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第2話 無意味になる御札

 手紙を届け、安国寺へ帰ってからも、周建は漫ろ心だった。今日の出来事と謙翁の事が頭から離れない。ただ一つ思うのは、過去にも何度も感じたものと同じだ。

 己のいるべき場所は、この安国寺ではない。

 夜。床に入り、瞼を伏せると、ありありと謙翁との出会いが甦った。直接会話をした時こそ軽薄な印象を受けたが、確かに経を唱えていた姿と、帰り際に自分を分かってくれたと理解できた一瞬は、特別だった。

 他者には様々な一面がある。それは、周建がこの安国寺で学んだ事の一つだ。受け入れれない事柄でもあるが。同様に、謙翁にも様々な姿があるのかもしれない。

 それでも……もっと、彼について知りたいと感じていた。それは、周建が理想とする御仏の教えに、一番近い所に謙翁がいるように思えたからだった。

 数日後。

 周建は、安国寺を出た。

 周囲には猛反対されたが、手紙を出した母と、返事を運んできた紫峰は、周建を応援した。

 向かった先は、西金寺だ。安国寺の社僧が場所を知っていた。

 ――高僧だが、関わるべきではない。

 そのようにも耳にした。安国寺とは異なり、西金寺は、庇護を受けるのを拒んでいるらしい。相反する存在のようだった。

 南大門を見た時、周建は立ち止まった。今にも朽ち果てそうだったからだ。

 それから少し歩き、中門を過ぎると、これまで過ごしてきた安国寺とは全く違う、小さな西金寺が視界に入ってきた。

「こんにちは」

 断られても粘るつもりだったため、事前連絡をするでもなく、周建は西金寺を訪れた。壊れそうな戸に手をかけると、中からはひょいと、先日出会った謙翁が顔を出した。

「あれ? 君はこの前の……周建くんだったかな?」

「覚えていて頂き光栄です」

「一体どうして此処へ?」

「門下にして欲しいんです」

「え?」

「今日からよろしくお願いします、お師匠様」

「ちょっと待って」

  謙翁の笑みが引きつった。それには構わず、周建が詰め寄る。

「お願いします、弟子にして下さい」

「一体また、どうして? 悪いけど、門下生を迎えるような余裕は無いんだよね。まぁ立ち話もなんだし、中にどうぞ」

 そう言うと謙翁が、室内へと振り返った。周建がその後を追うと、食事中だったらしく、そこには白菜の漬物がある。どこにも魚は無い。安国寺とは大違いだ。

「お師匠様は、肉食をせず、きちんと生きていらっしゃるのですね」

「……貧乏で買えないだけ、だったりするけど――そ、そうだね、きちんと生きている事になるのかな」

 瞳を輝かせている周建を見て、謙翁がから笑いをした。周建にはそれが謙遜に思えたが、実際、西金寺は貧しい。清貧と貧乏は非常に異なる。ただ謙翁は、権力と交わる事は忌避している。それは事実だったし、私利私欲の大部分は捨てている。かと言って、全てを捨て去っているわけでもない。

「それで? どうしてまた、私の門下に? 安国寺の方が僧としては学びやすいと思うけど」

 経文一つ取っても、安国寺にはあって、西金寺には無いものが、山ほどある。そう考えながら謙翁が問うと、周建が大きく首を横に振った。

「俺は、御仏の心を学びたいんです」

「御仏の心?」

「たとえば子を亡くした母親を見た時に、いかにして通り過ぎるかではなくて、いかようにして寄り添うか。そう言う事を、じっくり考え、学びたいんです。それにはお師匠様が、俺にとって最適だと思うんです」

 まっすぐな瞳で周建が答えると、謙翁が虚を突かれたような顔をした。それから口元から笑みを消し、腕を組んでじっくりと周建を見据える。

「今の君には無理だと思うよ」

「これから精一杯努力します」

「そういう部分が、ねぇ。良いかい? 枠組みに囚われていては、駄目なんだよ。子が死んだ母親が悲しいという空想、同情しなければならないという先入観。例えば、お金持ちになったら裕福で幸せです、と言う、貧乏人の考えと、あまり差が無い」

 謙翁はそう言いながら座ると、視線で周建にも座るように促した。そして茶の用意をしながら続ける。

「同情心を養うために、これから頑張って努力するので、弟子にして下さい――と、私には聞こえたよ。断る」

「違います」

「どう違うの?」

「俺はもっと……なにかしてあげたいと思った時に、自分の気持ちをそのままに、御仏の教えのままに、手を差し伸べられる人間になりたいんだ。立ち止まりたい時に、自由に立ち止れるような人間になりたい。それが、御仏の心だ」

 周建はそう言うと、俯いた。

「あの日、お師匠様は、俺より一歩早かったんじゃない。俺より素直に行動出来ただけだ」

 それを聞くと、謙翁が少し思案するような眼差しになった。茶の用意を終えて、それを周建の前に置く。高級な茶ではなく、民衆が飲むような、之布岐しぶきを煮出したお茶だ。

「それも、私には教えられない」

「どうしてですか?」

「私も、素直な言動を、学んでいる最中だからだよ」

 謙翁の声が明るさを帯びた。周建が顔を上げると、謙翁が柔らかく笑っていた。

「その点では、この前素直に怒ってみせた、まだ君の子供の部分の方が、私よりも優れているかもしれない」

「お師匠様……」

「お互いに学んでいく、生涯が勉強となる――それでも良いのかな?」

「はい!」

「あとは、本当に、全てを捨てたような貧乏生活に、周建くんは耐えられる?」

「耐えてみせます!」

 手を握り締めて周建が言うと、謙翁が喉で笑った。それからお茶を手に取ると、周建にも勧める。二人でお茶を飲みながら、改めて向かい合った。

「まず、弟子とするなら、最初に渡しておくものがある」

「なんでしょうか?」

「うん、これ」

 そう言うと、謙翁が一枚の札を取り出した。

「滅淫欲我慢陀羅尼と言う、文殊菩薩の真言なんだけどね」

「はぁ……? 俺は、禁欲は守っていますが」

「君が守っていても、周囲が守らないとね。私も守っているんだけれど、周囲が寄ってきて困ってねぇ。常に複数枚持ち歩いているから、弟子になるなら、君にも一枚あげるよ」

「どういう事ですか?」

「これはね、モテすぎた時に、身を守ってくれるんだよ。周建くんは、ちょっと目を惹くからね。私ほどではないけど」

 手渡された札を見て、周建が目を細くした。

「師匠が、モテる?」

「どうしてそんなに不審そうなの?」

「そのだらしのない格好で? 俺には理解できないです」

「私は格好ではなく、顔の作りの話をしたつもりだったんだけれど……しかし、格好か。それもまた、固定観念の一つだ」

 謙翁は、長い髪を指先でつまみながら、唇で弧を描く。

「どうして僧は髪を剃るんだったかな?」

「それは、余計なものに惑わされないためです」

「うん。しかし髪の毛は、元々存在するわけだよね? 本当に余計なものなのかなぁ?」

「え?」

「大体、髪の毛があるからといって、余計なものに惑わされるかい? 君は、禁欲しているなら、目の前に肉感的な美女がいても惑わされないんでしょう? 私はグラっとくる自信があるけどね」

 これまでに考えた事の無かった周建は、謙翁の茶色い髪を見た。

「剃髪して豪華な五条袈裟じゃなければならないというのが、もう既にある種の先入観なんだよ。それは、人間の髪の色は黒いという考えと同じだ」

「師匠の髪の色は、少し変わっていますね」

「だろう? 色々な人間がいるんだよ。同じ人間でも、人の数だけ違いもあるしね。その中には、長生きすれば分かる事もある。私も、君よりは長く生きているから、そういう意味では、教えられる事が多いかもしれないね」

 この日から、西金寺での二人の生活が始まった。

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