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第278話【ルーカスSide3】



「ルーカス様」


 ナナシに呼びかけられて、ハッと、現実へと一気に引き戻された。


 気付いたら、バーカウンターの前に置かれた背の高い丸椅子から立ち上がっていた俺は、無意識下でナナシに掴みかかろうとしていたんだと思う。


 失態も失態、本当に大失態だ。


 カッとなって頭に血が上るだけでもあり得ないのに、あろうことか、自分の表情さえ取り繕うことが出来なかった。


 自分自身の盛大なやらかしに、唇を噛みしめたくなる気持ちを抑えながら、今さらになって平常心を取り戻す。


「……あなたが、そうなる気持ち、僕にも分かりますよ」


「……っ、」


 ――嗚呼、ヤバいな……。


 今、口を開いたら、多分『お前に何が分かるんだ……っ』って罵倒してしまう。


 頭の中で、そう分かっているからこそ。


 俺は呼吸を整えるために『ハァ……っ』と長い溜息にも似た様な吐息を溢したあとで、大人しく自分がさっきまで座っていた椅子に着席し直した。


 それから、充分に時間をおいてから……。


「……俺の気持ちが分かるって、ナナシも何かそういう思いをしたことでもあるの?」


 と、口にすれば。


 仮面の奥で、本当にクッと、小さく“”を。


 ……多分、溢したんだと思う。


 一瞬のことだったし、本当に目の前の男に注意を向けていなければ、分からないくらいの僅かな反応でしかなかったけど……。


「はい。……大切なものが、沢山増えていく。

 その度に、をしてきました」


 そうして。


 ぽつり、と、抑揚のない声で声を出すナナシは確かに普段通りに無機質な筈なのに。


 その姿から、どこか落ち込んでいるようにもとれるような……。


 “悲哀”が感じられて、俺はあまりにも珍しいその姿に思わずギョッとしながら、目を見開いた。


 誰よりも優しくて、何よりも人に尽くしていた、僕だけの“唯一”は、もうこの世界に存在しない。

 蹂躙じゅうりんされて、これでもかってくらい尊厳を奪われて、けがされて。

 “僕の同胞”もその殆どが、命を奪われてしまった。

 ……途方もないくらいの時間、1人で彷徨さまよったような感覚がします」


 そうして、どこか……。


 虚ろというか、今ここではない、遠いどこかを思い出すかのようにそう言って。


「たった一つ、僕達の未来に舞い降りてくれた奇跡、“”がなければ。

 きっと、僕はこの世の全てに絶望していたことでしょう」


 と、はっきりとした口調でそう言ってくるナナシの言葉を聞きながら。


 濁して、ぼかされたその内容に思いを馳せる。


【蹂躙されて、これでもかってくらい尊厳を奪われて、穢されてきた、ねぇ……】


 そんな思いをしてきた状況に、パッと直ぐに思い至ったのは……。


 俺の妹であるソフィアや、お姫様みたいな魔女か。


 若しくは騎士のお兄さんみたいなノクスの民で、生まれつき赤を持っている人間の可能性だけど。


 くすんだ緑色の髪を持っている、ナナシにその特徴は当てはまらない。


 もしかしたら、その仮面の下の瞳は“赤色”なのかもしれないけど。


 実際、その仮面の下がどうなっているのか分からない以上、俺にはあくまでも推測することしか出来ないし。


 今、もたらされた情報だけでは、何もかもが足りてなさすぎて、その全容に見当を付けるのは当然だけど無理だ。


 後は、ナナシが“僕の同胞”と呼んでいる存在が、スラムで暮らしている人間のことを言っているのなら。


 そこで出会ってきた仲間とも呼べる人達が傷つけられ、命を奪われるような瞬間を見てきたとも取れるけど……。


 そうなると……。


 話の中で“僕だけの唯一”と、ナナシが表現している存在は、ナナシの恋人とかだったりするのだろうか。


 ――それに


【たった一つ、僕達の未来に舞い降りてくれた奇跡、“希望の光”】


 ってのも、何なのか……。


 今一、ピンとこない。


 どちらにせよ、今の段階で、あれこれと頭を悩ませて推測するには……。


 あまりにも軸となるピースが欠けているし、これ以上の深追いも出来ないだろう。


 それに、今、重要なのはそこじゃない。


 ナナシの生い立ちや目的については、これから一緒に行動することが増えるかもしれない以上、知っておきたいとは思うけど。


 それでも、俺にとって……。


 一番優先しなければいけないものは、いつだって、たった一つしかないんだから。


「それで? ソフィアを助ける方法は、きちんと教えてくれるんだよね……?」


 肝心なことに関しては、きちんと質問して言質げんちを取っておかなければいけなかった。


 これで、その情報をただ“ちらつかされただけ”で、手に入れられないなんてことが起きないなように。


 何としてでも、必ず、は交わしておく必要がある。


 俺の問いかけに、ナナシは仮面を付けたまま、無言でこくりと頷いたあと。


「はい。……報酬は“成功報酬”として、後払いになりますが。

 時期が来たら、おのずとその情報は、あなたの耳に入るようになるでしょう」


 と、どこか他人事ひとごとのように声を出した。


【時期が来たら、自ずとその情報が、俺の耳に入るって……、一体どういう意味なんだ?】


 ――ナナシから、直接聞けるって訳じゃないのか……っ?


「……っ、却下だ。

 それじゃ、間に合わないかもしれないっ!

 もう、ソフィアには、残された時間がないんだよっ……!」


 頭の中で色々と考えた結果、それでも今、俺に残された時間を考えると……。


 成功報酬として、後払いになるというのは勿論、合理的に考えたら理解することは出来るけど。


 それじゃ、今も尚、日に日に弱っていっているソフィアのことを思えば、間に合わないかもしれないし……。


 結局、助けられないんじゃないかという、焦燥感にも似た様な不安が湧き上がってくる。


 別にナナシが悪い訳でもないのに、責めるような声色になった俺に。


「えぇ、分かってます。……だから、あなたには直ぐに動いて貰う必要がある」


 と、何処までも機械的というか……。


 ナナシは冷静に落ち着き払っていて、淡々としていた。


「……一体、俺は、テレーゼ様に何をすればいい訳?」


 その態度に眉を寄せ。


 決して穏やかじゃない心中を押し殺しながら、熱くなった自分自身をクールダウンさせつつ、俺はナナシに問いかける。


 まだ、何をすればいいのかも……。


 これから先、俺自身がどういう風に動けばいいのかも、計画の一つも聞いていないんだから、慎重にだってなる。


 此処に来て、さっき聞いたナナシの生い立ちに触れるような情報が、頭の中によぎったのは……。


 以前、ナナシが俺に接触してきたとき。


 『テレーゼ様に、何か強い恨みがあるのかな』って、一瞬でも思ったことを思い出したからだ。


 テレーゼ様の苛烈な性格で、あの方が政治的に優位に立つために……。


 今まで策略として巡らせてきたことの中で、ナナシの身内が何らかの被害にあってしまって、大変な状況に追い込まれてしまったという可能性。


 あの時は、そんな雰囲気でもないと思って、腑に落ちなかったからその考えを除外したけど。


 今さっきの会話の内容を考えれば。


 ナナシにとって“唯一”と呼べる程に大切な存在が、既に他界しているであろうことだけは事実なんだろうし。


 それで、テレーゼ様に強い恨みを持っていると言われれば。


 ナナシから与えられた情報だけで……。


 その過去と目的を組み立てて仮説を立てると、何ら可笑しくはないし、寧ろ辻褄つじつまは合う。


 ただ、どうにも、俺自身の直感的な部分が、『それが理由では無い』と言っているような気もするから……。


 自分の勘を信じるって意味でも、まだ他に理由が隠されているんじゃないかとは疑っているけど。


 俺の探るような目線と、訝しげな声色にも、特に動じることもなく。


「そう言えば、ルーカス様、さっき、天……あの子のこと、庇ってましたよね?」


 と……。


 どこまでもマイペースに。


 俺の質問には全く答える素振りを見せず、急に違う話題を振られて、面食らってしまう。


【てん……? って何だ? あの子って、誰のことを言ってる?】


 内心でそう思いながら……。


「ごめん、質問の意図がよく分からないんだけど、あの子って誰のことを言ってるの?」


 と、俺が問いかければ。


「あなたが、“お姫様”と呼んでいる、この国の皇女様のことです」


 と、淡々とした声色で言葉が返ってきた。


 そこで、俺は、さっき……。


 お姫様に貰ったクッキーのお礼に、何かプレゼントを贈った方がいいかと、貴族のご令嬢達に向かって話しかけたことを思い出す。


 確かに、あの時、俺がお姫様のことを庇ったというのなら、その通りだけど。


 ――今、その話に、んだろうか?


 あっちこっち話が飛んでいるようにも思えるような、全く予想もしていなかった斜め上の問いかけで。


 相変わらず、此方のペースを強引に崩されて。


 ナナシのペースに持って行かれている状況に『あまりよくないな……』と内心で溜息を吐きたくなりながらも。


「あぁ、あれね。……俺は、人として当然のことをしたまでだけど……?

 オフィシャルな場じゃないとはいえ、皇族を表立って侮辱するのは、良くないことでしょ?」


 と、はっきりとした口調で説明する。


 殿下と仲が良いってだけじゃなくて、お姫様のことだって別に嫌いな訳じゃないし。


 知り合いがああいう風に貶されていたら怒るだけの、くらいは、俺だって持ち合わせている。


 俺の言葉に、ナナシは俺の方を見ることもせずに。


「そうなんですか……?

 僕は、てっきり、からくるものなのかと思ってました。

 あなたが、あの子に“毒を手配して、贈り物として届けた”ことへの」


 と、ぽつりと溢すように声を出した……。


 だけど、決して大きくない声の筈のそれは、この狭い酒場バーの規模を考えると俺の耳には勿論のこと……。


 さっきから、目の前で俺たちの方を気にするようにチラチラと見つつ、グラスを磨いていたアーサーにもはっきりと届いただろう。


 僅かに、目を見開くような表情で俺のことを見てくるアーサーに……。


 この男は俺の秘密そのことに関しては、今、この瞬間まで知らなかったんだろうと思う。


【……本当に油断出来ないんだけど、一体、どこまで知られてるんだよ】


 ナナシと関わる上では、隠し事なんて欠片も出来そうにないな、と……。


 ほんの僅かばかり、歯噛みしながらも。


「お姫様に毒を直接、送ったのは俺じゃ無い。……手配したのもね。

 俺は、あくまで、ただ、その切っ掛けを与えただけに過ぎないし、あの事件には直接的に関与はしていない」


 と、声に出す。


 咄嗟に、自分が出したにしては……。


 あまりにも、酷く掠れたような声色になってしまったのを内心で苦々しく思う。


「……はい、勿論分かってますよ。

 あの女の依頼に関しては、多分、その生死は問わない内容だったんでしょうけど。

 あなた自身は、最初から“”んだろうし。

 自分たちに非がないように裏で手を回しながら、“直接的に関与”をしなかったことで。

 あなたが、自分自身を“正当化”させて。

 最後の一線だけは越えていないと、必要以上に罪悪感を持たないように、自分のことを守っていることも」


「……っ、!」


 そうして、まるで責める様なニュアンスで。


 見透かされるかのようにそう言われて、俺はグッと息を呑み込んだあとで、小さく溜息を溢した。


 嘘なんて吐くつもりもなかったけど。


 ここまで知られている以上、ナナシに嘘を通すことなど不可能だろう。


 本当に、こっちは、この男の情報を手に入れることすら一苦労なのに、不公平すぎるったらありゃしない。


「毒は、“”を使ったんですよね。

 あの女の依頼がいつ入るか分からないからと、スラム街にある危険な店には日頃から出入りしていたあなたにとって、そんなものは朝飯前だったはず。

 その過程で、偶然、貴族間で行われている“裏カジノの存在”にも辿り着いて、この国の事件について貢献することも出来たといった所でしょうか」


 それから、ナナシにそう言われて、俺は眉を寄せながらも、正直にこくりと頷いてその言葉を肯定した。


 どこで、その情報をナナシに知られたのかはさっぱり分からないけど。


 スラム街にいる仲間から情報が入ってきたと見るのが妥当だろうか。


 あの時の俺が……。


 違法薬物が貴族に流れていると知った過程で、スラムで暮らしている人間に聞き込みをして回った記憶はある。


 その時、デルタ、エプシロン、ゼータというから適当に名前を付けたとしか思えない3人組とか……。


 普段は、目立たないようにスラムでは偽名を使って行動していたけど。


 その時ばかりは、他にも何人か積極的に、自分の立場をちらつかせつつ。


 違法な商売アコギな商売をしている人間たちに、『この件で取り締まられることのないよう、黙ってあげる』代わりに情報提供を求めたりしていたから。


 ナナシがその内の誰かから事情を聞いていても可笑しくはないだろう。


 都市伝説みたいなものだけど。


 この国のスラム街には『凄腕の情報屋』がいるだなんて噂もあるくらいだし……。


 そう言えば、“エプシロン”という男は、ナナシと同じようにくすんだ緑色の髪をしていたな。


 ナナシとは、似ても似つかぬ三下感丸出しの男だったし。


 俺も前に思い出した時は関係ないとあっさりと切り捨てたけど。


【もしかして、何か関わりがあったりするんだろうか……?】


 年齢的にも今のナナシと同じくらいだった筈だから、あり得るとしたら歳の近い兄弟、若しくは双子とかだろうか。


 ――まさか、ナナシがエプシロンって訳ではないだろう。


 どこまでもマイペースなナナシが、器用にを演じ分けられるとは到底思えない。


 もしも、そうだとしたら、今、此処にいる“ナナシ”自体も演じているかもしれないってことになるだろうし。


 流石にこの『マイペースで、独特な性格』が“姿”であるとは、どうにも考えにくかった。 


「俺も一つだけ、聞いていい?

 スラム街にいる“エプシロン”って男が、ナナシと同じようなをしていたんだけど。

 君と、何か、関係があったりするの? ……例えば、双子の兄弟とか……?」


「いいえ。……僕もスラムにいて結構長いですけど、該当する人間には全く心当たりがありませんね。

 スラムと一口に言っても広いですから」


「……そう」


 なるべく些細な変化でも見逃さないようにと、横目でナナシの様子をつぶさに観察して見たけれど。


 抑揚のない声と、仮面を付けていて見ることが出来ない表情に……。


 誤魔化しているのか、それとも本当のことを言っているのかさえ分からないので、俺はそれ以上考えることをやめた。


 ナナシに、『どこまで俺のことを知られているのか』などという甘い考えなんて、最早残っていない。


 基本的に、ナナシに俺のことは、文字通り“全部”知られていると思った方がいいだろう。


「あの子には……。

 お姫様には、悪いことをしたな、って思う部分は確かにあるよ」


 あの時のことを……。


 ――決して、“仕方がなかった”だなんて、言い訳をするようなつもりもない。


 俺自身、テレーゼ様の意を汲みながらも、行動したということに嘘偽りなどないのだから。


 その上で、自分が人を殺してしまうような、その一線だけはどうしても越えられず。


 後々あとあと、そのことで問題にならないように、上手く立ち回った自覚はある。


 テレーゼ様からの依頼もお姫様の“生死”を問うようなものじゃなかったし。


 あの時は、テレーゼ様のお姫様へと向ける感情も、今ほど過激さを増していなかったように思えるから。


 陛下からの目が向けられ始めたお姫様が、誰かから毒を送られたことで……。


 そのことに傷つき、万が一にも殿下と対立しないように大人しくさせるということが一番の目的で。


 あの方も口では、まるで死んでしまっても仕方が無いとでもいうかのように……。


 お姫様が死んでしまうような可能性を示唆しさしていなかった訳じゃないけど。


 あくまでもプレゼントして贈られた“毒だけ”で、殺すようなつもりはなかっただろう。


 ――俺はその意図を正確に汲んだだけ


 後は、ナナシの言う様に……。


 ってのも、ある。


 それでも、今、自分の胸がギリっと軋むように痛んだのは、お姫様あの子に近づき過ぎたことへの弊害から来るものだと俺自身、分かっていた。


 当時のことを思い出しながら、眉を寄せ、険しい表情を浮かべる俺の方へと……。


 ぐるんと顔を横にして仮面ごと視線を向けながら。


 ナナシがまるで逃がさないとでも言うように、俺の方を仮面越しに見つめてくる。


「ルーカス様、もう一度、聞きますね。

 今日、あなたが“皇女様”を庇った理由は、本当に、“ただ人として当然のことをしたまで”ですか?」


「……っ、何が言いたいの、……?」


 そうして、再びナナシにそう問いかけられて。


 俺は怪訝な自身の表情を隠しもせずに、ナナシの方へと逆に質問を仕返した。


「いえ、ただ、以前のあなたなら、そんなには出なかったんじゃないかと思いまして。

 仮に知り合いのことを言われて、内心で苛立ちを覚えたとしても。

 そこに本人がいなければ……。

 適当に、いつものように貼り付けたその笑みで、その場のお茶というものを濁しておけば、それで済む話ですからね」


 それから、ナナシにそう言われて……。


 俺は俯きながら、グラスを持っていた自分の手元を遊ばせ、中に残っていたジントニックを溶けかけた氷と一緒にカランと揺らした。


 ――嗚呼、本当に嫌になるなァ


 自分でも気付かないように、見ないように、してきた自覚はあるのにさぁ。


 勝手に


【お姫様に、“特別な感情”を抱いているのは、騎士のお兄さんと殿下の2人だけで充分でしょ?】


 それが例え、自分だけの“大切な、ただ1人”として、特別に思ったり。


 家族としての愛情や、親愛、それ以外の、どこか執着にも近い様なもので……。


 、“


 内心でそう思いながら……。


 手元で遊ばせていたグラスを持ち上げて、一口、中の透明な酒を味わうように口に含む。


 そうして、俺は。


 テレーゼ様に依頼されて、ミュラトール伯爵を使ってお姫様に毒入りのプレゼントが贈られた経緯と、過去のこと……。


 それから、今この場にはいない、殿下や彼女に対する自分の感情に、暫く無言で思いを馳せるように古びた木目調のカウンターテーブルへと視線を落とした。


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