「んぐ……ぅぐぐ……ぐぐ」
夢中で私の唇を貪っていた彼が、急に苦しみ出した。
時折歯ぎしりに呻き声が混ざる。
「どうしたの? 具合……悪いの?」
「なん……でもない」
と苦しそうに答えると、彼は私を抱き上げてカウンターから下ろした。
「……済まない。こんな……はずじゃ……なか、た。
お願いだ、帰ってくれ。ミラ……ここにはもう……二度と…………来ないで」
と、彼は口元を押さえて苦しそうに言うと、私をキッチンの外へと強引に押しやった。
「来るなって、どういうこと? ねえ、どこか具合悪いの?
先輩、ちゃんと教えて」
「帰れ!」
と叫ぶなり、彼は壁を強く叩いた。
「私じゃ役に立てないの? 子供だから?」
「違う! とにかく今は帰れ!」
「やだああぁっ、やだやだぁぁ!」
パニックを起こした私は、必死に彼の腰に抱きついた。
「違う、違うんだっ……ぐッうううッッ!」
頭上で彼がくぐもった叫び声を上げた。
一瞬我に返った私の目に入ったのは、鮮血に染まった彼のシャツの袖と、そこに深く打ち込まれた彼自身の白い牙だった。
「……い、いやあぁぁぁ、血、血がぁっ」
彼はその場に膝を突き、噛んだ腕を庇うように手で押さえると、顔を背けて俯いた。
「……大丈夫。すぐ止まる……」
パニックの最中だった私は、彼が
「せん……ぱいに、き、牙……?」
「……ごめん。ごめんよ。君には隠し事ばかりで……もう、ダメかな……僕たち……」
と彼は床にうずくまり、震える声で言った。
「え……で、でも……昼間も平気で……え?」
混乱したまま私も床にペタリと座り込んだ。
このときの私の感情は、『怖い』よりも、『何故』の方が勝っていたのかもしれない。
私がおとなしくなったせいか、落ち着きを取り戻した彼は、ゆっくり話し始めた。
「……君の想像は、半分は合っているよ。
僕はね、
誰もが『人外』を空想上の生き物だと思っていたのは、もう百年も前のこと。
ダンピールの存在くらい、知識としては知っていた。
でも、たとえ彼等が合法的に血液を調達していたとしても、あまりいい気はしない。残念だけど、それがわたしたち一般市民のふつうの感覚だった。
「そう……だったんだ。さっきの『飢えてる』って、このことだったのね……分かってあげられなくてごめんね……先輩」
「分からなくて当然だ。君は悪くない……」
彼は力なくそう言った。
「今度こそ、僕のことイヤになったろう?」
「ううん……その程度のことで先輩をキライになりたくない。せっかく先輩のこと好きになれたのに、キライになったり出来ないよ!」
「ミラ……ありがとう……愛してるよ」
どちらともなく抱き合うと、血で滲んだ彼の腕が目に入った。
きっと吸血の衝動を抑えるために、自分の腕に噛みついたんだ……。
こんなに先輩を追い詰めたのは、私のせい。
彼は何も悪いことしてないのに……。
傷見せて、と私は彼の袖をまくり上げると腕は無数の噛み傷で、ひどい状態だった。
「どうして……」
「君を傷付けるわけにはいかないだろう?」
と言いながら、彼は私の髪を撫で付けた。
「……普段はその……血は、どうしてるの?」
「注射器で自分の腕から採血して飲んでる」
「へぇ。他人のじゃなくても、いいんだ……」
「あまりうれしくはない。その場しのぎさ。何かと忙しく、買いに行くヒマがなくてね。血液は保存の効かないものだから、タイミングによっては時間がかかるんだ」
(やっぱり、私のせいなのかな……)
「じゃ、この腕は?」
と、新しい噛み傷にハンカチを巻き付けながら彼に尋ねた。
「あんまり君が可愛くて、出先でついつい欲しくなってしまった時、噛んで紛らわしてた」
と言って、彼はにやけた顔で頭をかいた。
「ああ、やっぱり私のせいじゃない! 今日から噛むの禁止! 私の血を飲みなさい!」
「バカ言うな。誰が大事な君の血を……」
「先輩が苦しむ方がイヤなの! 体の傷よりも心の傷の方が痛いの!
だからお願い!」
う~、としばらく睨み合う私と先輩……。
「そりゃ……愛しい君の血は欲しいけど……」
「先輩が嫌がっても、自分で血を採って、先輩の口に無理矢理流し込んでやるからね!」
「……わかったよ。言い出したら本気でやりかねないからなぁ君は。じゃ、少しだけね」
彼は『素人が勝手に採血なんかしたら大変なことになるんだぞ』とお説教した後、私を抱いて寝室に連れて行き、ベッドに横たえた。
「注射の方がイヤって、おかしな子だなぁ」
そう言って彼はベッドの傍らにひざまずくと、そっと私の首筋にキスをして、静かに牙を立てた。
最初チクっとしたけど、その後は大して痛くないので、拍子抜けしちゃった。
「ねぇ~先輩、ちゃんとやってる? あんまり『噛まれてる感』がないんだけど?」
「……やってるよ。勘違いしてないか?
血が欲しいだけで、噛みたいんじゃないんだよ」
「ふぅん……」
そう言うと、彼は遠慮がちに、チュッと小さく音を立てて、私の血を啜りだした。
「えーっと、……おいしい?」
「……うん。最高だよ。もう、落ち着いて味わえないじゃないか、大人しくしてくれよ」
「えへへ……でも私のだけにしてよ。他の子の血は絶対吸っちゃだめなんだからね?」
「分かってる。ありがとう、ミラ」
一生懸命横目で彼の顔をのぞき込むと、本当にうれしそうに血を吸っていた。
よかった。やっと先輩が笑顔に戻ってくれた。これからは、先輩のためにたくさんホウレンソウ食べるからね。