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第4話 意識する

 ――ヴェルディがおかしな事を言うから悪いのである。

 カルナは、ヴェルディといると、次第に胸騒ぎがするようになってしまった。意識してみると、ヴェルディは本当に優しくて、いちいち格好良いのである。本日もお風呂上がりには、水の入ったグラスを、ヴェルディは差し出してくれた。カルナには出来無い気遣いである。既に枯月の三週目を迎えていて、季節はほとんど冬と言える。学園生活も三週間目に突入していた。

 第一印象が悪かったのが嘘のようになり、よく笑うようになったヴェルディの優しさに触れていると、カルナはドキリとしてしまう。一人、机の前に座り、カルナはノートを見た。もうすぐ、入学後初めてのテストがあるのだ。そろそろ自習もしなければならないだろう。

「なにこれ。こんなの講義でやったかな?」

 教科書を開いて、カルナは首を捻った。配られたプリントと照らし合わせてみるが、さっぱり分からない。本日取り掛かっているのは、一番難しい、算学の問題だ。算学は、占い学等でも用いる為、必修となっている。試験は紙の試験と実技試験があるそうだった。

「全然分からない」

「どこが分からないんだ?」

 その時、ヴェルディが入浴を終えて戻ってきた。濡れている黒髪を一瞥しながら、カルナは溜息をついた。

「ここ」

「……上の式で足し算が間違っているからじゃないか」

「え?」

 慌てて見直すと、指摘された通りだった。カルナは店番をしていた事もあるので、足し算だけは得意だと思っていたのだが、紙にすると全然ダメだったらしい。

「本当だ」

「それと教科書より、配られている資料集を見た方が、解説が丁寧だ」

「そうなの?」

「ああ。算学はその他にも、学外のものだが、こういう参考書もある。ただこちらの参考書は途中式を省いて書いてある」

 隣の席に一度戻り、ヴェルディが何冊かの参考書を持ってきた。それからカルナのノートを指でなぞる。

「上の間違いも、公式の途中の引き算を間違っているな」

「う……」

 足し算と引き算は、幼子でも習う。カルナは恥ずかしくなってしまった。

「ここは――」

 ヴェルディがカルナの後ろに立ち、覗き込むようにしながら、一つずつ解説を始めた。距離が近い。同じシャンプーを使っているはずなのに、ヴェルディからは良い匂いがする。カルナは勉強を教えてくれるヴェルディを見て、数式ではなく、ヴェルディの横顔を見る事に必死になってしまった。やっぱりヴェルディは格好良い。教えてくれる姿が格好良い。単純に顔面という意味では無いのだ。

「カルナ?」

「ヴェルディが悪い」

「何が?」

「みんなに、こんな風に優しく教えてるの? そりゃあ惚れられるよ」

「いいや? お前にだけだ。俺の周囲は優秀な生徒が多い」

「確かに僕は馬鹿だけどさ、そ、そうじゃなくて」

「じゃあ、どういう意味だ?」

「ヴェルディって無意識のタラシだと思うよ。僕だけに、なんて言うし」

「タラシ? 俺が?」

 不服そうな顔をしたヴェルディは、それから――不意に意地の悪い顔をした。

「なるほど。俺に惚れそうなのか」

「っ、馬鹿!」

「へぇ」

 ニヤニヤとヴェルディは笑ったのだが、気持ちを見透かされたようで、カルナは赤面してしまった。真っ赤な顔でヴェルディを睨むが、迫力が無い。

「俺はただの純粋な厚意でお前に教えようかと思ったんだけどな」

「分かってるよ!」

「だが、カルナに意識されて、悪い気はしない」

「そういうのが、タラシ言葉!」

「本心だ。お前にしか言わない」

 ヴェルディはそう言うと、実に何気ない調子で、後ろからカルナを抱きしめた。硬直したカルナは目を見開く。

「ちょ、ちょっと、ヴェルディ!」

「カルナは細いな」

「そんなに体型、変わらないよ! 確かにヴェルディの方が背は高いけどさ……」

「中身は確実に俺の方が大人だと思うが」

「それは無い! ヴェルディは小さな事で悩みがちで子供みたい」

「言ってくれたな。人参も食べられないくせに」

「野菜全部ダメな人に言われたくないよ! 離して!」

 カルナが唇を尖らせると、喉で笑ってから、ヴェルディが体を離した。消えた温度が少しばかり名残惜しい。火照った頬を冷ますようにパタパタと手で風を送りながら、カルナが続ける。

「簡単に人に抱きついたりしたら、そりゃあ誤解させる結果になるよ」

「カルナになら、誤解されても構わない。誤解じゃなくするからな」

「どういう事?」

「恋人同士になれば良いんだろう?」

「な」

「カルナは俺が嫌いか?」

 両頬を持ち上げてヴェルディが言う。そうしながら彼は自分の机の前に戻った。まだ朱い顔で、カルナは目を細める。からかわれているのは癪であるが、正直嬉しくもある。最近、以前よりもずっとヴェルディとの距離を近く感じるからだ。

「嫌いじゃないけどさ……」

「俺はカルナが好きだぞ」

「ほらまた、タラシ言葉!」

「心外だな。俺は本当に好きでなければ、こんな事は言わない」

「好きって……それってどういう事? 具体的には?」

「例えばお前をもっと抱きしめたいし、キスもしたい」

「えっ」

 本当に具体的な言葉が返ってきたものだから、カルナは慌てた。椅子に座ったままカルナに向き直ったヴェルディは、長い膝を組む。そしてまじまじとカルナを見た。

「キスがしたい」

「……キスって……」

 カルナは顔から火が出るかと思った。手にしていた鉛筆を取り落とす。目を見開いたカルナは、何か言おうと唇をパクパクと動かしたが、何も言葉が出てこない。するとその時、ヴェルディが真剣な瞳をした。怜悧に変わった紫闇の瞳を見て、カルナはゾクリとした。初めて見る表情だった。強い眼差しに、カルナは言葉に詰まる。緊張しながら飲み込んだ唾液が、妙に大きく音を立てた気がした。

「嫌か?」

「……」

「考えておいてくれ。俺は本気だ」

 ヴェルディはそう言うと机に向き直り、参考書を開いた。一気に気が抜けて、カルナも慌てて教科書に視線を落としたが、この日は何も頭に入ってこなかった。

 翌日は、ヴェルディの事を思い出して、ずっとぼんやりとして過ごしていた為、講義が頭にさっぱり入ってこなかった。テスト前なのにこれはまずい。起きてはいるのだが、ヴェルディの事で頭がいっぱいなのである。

「勉強してるか?」

 昼食の席で、ユイスが聞いた。本日も二人で大広間にいる。ヴェルディが座る集団の席をついつい見ていたカルナは、その声で我に返った。

「え? なんて?」

「だから、勉強……お前、熱でもあるのか? 顔が赤いぞ?」

 まさかヴェルディを見ていて赤面したとは言えない。ブンブンとカルナは首を振る。

「何でもないよ。元気だよ」

「そっか? で、勉強だよ、勉強」

「昨日はちょっとだけ算学の復習をしたよ」

 何一つ記憶に残っていないが、ヴェルディが教えてくれた事は鮮明に覚えていた。

「俺は占い学をやったんだけど、さっぱりだ。星の見方が難しすぎる」

「占い学はまだ手付かずなんだよね」

「午後は講義無いし、一緒に勉強するか?」

「あ、良いかも。図書館に行こう」

 こうして食後、カルナはユイスと共に、図書館へと行く事にした。静かな図書館に入り、奥の自習席に二人で陣取る。それからそれぞれ、参考書を借りに行った。一緒に魔法概論の勉強をする事にした。こうして放課後が訪れるまで、二人は集中した。ヴェルディの事を考えそうになったカルナであるが、一度始めてしまえば、目の前でユイスが頑張っているというのも手伝って、今回は無事に頭に入ってきた。それでも時折、心ここにあらずとなってしまう。ふとした瞬間に、ヴェルディの事を思い出すのだ。最近、自分の前でだけ見せてくれる柔らかな笑顔が、脳裏をよぎるのである。

 鐘が鳴り、ユイスと別れてから、食料雑貨店に立ち寄って、カルナは食材を手に入れた。食材は主にカルナが入手している。ヴェルディに任せると、野菜が冷蔵庫から消えてしまうためだ。この日の当番はカルナだったので、寮に戻ってから、本日のメニューを考える。豆とトマトのスープを最初に作りながら、パスタを茹でようかなと思案した。

 六時間目まであったらしいヴェルディが帰ってきたのは、丁度料理が完成した頃の事だった。ヴェルディが真っ直ぐにダイニングのテーブルへとやってきたので、カルナも座る。本日はボンゴレだ。

「カルナの料理はホッとする味をしているな」

「んー、僕としてはお店級のヴェルディの料理の方が好きだけど、野菜が足りない」

「……明日は善処する」

「本当? じゃあロールキャベツが良いなぁ」

「……キャベツ、か」

 材料は、カルナが入手してきたので万全である。食後、ヴェルディが皿洗いの当番なので、カルナが先に入浴した。お湯に浸かりながら、カルナは考えた。昨日のヴェルディの声を思い出す。

 ――キスしたい。

 その声を脳裏で反芻した瞬間、ボッとカルナの顔が赤くなった。意識しない方が無理である。つい、ヴェルディとキスする光景を考えてしまったのだ。泡を流しながら、鏡に映る自分の体を見る。筋肉があまりなく、貧相だ。

 なんとか入浴を終え、ヴェルディから水を受け取る。するとヴェルディが不思議そうな顔をした。

「のぼせたのか? 顔が赤いぞ。今日はいつもより長かったし」

「べ、別に、平気だよ!」

「そうか? それならば良いが」

 何度か頷いてから、続いてヴェルディが浴室へと消えた。それを見送ってから、カルナはギュッと目を閉じる。どう考えても、意識しているのは自分側だけにしか見えない。やっぱりヴェルディはタラシであると思った。

 水を飲み干してから、カルナは寝台に座った。濡れた髪をタオルで拭く。そうしながら嘆息した。ヴェルディの気持ちが分からない。本気で言っているのだろうか? そうだったら嬉しいと考えて、今度は己の内心に困惑する。

 そこへヴェルディがあがって来た。何気なく見ていたカルナと、ヴェルディの視線が重なる。二人はどちらともなく相手を見ていた。

 先に視線を逸らしたのは、ヴェルディだった。

「襲ってくれと言わんばかりだな」

「え?」

「ベッドに座っているのを見ると、目の毒だ」

「な!」

「今日は予習はしないのか?」

「……図書館で勉強してきたから、今日は良い事にする」

「そうか」

 ヴェルディはそう言いながら、カルナに歩み寄ってきた。そしてカルナの前に立つと、屈んでカルナの顔を覗きこんだ。

「じゃあ俺も今日は休むとするか」

「珍しいね」

「カルナの返事を聞かないとならないからな」

「へ?」

 ヴェルディが、長い指でカルナの顎を持ち上げた。そして正面からじっとカルナを見る。吸い寄せられるようになってしまい、カルナは視線を離せない。ヴェルディは真剣な顔をしていた。

「好きだ。俺の恋人になってくれないか?」

「!」

 カルナは目を見開いた。昨日のように流せるような状況ではなく、明確な回答を求められているのが分かる。真剣すぎるヴェルディの澄んだ瞳から、視線が離せない。端正なヴェルディの顔を見たまま、カルナは硬直していた。必死で返事を考える。

「……僕も」

 カルナは意を決した。

「僕も、ヴェルディが好き……かも」

「かも?」

「だ、だって……なんだかよく分からないけど、ヴェルディの事が頭から離れないんだよ!」

 その言葉に、ヴェルディが目を丸くした。そうして、破顔した。

「俺もずっとカルナの事ばかり考えている」

「本当?」

「ああ。キスしても良いか?」

「うん」

 同意したカルナの前で、ヴェルディが目を閉じる。そして顔を傾けると、カルナに触れるだけのキスをした。カルナは必死で息継ぎをした。初めてのキスである。それから角度を変え、何度もキスをした。それが終わった時、カルナは力が抜けた体で、ヴェルディの服を掴んだ。

「ヴェルディ……」

「ん?」

「慣れてる……」

「――それなりに経験はあるからな」

 ヴェルディほどモテるのならば、それはそうかと思いながら、カルナは小さく頷いた。以前上辺を見るだけの恋人は不要だといった事を話していたヴェルディだが、過去には恋人がいた事もあるのかもしれない。

 そんな事を考えると僅かに胸が疼いた。

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