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【番外】幸せへの旅路

 ――色褪せない。

 最初は、放心状態が続いた。そうして今は、胸騒ぎが止まる事を知らない。

 自分達は、幸せになるために、夫婦として生きてきたのではなかったのかと、山縣は考える。失って初めて、離れかけていた心を悔しく思った。己の心ではない。友子の心が、果たして今際にも自分へ向いていたかと考えていた時に、違うと思ってしまうからだ。

 こうして一人になる。そうして、一人になる。もう、誰もいない。

 山縣は、道に迷っている気分だった。迷っているというにも関わらず、正面にも真後ろにも道はない。暗がりに、ただ己が立つ場所だけが存在していて、少しでも動いたならば、どこかに落ちていきそうな感覚だった。

 だというのに、瞬きをすれば、そこで在りし日の友子が、元気だった頃の友子が、幸せだった頃の妻が、向日葵のような笑顔を浮かべ、手を伸ばしている気がするのだ。色褪せない、明るい表情で。

「山縣?」

 伊藤に声をかけられて、ハッとして山縣は我に返った。白昼夢を見ていた自身に気づき、嫌な汗がこみ上げてくる。その間も、ずっと胸騒ぎが止まらない。緩慢に二度、瞬きをした。

「なんだ?」

「最近、前にも増して、仕事に熱心だね」

「そうか? 俺は昔から、この国に心を注いできたぞ」

「――奥さんに対して、じゃなく?」

 伊藤が何でもないような顔をして、さらりと言った。硬直した山縣は、何も答えない。伊藤のことも見ない。虚空を見たまま、動きを止めたのだ。伊藤の側は、無表情に近かったが口元にだけは小さく笑みを形作っていた。しかしその瞳は透き通る水のように冷たい。

「心ここにあらずじゃないか」

「伊藤、そんな事はない。俺の頭の中は、次の会議の事でいっぱいだ」

「――会議の予定は、しばらくないけれど」

「小さなものは、毎日いくつもあるだろう?」

「具体的には?」

「……」

「喪に服している山縣に気を遣って、皆、小さいものは自分達で片付けているようだけれどねぇ」

 それを聞いて、万年筆を手にしたまま、山縣は唾液を飲み込んだ。

 ――胸騒ぎが止まらない。気を抜くと、体が震えそうになる己を、山縣は自覚していた。

 極端な話、友子と仕事、家庭と国で、山縣の中の均衡は保たれていた。その片方が欠けた。それは傍から見ていてもよく分かる事であり、伊藤は溜息を押し殺しながら、今度は長々と目を伏せた。

 山縣は悲しみを見せないようにしている。それは、ここが、職場であり、国の象徴だからだ。切り分けられ、分たれている場所に在るからだ。

「そうか……気を遣う必要はないと、お前の口から伝えておいてくれ」

「無理かな」

「どうして? 忙しいのか?」

「僕も気を遣っている一人だからだよ」

 それを聞いて、山縣は漸く伊藤へと視線を向けた。そして珍しいものを発見した子供のように純粋な瞳で、大きく瞬きをした。

「家という私的な空間を共に創り歩んできた、たった一人の貴重な奥様の死を、僕は改めて悼むよ」

「……悪いな」

「ただね、国を創るという場面で、共に歩んでいて、山縣をなくてはならないたった一人の貴重な盟友だと感じている僕は、この国政の場で、君を失うわけにはいかないんだ」

 伊藤はそう言うと、瞼を開けた。

「君の重みは、卓越しているんだよ。この大日本帝国において、既にそれだけの存在感を持っている」

「……」

「今後は、僕と共に国のためだけに歩めば良い」

「……」

「だから家庭という私事と両立をして、均衡を取る必要なんてないんだよ」

「……」

「仕事だけに打ち込めば良いんだ、山縣は」

「酷い慰め方だな」

「君が想い愛するのは、国。国を家族だと思う。この国を。国と仕事で均衡を保てば良いじゃないか」

 それを聞いた山縣は、初めて表情を動かし、小さく吹き出した。

「国、か。具体的に、それは何だ? 国は俺に笑顔を見せてくれるわけでもなければ、俺に労いの言葉をかけてくれるわけでもない」

「君には、自然を愛する心があるだろう?」

「……」

「庭を弄って自然から国を感じて、その心を和歌にすれば良いと思うよ」

「それで――」

「何?」

「それで、一体誰を幸せにできると言うんだ?」

 呟いた山縣の不安げな目を見て、伊藤は冷徹な瞳をした。

「どうして誰かを幸せにしなければならないの?」

「え?」

「僕は、自分が幸せになるために、この国を作っているよ。自分が住みやすい国を求めている。自分が大切だ」

「伊藤……」

「君にとって国は、国民の集合であり、その象徴が奥様だったのかもしれない。けれどね、僕は妻よりもさらに、この世界に個を見ている。それは僕自身だ。まずは僕が幸せになり、続いて周囲を幸せにし、そして多くを幸せにし、国を、世界を幸せで満たしたい」

 山縣は、その観点に驚いて、小さく息を飲んだ。

「僕は、僕自身が幸せになることから始めて、それが叶ってから、山縣といった友人を幸せにすると決めている。ただ僕にとって山縣は、僕が幸せになるための国創りに、欠けてはならない相手だと言っているんだ。家庭には妻がいるように、この国を創る時には山縣がいないとだめなんだよ」

 何も言葉が見つからなくて、山縣は瞬きをした。すると、前も後ろも閉塞していた暗い場に、少し灯りが見える気がした。足元は明るさの下で見れば、左右にきちんと道があるようだった。友子の幻影が伸ばす手は、背中を押してくれる――勇気づける手に見えるように変わった。

「前から思っていたんだけれどね、山縣」

「……」

「笑わないと、幸せが逃げていくよ」

 何度も瞬きをしながら、山縣は伊藤の声を聞いていた。その度に、未来に繋がる道筋が再構築されていく感覚がする。

「今すぐ笑えとは言わない。けどね、自分を幸せにするために、まずは笑顔を浮かべる事から始めた方が良い」

 笑わない事で定評が有る山縣は、その言葉に、笑って見せようとしたが、表情筋が笑い方を忘れてしまったようで、動かなかった。凍り付いてしまっている頬を、山縣は軽く指で撫でる。

「――と、いう事で、富貴楼に行こう」

「……いつ?」

「今から」

「職務中の昼だぞ」

「休暇としよう。たまには昼から飲んだって良いじゃないか。山縣の事を、今なら誰も止めないさ。僕は、それに肖る」

「お前が飲みたいだけじゃないのか?」

 やっと軽口を叩き返す余裕を取り戻し、山縣は笑う事も出来た。それは苦々しくも見える微笑だったのだが。

 ――そのまま二人で職場を出て、列車へと向かう。貸座布団に座りながら、山縣は組んだ手を膝と膝の合間に置いた。伊藤は頭の後ろで手を組んでいる。

 富貴楼へと到着すると、お倉が出迎えた。いつか頬を叩いた事を、彼女は思い出していた。あの時に比べると山縣の瞳からは、幾分かは暗さが消えているように、お倉には思えた。ただ、代わりに、決して癒えない傷を負い、何かを諦観しているような色を見て取った。

 三人の風景が自然となったお決まりのお座敷へと向かい、お倉は窓際に座る。伊藤と山縣は並んで座る。浴衣には、まだ着替えていない。料理がすぐに運ばれてきて、お倉が酒を注ぐ。それから彼女は、再び窓の前へと戻って、横浜の海を眺めながら沈黙した。

「山縣、早く仕事をしなよ」

「――休むという仕事か?」

「そう、それ」

「気遣いは有難いが、普通の仕事をしている方が、今は気が休まるんだ」

「それはただの現実逃避だと思うけれどね。喪失を忘却しようとしているだけだ」

「悪いか?」

「悪い」

「どこが?」

「君は熱心に仕事を前と変わらずにしていて、仕事が好きで、仕事が得意なんじゃなかったのかい? ならば、休む仕事もこなせるはずだけど?」

 それを聞いて、深く息を吐いてから、山縣は腕を組んだ。

「そうしてゆっくりと休んでから、僕と共に歩こう。幸せになるために、この国の未来へと向かって」

 お倉は二人のやりとりに耳を傾けながら、自分の慰めは不要だなと感じ、静かに布団を整えるために立ち上がった。伊藤はそれを笑顔で見ている。

 この日山縣は、富貴楼で、久しぶりに熟睡した。

 そして目を覚ました時、酒を飲んでいた伊藤と、酌をしていたお倉に向かって、表情筋を動かした。笑い方を正確に思い出していた。

「やっぱり山縣は、笑っているべきだ。よく似合っているよ、その笑顔」

「――悪巧みをするような表情だとよく言われるものだが」

「僕としようじゃないか、悪い話を。この国のために」

「そうだな。それで、次の会議だが、やっぱり臨時で開催すべきだと思うんだ」

「……も、もうちょっと休んでも良いんじゃないかな?」

「お前は休みすぎだ。帰るぞ」

「え」

「――俺達が未来を築く場所にな。お倉、会計を」

「かしこまりました」

 その言葉に、伊藤は立ち上がり、山縣の隣に並ぶ。二人は扉を開け、外へと向かい歩きだした。朝の光は、二人を照らし出していた。

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