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第276話【ルーカスSide2】



 はっきりとそう告げた俺の言葉は、予想通りのものだったのか。


 それとも、ただ単純に、俺がナナシの提案に乗ろうが乗るまいが、特にその計画に変更が無いと自負しているのか。


 特別驚く様子すら見せずに、ナナシは先ほどから椅子に座ったまま微動だにすらしていない。


 それから間を開けることもなく。


 此方の様子を盗み見するように、ちらちらと窺っていたアーサーと呼ばれていた男が、そっと無言で俺たちに向かってカクテルを差し出してきた。


 


 独特な苦みや甘みが特徴的で、飲み口はビター、爽やかなライムの香りが漂うさっぱりとしたドライな味わい。


 ここら辺では、よく飲まれる酒の一つではある。


 もしも俺がナナシの立場だったなら……。


 こういう時、こんな場所で出す酒の種類にも、そのにもかなり気を遣うだろう。


 ジントニックのカクテル言葉は、『強い意思』。


 もしくは『いつも希望を捨てないあなたへ』だけど……。


 正直、ナナシが何を考えているのか俺の方から読み取ることが出来ない以上、あれこれと考えるだけ無駄な気がする。


 そもそも、普通の人が知っているべき一般常識すら危ういナナシが、そういうことをきちんと理解した上で、酒を出してきているのかどうかすら怪しいし……。


 俺が頭の中でそう結論付けて、考えることをやめた瞬間。



 と、まるで、タイミングを見計らったかのように、ナナシからそう言われて。


「……っ、」


 小さく息を呑んだあとで、そっと窺う様にナナシの方を見る。


「確か、こういうの、カクテル言葉って言うんでしたよね?」


 そうして、抑揚のない声で、そう言われて。


 瞬き、一つしてから『……知ってたのか』と思わず声に出せば。


 無言でナナシがこくりと頷いたのが見えた。


 その顔は、やっぱり仮面を付けている所為で、窺い知ることは出来ないけど。


 『希望を捨てないあなたへ』っていう、カクテル言葉が“”を指しているのだとしたら、とんだ皮肉だなと内心で思う。


 目の前の、今にも消えてしまいそうな命を保つために、運命に抗って……。


 希望を捨てたくなくて、諦めたくなくて、足掻いて藻掻いて、自分の意思で闇の中へと歩むと決めて。


 挙げ句、どうすることも出来ずに身動きすら取れなくなって。


 二進にっち三進さっちもいかなくなった結果が、今の俺なのだから……。


「ルーカス様は、僕の話に100%乗ると思いますよ」


 それから……。


 俺との会話の遣り取りで、間を置くこともせず。


 ナナシから、ぽつりと吐き出すように、空気と一緒に漏れ出てきたその言葉に眉を寄せる。


「……断言出来るってことは、俺を納得させるだけの材料があるってことだ?」


「はい、勿論。……じゃなきゃ、こんな提案、そもそも持ち込んでいません」


 俺の問いかけに、間髪入れずに断言するような物言いで、降ってくる、声。


 相変わらず、表情は分からない上に、無機質すぎる声色で、表面だけだと何を考えているのか全く読ませないナナシだから。


 その真意がどこにあるのか探るのだけでも一苦労なんだけど……。


「まぁ、もっとも。

 あなたがここに来た時点で、僕の考えには9割方乗るつもりだと認識していましたが。

 これから先、もしも自分の手で助けられるものがあるのだとしたら、あなたはそれを拒むことは出来ない。

 “”、あなただからこそ」


 続けざまに、まるで“俺の状況を理解している”と言わんばかりのナナシからそう言われて、俺は小さく溜息を溢した。


 ――幼くて、何も知らない“無知な子ども”のような一面を見せてきたかと思いきや。


 人の情報を握って、それらを上手いことちらつかせ、手玉に取ってくるような賢い一面も持ち合わせている。


 だからこそ、どこか“ちぐはぐ”と形容すればいいだろうか。


 ナナシという存在を語る上での、このアンバランスさは“”としか言えなかった。


【俺がここに来た時点で9割方、ナナシの提案を受け入れると認識してた、ねぇ……】


 それを100%にするだけの、説得材料は用意しているってことが言いたいんだろう。


 確かに、スラム街の古びた教会に白紙の手紙を持って、ナナシにコンタクトを取ると決めるまでにも。


 何度も何度も、限られた情報の中で、どうするのが一番良いことなのかと思考を割いてきた。


 だから今日、この場が設けられる間にも、さっきナナシに対して口では『会って話を聞いてみるだけでも、悪くないかなって思っただけだよ』と、伝えたけど。


 決して……。


 短絡的に考えて行動した訳じゃない。


 ――家族のことも、自分の今後も関わってくるんだ。


 そんな風に簡単に決められるような話じゃないから、ナナシの言う通り、俺がナナシに会うまでにも、それなりの決意を固めてきたことは嘘偽りのない事実だった。


「一つだけ教えて欲しいんだけど、その、助けられる人選に“俺の家族”が含まれていることは確かなんだよね?」


「はい、勿論。

 評価も多少は落ちるでしょうし、少し世間が揺れるとは思いますが、前にもお話した通り、ルーカス様さえその気になれば……。

 あなたの大切な家族だけじゃなく、“エヴァンズ”という、由緒正しい侯爵家のことも守ることが出来るでしょう」


 そうして、俺の問いかけに返ってきた……。


 単調で、抑揚の無いナナシの言葉を聞きながら。


 俺は折角だからと、アーサーが作ってくれたジントニックを呑むために透明なグラスに口をつけた。


 こういう話をするにしては、あまりにもライムの風味が爽やかすぎて……。


 無色透明の何の色も付いていないグラス越しのカクテルに視線を向ける。


 そうして……。


 カラン、と。


 中の氷が一度だけ、グラスの中で転がるように鳴るのを確認してから、口元を緩めて笑みを溢した。


 ――ナナシは多分、嘘なんて欠片も吐いていない。


 家族を助けるために、どういう方法を取ればいいのか、俺には思いつかないようなことをナナシ自体は思いついているんだろう。


 そうして、その“守る”とナナシが言ってくれている中に“俺”が入っていないということも、ナナシの言葉で、はっきりと理解することが出来た。


 ……まぁ、それに関しては予想もしていたことだし、当然だと思う。


 以前、お姫様のデビュタントが終わった後に、ナナシに伝えられてきた言葉に関しても。


【僕にはルーカス様の大切を助けてあげられるだけの力はない。

 だけど、ルーカス様さえその気になれば、あの女を陥れて、あなたが何よりも大事にしている家族を守ることくらいは出来ると思います】


 という言葉だったはずだ。


 その内容が、どんなものであるにせよ……。


 テレーゼ様のことを裏切って『あの方を貶めるという行為』を“”のなら。


 その経緯が何であれ……。


 俺という存在は、世間から見ても、現皇后様テレーゼ様への反逆を企てた、若しくは実行に移した人間にしか映らないだろう。


 それと同時に『評価も多少は下がるだろうし、少し、世間は揺れると思う』と、ナナシから伝えられた今の言葉も合わせて考えれば、納得も出来る。


「俺が、我が身可愛さに、君の提案に乗るのをやめるとは考えないの?」


 普通に考えたら、こんな話自体が、あまりにも馬鹿げたもので。


 自分の身が滅びるかも知れない提案に、乗るような阿呆がどこにいるんだ、と……。


 そう思うのが、道理だと思う。


 だけど……。


「考えていません。

 ……だって、あなたはいつだって、“”にしか動いてない。

 例え、その身がどうなろうと、どうだって良いと思えるだけの、その覚悟は既に決めている筈だ。

 “”、大切なものを守る為にあの女に付くと決めた、その日から」


 まるで見透かされるように、ナナシからそう言われて。


 ――嗚呼、本当に嫌になるなァ……。


 と、内心で思いながらも、俺は、今日、何度目になるか分からない溜息を溢した。


 俺自身、他人の真意を探る時に同じようなことをすることもあるから、あまり文句も言えないんだけど。


 それでもやっぱり、こんな風に土足でずかずかと人の領域に踏み込んで来られると、あまりいい気がしないのだけは確かだった。


【そりゃぁ、そうだよな……っ。

 我が身可愛さに、自分の身だけを考えて動いていたのなら、そもそも最初っから、テレーゼ様の傍に付くだなんてこと決めてない】


 あの方の傍に付くと最終的に判断したのは俺自身だし、その責任をテレーゼ様全てに押しつけるようなことをするつもりがないのもそうだ。


 罪を犯したことを、全て無かったことにして、自分の今までやってきた行いを正当化させるつもりなんて、更々ない。


 だからこそ、今日、お姫様との婚約も心置きなく結ぶことが出来た。


 ――


 一度、罪を犯した人間とお姫様が婚姻するなんてこと、まず陛下が許さないと思うし。


 婚約破棄だなんて外聞があまりよくない状況も。


 お姫様のその身は真っ白なまま、100%俺が悪い状態でこの婚約関係は必ず破談になるのだとしたら……。


  お姫様側は、そこまでの痛手にはならないだろう。


「一度、この手が黒に汚れたら、あとはどんどん染まっていくばかりで、どんなに時間をかけて洗っても綺麗にはならない元には戻らない


 今も、何も汚れていないように見えるっていうだけで。


 本当はもう、ずっと前から汚くなってしまっていた自分の手のひらを眺めながら、ぽつりと呟くように声を出せば。


「あぁ、少しだけ、僕にもその気持ちは分かる気がします。

 この世にあまねく全てのものが平等だと信じて疑っていなかった、馬鹿正直で純粋だった、あの頃にはもう戻れない」


 と、意外にもナナシから、同意するようにそう言葉が返ってきて。


 俺は驚きに目を見開いたあとで、隣に座っているナナシの方を見遣みやった。


「この世の中は、悪意と絶望に満ちあふれている。

 だからこそ、必要だからも覚えたし、表情も声色も殺して、上手く立ち回れるだけの狡猾さも身に着けた。

 気付いたら、僕を知る人間も身の回りに殆どいなくなって、せわしなく、ただいたずらに歳月だけが過ぎていく」


 ――少し、話しすぎたでしょうか?


 そうして……。


 ゆっくりとした口調で、今日、初めて俺の方を見てきたナナシの顔は、やっぱり真っ白な仮面に隠されて、その顔色を読み取ることすら出来なかったけど。


 その声は、普段のように“敢えてそうしている”と呼べるような抑揚の無いものではなくて。


 どこか、遠い月日を思い出して、その思い出に浸るような、そんな声だったことに……。


 此処に来て、初めて“ナナシ”の素の部分を垣間見れたような気がしてきた。


【嘘を吐くことを覚えて、上手く立ち回るだけの狡猾さも身に着けた、ねぇ……】


 名前が無いから“ナナシ”で。


 スラムのような場所で生活してたって言ってたし。


 ナナシのその生い立ちが一般のそれとは大分異なり、特殊なものであるということは、明白だけど。


「意外だったよ。……君に純粋な時なんて、あったんだ?」


 そうして、茶化すように俺が声をかければ。


「この世に生まれてきた赤ん坊は、初めはみんな、真っさらで、純粋な生き物ですよ」


 と……。


 やっぱり、何処か少し噛み合わない、調子はずれの回答が返ってきて、俺は苦笑する。


 生きて行く上で、必要になったから、そういうことを覚える必要があったんだとは思うけど、突然のナナシぶしにも、最早驚くようなこともなく。


 段々とその対応にも、慣れを感じてきたかもしれない。


 それから……。


「……ちなみに聞くんだけどさ、さっき言ってた、俺を説得するだけの残りの1割って何だったの?」


 このタイミングで聞くには、ちょっと可笑しなタイミングだったかもしれないけど。


 基本的にナナシ自体がマイペースな人間だし、俺もそれを良い意味で見習うことにして、直球で問いかけてみることにした。


 俺自身、ずる賢い人間だから……。


 ここまでやってきて、殆どその意思が賛同の方に傾いているとはいっても。


 相手が手の内を全て晒さない内から契約するなんてことはしない。


 話してくれそうな内容なら、聞ける内に聞いておかなきゃ、損でしょ?


 っていう考えは、勿論ある。


 俺の突然の問いかけにも、ナナシは特に驚いた様子もなく、平然とした様子だった。


 こういう所は、ただ単に、あまり細かいことまでは気にしていないだけなのかもしれないけど。


「あぁ、それですか。

 あなたがを助ける方法、でしょうか」


 そうして、特に声色も変えずに。


 まるで何でもないことのように、軽々しく返ってきたその言葉に俺は目を見開いた。


 暫く、何も言えなかったのは。


 これまでにも喉から手が出るほどに“その情報”を欲していたのに、その度に諦めてきた自分がいたからで……。


 だからこそ、突然与えられた情報に……。


 ――


 半信半疑の気持ちさえ湧き出てこずに、瞬間的に、目の前が真っ赤に染まるような怒りにも似た感情が込み上げてきたのは……。


 その解決策が、そんなにも“簡単に”見つかるようなものじゃないと。


 他の誰でも無い、俺自身が一番、身に沁みて分かっているから、だ。


 有り得ない、あり得ないんだよ……っ!


 だってっ……っ、!


「助けられる……? 冗談、でしょ……っ?

 俺が、あの子の為に身をにしてっ、どれほど時間を費やしてきたと思う……っ!?

 あれだけ探して、たった一度も、だ。

 一度たりともっ、何一つ、手がかりさえ見つからなかったんだ……っ!

 それに、前に俺に接触してきたときに、ナナシ自身が、言ってた筈だよなァ……っ?

 “僕にはルーカス様の大切を助けてあげられるだけの力はない”って……!」


 と、吠えるように声を出す。


 そんな、俺を見ながらもナナシは酷く冷静で、落ち着いていた。


 その姿から、嘘を言っているようには全く見えず、俺は小さく息を呑む。


 もしも……。


 ――もしも、


 のなら……。


 そんなもの、当然、答えなんて決まってる。


 俺はその為だけに、今まで、何もかも、自分さえ犠牲にして生きてきたんだ。


 俺は……。




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