それから二度、二人で共に、春夏秋冬を経験した。宗純は、十九歳になっていた。既に幼さが以前より抜け、背丈も謙翁を越した。子供の頃、長らく親しんだ周建という名よりも、今では宗純と呼ばれる事に慣れていた。呼ぶのは専ら謙翁だ。
「宗純、今年も神無月が来たね」
「え? ええ。それがどうかしたんですか?」
「君も大人になったなと思ってねぇ。覚えているかい?」
自分達が初めて出会ったのも、神無月の事だ。そう思い出しながら謙翁は告げたのだが、宗純は首を捻っていた。謙翁に伝えた事があったか、考えていたのだ。
「俺、誕生日だって言いましたっけ?」
「え?」
その言葉に、初めて耳にした謙翁は声を上げて聞き返した。
「いつ? 何日?」
「今日です」
「どうしてもっと早く言わないんだ。そもそも去年だって一昨年だって、何も言わなかったよね? 確かに祝うのは正月だとは言え、分かってるんならばお祝いくらい……」
「魚は駄目ですよ」
「そ、そういう事じゃなくて」
この頃になると、実際には謙翁が、魚好きらしいと宗純も知っていた。買う金は無いため、時折ふらりと姿を消して、謙翁は釣りをしてくるのである。安国寺の堕落に比べたら、随分と可愛い不正行為だと、そう考えてしまうのは、単純に師匠への贔屓目だと、宗純はよく理解していた。同時に、食べたいものを食べるというのもまた、自然な行為の一つであるとも考える機会に恵まれている。己はまだその禁忌を破っていないが、いつか挑戦してみても良いかも知れないと思っていた。例えば、有髪にしても、御仏への信仰心にも、考えにも何の変化も無かったから、型を破るという意味では有用なのかもしれないと考えている。
「私は、宗純の事を、考えてみると、ほとんど何も知らないじゃないか」
「俺、語るような事があまりなくて」
「誕生日が分かるという事は、それなりの家の出自なんじゃないのかい?」
「……母は、藤原の出自で……その……南朝で……宮廷を追われてしまったらしくて、生まれた家自体は、民家です。嵯峨野の」
「ちょっと待って。御落胤かい?」
「……ええと、俺は、父親の事は、ちょっと……」
宗純が言いにくそうにしたため、謙翁はそこで声を止めた。すると気を取り直したように宗純が口を開く。
「それより、覚えてるかというのは、何をですか?」
「ああ、私達が出会った日の事だよ」
それを聞いて、宗純が柔和な笑みに変わった。
「勿論。忘れた日なんて一度も無い」
「私は、たまに忘れてしまうんだ。最近の宗純の印象の方が強すぎてね」
「お師匠様は、出会った時から、あんまり変わらないからなぁ。時々意地が悪いけど、本当は優しくて――だけど、それは単純に控えめにして、物事を受け流しているだけだったりもするし」
「君も言うようになったなぁ」
「師匠の教育の賜物だな」
そんなやり取りをして、二人で笑いあった。それから謙翁が、外へと視線を向ける。既に夜だ。
「そうだ。たまには、鴨川を見に行こうか」
「え? この時間に? もう夜だ」
「駄目かな? 懐かしい気分になってね。君は、夜の鴨川を見た事がある?」
「無いけど……安国寺にいた頃は、遅くとも日が落ちた頃には帰らないとならなかったからなぁ」
「じゃあ、お祝いも兼ねて、鴨川に行こう」
「お祝い? どういう事だ?」
「行ってみれば分かるよ」
こうして、そろって外へと出た。並んで歩くと、暗い路地に、更に黒い影が伸びる。月明かりの下、二人で進む。宗純は、空が好きだ。だから、時折、煌く星を見上げながら歩く。そんな宗純の横顔を見て、謙翁は慈しむように優しい眼差しを浮かべていた。
「ここだったね、君と出会った橋は」
「うん」
「少し渡ろう」
二人で橋を歩いていく。すると、橋の中程で、謙翁が立ち止まった。そして川を見る。
「見てご覧。君の好きな空が、二つになってる」
「あ……」
そこには、水面に映る星空と月があった。感嘆の息を漏らし、目を瞠った宗純は、それから嬉しそうに頬を持ち上げた。
「最高のお祝いだ」
「でしょう? たまには私も、人を喜ばせる気が利くんだよ」
「師匠は、いっぱい俺を喜ばせてくれてる」
「それは私も同じ気持ちだよ」
それから暫しの間、二人は無言で鴨川を見ていた。出会ってからもう時期四年となる。これまでの間の様々な記憶が過ぎってくる。二人で御仏の心について学んできた、二人きりの西金寺という小さな世界は、この星空が二つある、大きな世界と、確かにつながっている。
宗純にはもう、世界に対する疎外感は無い。
この時、宗純にとって、世界は謙翁になりつつあった。謙翁は自然だ。謙翁は、春と同じように、夏と同じように、秋と同じように、冬と同じように、太陽と同じように、月と同じように、星と同じように、宗純にとって自然な存在であり、世界だった。
そのまま家路につき、西金寺に帰り着くまでの間、二人はぽつりぽつりと雑談をしながら歩いた。