医師は、「命に別状なしなので、すぐに意識ももどるでしょう」と言って帰っていったが、伊藤は指を組んで額を押し当て、布団に横たえられた山縣の横にずっといた。
「っ、ん」
翌日の昼、山縣が目を開けた。ぶつかった衝撃というよりも、日頃の疲れから寝入っていたが正しい。
「狂介!」
「なんだ、俊輔。どうして泣いているんだ?」
「馬鹿? 馬鹿なの? 君が起きないからだよ」
「は?」
山縣は、自分が転んだ所までは覚えていたが、まさか丸一日経過しているとは、思ってもいなかった。頭痛が楽になっていたので、よく休めた程度に考えている。
「そんなに心配してくれなくて良い。憂うのは国のことだけにしろ」
「……そ、そうだね。あ、あのね、豆腐の角に頭をぶつけて死ねというのは、冗談だからね」
「? わかっている。豆腐にぶつけても死なない。そもそも、巨大な豆腐はお台ものには載っていなかったぞ?」
「……」
「富貴楼のやっこは美味いが」
「とにかく無事で良かったよ。それはそうと、自由民権運動を認めてくれる?」
「無理だ」
山縣がいつも通りだと確認し、伊藤は心底安堵したのだった。
富貴楼の窓の外を、黒猫が横切っていった。