お姫様への、マナーについての勉強会が終わり。
デートと呼んで良いのかも分からない話し合いの席に、半ば強引にではあったものの、けれど確かな収穫を得て。
皇宮からの帰り道で、馬車から降り、冬の寒さが厳しくなってきた王都の街を歩いていく。
まるで雲のように、吐き出す吐息が段々と白くなってきているのを確認しながら……。
【さっきお姫様から、わざわざ旅行に行ったお土産としてクッキーを貰ったから、次に会う時は何かお礼のプレゼントでもした方が良いよなぁ……】
と、内心で思いつつ。
王都の中でも一番広い表通りに建ち並ぶ、女の子が喜びそうな店の前で足を止める。
――確か、このお店って、今、じわじわと人気が出てきているブランドだったっけ?
俺自身、自分の領地に活かせそうな最先端のものについてはいち早くチェックして。
こまめに流行の確認はしているつもりだけど、最近自分が忙しかったのもあって碌にこういうお店巡りも出来ていなかった。
【あー、けど。
お姫様ってこういうの、あまり喜ぶようなタイプには見えないんだよなぁ……】
目の前で、バックや、小物類が小綺麗にディスプレイされているのを見ながらも。
普段から、ジェルメールのデザイナーと共同開発していたり、あの子のセンスの良さを考えると適当なものは贈れないな、と頭を悩ませる。
かといって、10歳の女の子が喜びそうな絵本とか縫いぐるみみたいなものも、あの子の精神年齢を考えたら、あまり似合いそうにない。
――いっそのこと、一緒にデートをしたタイミングで贈り物を買えたら、楽なんだけど。
そうなったら、多分、騎士のお兄さんやら、殿下やら、アルフレッド君が付いてくるって言うに決まってる。
ましてや、皇宮ならまだしも、外に俺と二人っきりでお姫様を出すだなんてこと……。
お兄さんの性格からしても、殿下もそうだけど、“危険だから”っていう理由で絶対に反対するだろう。
今から、その時のことを考えても意味が無いんだけど。
あの人達、本当に過保護なんだよなぁ、と思いながら……。
それはそれで、滅茶苦茶げんなりしそうだな、と小さく溜息を溢せば。
丁度、店から出てきたタイミングで。
店内に入る訳でも無く、外からディスプレイを眺めていた俺を見つけたのか。
きゃぁきゃぁ、と、興奮するようにはしゃいだ声を出しながら、貴族のご令嬢方が俺のことを遠巻きに見てくるのが目に入った。
その姿に、丁度良いタイミングだな、と内心で思いながら、口元を緩め……。
「ねぇ、そこのお嬢さんたち、ちょっと聞いてもいい?
最近、王都で流行っている、女の子が喜びそうなプレゼントのこと教えて欲しいんだけど」
と、にこりと、人好きのするような笑みを向けた俺に。
女の子達は、自分たちに話しかけられるとは思ってなかったのか、まるで有名人でも見たかのように甲高い余所行きの声が更に高くなり……。
喜色ばんだ表情を浮かべながらも、慎ましく、しとやかな淑女を精一杯演じようと、お澄まし顔になって。
持っていた扇で口元を隠しつつも、どこかうっとりした様子で顔を見上げて俺の方を見てくる。
――いつものこと、と言えばいつものことで。
彼女達のこういう態度には慣れっこの俺は、別に特に何とも思わないけど。
「……あ、あぁっ……えっと、女の子が喜びそうな、プレゼント、ですよね?
そ、そんな、っ……。ルーカス様、これから、どなたかお一人に贈り物をされるご予定が……?」
「まぁ……っ! ルーカス様は、
そうして、次に降ってきた彼女達の反応に、声をかけたこと自体が失敗だったな、と内心で思いながら、小さく歯噛みした。
俺は誰のものでもないし、君たちの言う
まるで所有物とでも言うかのように、勝手に令嬢達の間で“
心の中でそう思ったことなど、おくびにも出さず。
俺はにこりと、普段通りに貼り付けた笑みで
「最近、殿下との繋がりもあって、皇女様のマナー講師をしているんだけど。
彼女から、殿下と旅行に行った時のお土産を貰ったから、そのお返しに」
と、勘違いさせるのは良くないと思いながらも。
はっきりと、今の自分の目的について説明する。
流石にお姫様の年齢も考えたら、俺とお姫様が“どうこう”なる方が可笑しいし、これ以上の
ここで、俺の口から、お姫様が出てくるのは予想外だったのだろう。
彼女達は驚いた様子だったけれど。
『まぁ、そうなんですの……っ』と声に出して納得してくれたみたいだった。
――そこまでは、本当に、良かったんだけどねぇ……。
「ルーカス様は、ウィリアム殿下と本当に仲が宜しいので……。
こう言っては何ですが、その分、皇女様のお
「……えぇ、本当に。
最近の皇女様を“
何せ、皇女様はウィリアム殿下やギゼル殿下とは、“違う血統”を持つ御方ですから」
と……。
声を潜めながらも。
まるで何でも無いことのように、罪の意識など欠片もなく、お姫様の悪口をサラッと口にしてしまえる彼女達の……。
一瞬だけ軽蔑が混じったような歪んだ顔に。
嗚呼、成る程ね、そういうタイプか……。
と、特に期待もしていなかったけど。
彼女達の言動に幻滅しつつ、俺は、溜息を吐きたい気持ちを堪えながら。
「それは、皇族への侮辱にしかならないと思うけど。
君たちはここがオフィシャルな場じゃないから、何を口にしても許されるとでも思ってるの?
お姫様の血筋は、前皇后様と陛下の血を受け継いだ、誰よりも由緒正しいものだ。
嗚呼……、それとも君たちは、敢えて血筋のことを持ち出して、逆に殿下と、ギゼル様のことを
と、声に出す。
ムカムカとした、胃からせり上がってくるような気持ちの悪さというか……。
不愉快さを隠しきれずに、普段よりもワンオクターブ低くなった声に、俺が気分を害したことに遅れて気付いたんだろう。
慌てて『いえ、っ……決して、そんなつもりはっ』だとか。
『も、申し訳ありません。……違うんですっ!』だとか……。
今さら、焦ったように、取り繕った声を出してきてるけど、本当に全然可愛くないし、その醜悪さは際立つばかりだ。
彼女達がそういう思考になるってことは、その家柄も含めて……。
お姫様に対しては、よく思っていない側の人間であることは分かるし。
普段、誰に対してもにこやかに接してはいるものの、俺が“家”じゃなくて“一個人”に対して、それも女の子に対して贈り物をするだなんてこと本当に滅多にないことだから。
お姫様にプレゼントをするって言った所為で、彼女達のプライドのようなものを刺激して、ちょっとした嫉妬心のようなものを誘発してしまったのかもしれない。
どちらにせよ、碌なものじゃないのだけは確かだった。
――
こういう時、適当に。
誰に対してもいい顔をして、『笑顔で対応してきたツケ』みたいなものが今、やってきているのだと改めて実感する。
それこそ、お姫様と俺が婚約するなんて大々的に発表したら……。
俺の取り巻きみたいな感じで、淡い恋心のようなものを抱いている女の子がどんな対応に出るか分からないというのは、以前、殿下が危惧していたように、本当にその通りだろう。
【まぁ、俺とお姫様が婚約したことを大々的に発表するような機会なんて、永遠に訪れないんだけど……】
それでも、これからのことを考えると頭が痛くなるし。
念には念を入れて動いた方がいいっていうことだけは、確かだった。
普段あまり怒ったりするようなこともない俺が、あからさまに不快だなって思う気持ちを隠さなかったからか……。
さっきの自分たちの発言を、俺の口から殿下に伝えられてしまうと、厄介な事になると判断したのだろう。
俺を見て頬を染めて赤くなっていた顔が、青白くなって。
必死で『今の言葉は、本気にしないで下さい』だの、『言葉の綾だったのだ』と弁解してきて。
俺が同調するように、うんうんと頷いて、口元だけで薄く微笑めば。
彼女達は、ホッと安堵したような表情になってから
「……ル、ルーカス様っ……。私達はこれで失礼致します」
と声に出して、そそくさと俺の前からいなくなった。
【何から何まで、自分の行動に責任も持たず。
しっかりと考えることが出来ていないからそうなるんだろうな……】
――そもそも根本的に、謝罪する相手が、違うだろうに……。
「……ひゅうっ……。
えぇっと、こういう時って、口笛を鳴らした方がいいんでしょうか……?
流石は稀代のプレイボーイ。……本当に、随分と、色々な人から、モテモテなんですね?」
それから、数分も経たない内に、俺の方へと“さっと、近づいてきた影”があって。
どこか、調子が狂うような声をかけてきた人間がいた。
……いや、ただ単に、今まで意識していなかっただけで。
さっきからずっと、俺がたまたま偶然立ち寄った店の外に、“
「お久しぶりですね、ルーカス様」
「……ははっ、本当に俺が何処にいても会いに来れるんだね……?
それだけ、俺のことを日頃から監視していたってことなのかな……?」
ローブのような、目立たない服装を身に纏いながら、仮面をつけているというその状況で。
グッと一気に距離を詰めて……。
足音もなく俺の耳元で、囁くように声をかけてきたその男に、思わず苦笑する。
「ご連絡ありがとうございました。
貴方からの
「可笑しいな? ……
誰かと間違えてるんじゃない?」
「……ここでは、目立ちすぎます。
3番通りの裏路地に、
「あー、成る程ね、了解した。……そこに行けばいいって訳だ?」
「話が早くて助かります」
リップサービスのような、テンポの良い会話を互いに交わしてから。
耳元で、抑揚の無い声色で簡潔に話される内容に頷き返せば。
俺に近寄ってきたその人物……。
――“ナナシ”は、あっという間に人混みに紛れるように俺の傍から離れて消えていった。
殆ど時間も経っていない、たった数秒間の出来事に、俺は小さく溜息を溢したあとで。
ここにくるまでに、自分の事を待たせていたエヴァンズ家の馬車に向かって……。
急用が出来てしまったことと。
後は適当に馬車でも引っかけて、自力で帰るから先に帰って欲しいと告げておく。
ゆっくりと動き始めた、“誰も乗っていない”エヴァンズ家を象徴するシンボルマークの入った馬車を見送った後で。
俺は、さっき伝えられた、3番目の通りにある裏路地のバーへと向かって歩き始める。
ある程度、王都にどういった店があるのかなどは……。
流行を確認する意味でも、真新しく出来た店じゃない限りは、俺自身その殆どを把握しているから、目的の店に向かうのは、さほど難しいことじゃない。
ただ、面倒くさいのは……。
ナナシに指定された、その“酒場”が王都では珍しく上流階級の人間が集まるような貴族御用達の大人の店ではなくて……。
割と、流れ者の移民なんかが多く集まるような、一段階も二段階も
別に俺自身、差別をしている訳じゃないんだけど。
労働目的で余所から移ってきたような移民に関しては、その身分が保証されていないことが多いから、必然的に彼らのいる場所は治安が悪くなりやすい。
【あのバーは、確か、夜に開いているのは確認済みだけど。
昼間に営業をしているってのは、聞いたことがないんだけどな……】
どちらにせよ、行ってもないのに、今、治安のことを気にした所で意味のないことだ。
鬼が出るか
ここで手をこまねいているよりは、さっさと動いた方がよほど建設的だろう。
【あーあ、本当に、この世界ってのは、いつだって……】
――俺に優しく出来ていないよな……。
内心で愚痴っぽくなるのも仕方がないだろう。
俺自身、騎士のお兄さんや、“ナナシ”ほどの
殿下みたいに
10歳の時には既に『この国の騎士団に合格出来る』だなんて、太鼓判を押されたようなスキルがある訳じゃない。
俺はいつだって、
幼なじみでもあり、親友でもある殿下の
どちらかというなら、今も策を巡らしたり、頭を動かすことの方が好きな訳だし。
自分の領地を、将来、継ぐための必要なスキルに、そこまで剣の腕が求められてこなかったんだから、本当に嗜む程度くらいしか出来ないんだけど。
その辺り、ナナシは、絶対にきちんと考えてくれてないよね?
【あーあ、本当、やだやだ……】
――これだから、出来る側の人間ってのは
……俺が色々と頭の中で考えている間にも、3番通りの裏路地はもう目前にまで迫っていた。
王都の表通りは、人通りも多く、かなり賑わっているのにもかかわらず。
こっちは、あまりお店自体も無いことが関係していて、閑散として人っ子1人いやしない。
自分が把握している王都の地図を頭に描きながら。
するすると迷うこともなく辿り着いた場所は、裏通りなだけあって、道幅がかなり狭く……。
空っぽになった
【確かに人目を
もしも、俺がこの場所のことを知らなかったら、きっと一生たどり着けてないと思う】
そういう意味でも、本当に不親切だな、と内心でナナシに対して文句を言いたくなりながらも。
俺は、酒場に入るための木製の扉に付いているノブに手をかけた。
がちゃり、という音と共に、ギィーっという古い扉独特の、引き摺るような軋む音が聞こえてくる。
扉を開けて直ぐ、ナナシが店の奥のカウンター席へと座っているのが見えて。
俺は、扉をきちんと閉めてから、そちらへと足を動かした。
見た感じ、客は俺たち2人だけで。
バーの、マスター……、というには、20代後半くらいの若そうな男だけど。
彼が一人だけ立っているところをみると……。
スラム街でも、教会に手紙を持って行くだけで、直ぐにナナシに伝わるだけの情報の統制が取れていたことといい。
ナナシは、裏社会的なものと繋がりがあって、ある程度の融通が利くのか、今日はこの酒場を貸し切りにしているのかもしれない。
――そこまで考えて、気付いたけど。
よくよく考えなくても、俺とナナシが“何処で会うか”などの約束なんかは一切していなかった以上、今日、俺が王都の街を出歩いていたのは偶然で……。
いつ、お店を貸し切りにするかなんて。
ナナシ側も読めないはずだから、その状況が作られるってこと自体が、かなり可笑しなものなんだけど。
……現状、そうとしか考えられないから不可思議だった。
【若しくは、この店自体、ナナシが“オーナー”になっている、とか。
……そういった可能性もあるだろう】
確か、ナナシはテレーゼ様に報酬として莫大なお金を貰って任務をこなしていた筈だ。
その資金を使って、王都の一角にお店を構えているというのも、あり得ない話ではない。
「……どうぞ、座って下さい」
頭の中で、この状況に対して、思いつく可能性をあれこれと考えていると。
カウンターの中に立っているマスターの方を見ているのか、それとも、棚に並んでいる酒の銘柄に視線を向けているのか……。
全く俺の事を見ることもせずに、ナナシが声をかけてきた。
まぁ、もっとも。
仮にナナシが俺の方を見てきた所で、仮面を付けている以上、その表情を窺い知ることは俺には出来ないんだけど。
……ナナシの言葉に従って。
思考を巡らせるのを
俺が座ったのを見計らって、バーのマスターがどこかぎこちない様子でお酒を入れて、シェイカーを振るのが見えた。
こういう酒場ではあり得ないくらい、まるで、不慣れなその様子に思わず眉を
「彼はまだ新人なので、大目に見てあげてください」
と、抑揚のない声でナナシにそう言われて、『マスターじゃなくて、ただのボーイってこと?』と思いながらも。
俺は彼に注目していた自分の目をある程度、誤魔化すために、『……ふーん、』と気のない返事をしながら続けて声を出す。
「……新人、ねぇ……。
で、……? その新人君に、これから話す、俺たちの会話が聞かれる可能性があるんだけど。
そういった情報の管理については、きちんと出来てるの?」
それから、疑問に思ったことが思わず口をついて出た俺に。
目の前の、見た目だけでいうなら、あまりこの場には似つかわしくないような……。
好青年で真面目そうな雰囲気の男が、どこかギクシャクしたような仕草で此方にちらちらと視線を向けてくるのが分かって。
その素人丸出しといった感じの様子に……。
全く信用出来そうもないんだけど本当に大丈夫なのかなと、不安に襲われた俺は眉を寄せる。
「あぁ、その点なら問題ありません。……ほら、お手だよ、
「……お手……?」
「今日のアーサーはお利口な犬なので。
僕が許可するまで喋りませんし、こうしてほら、今も拒否することもなく、僕の手に自分の手を乗せてくれてるでしょ?」
そうして、問題ないと口にしたナナシが、アーサーと呼ばれた男に向けて、手のひらを差し出せば。
アーサーは特に抵抗するようなこともなく、ナナシのその手に無言で手を置くのが見えた。
――え? これっ、大の大人が2人、大真面目にやってる……?
何かの、おままごとみたいな奴じゃなくて?
その言動も何もかもが、あまりにも突拍子がなさすぎて。
どこか幼いような印象をも持たせてくるナナシという男は、本当に全く掴み所がない。
「……あー、うん。……要するに、見ざる、聞かざる、言わざるってことか。
えっと、アーサーって名前でいいんだよね? ナナシの忠実なる駒ってことが言いたいのかな。
でもさぁ、流石に、成人男性にお手は無いんじゃない?」
「あれ……? 僕、どこか、間違ってました? ……あの女とあなたの関係を忠実に再現してみたんですけど」
そうして、まるで悪気のなさそうな声色で、ナナシからそう言われて俺は思わず頭を抱えそうになった。
「一体、俺とあの方のどこを解釈したら、そうなるんだよ……?」
流石に、これは抗議してもいいんじゃないだろうか。
テレーゼ様と俺の遣り取りの、一体何を参考にしたら、そうなるんだろうか?
全くもって理解出来ない内容に、思わず責めるように声を出した俺に、ナナシは相も変わらず抑揚のない声で。
「前にあの女が、貴方のことを“
人間は犬に対して躾をして、可愛がる生き物なんでしょう?」
と、どこか他人事みたいな口調で。
しれっと言葉を出してくるのを聞いて、俺は『そういう意味じゃないでしょ、どう考えても』と突っ込みたくなる気持ちを抑えながら、一つ、溜息を溢した。
前に自分のことを『孤児』だと言っていたように、どうにもナナシという存在は……。
普通に生きていたら知っているような、一般的な常識がどこか欠落しているようにも感じてしまう。
――スラム育ちの人間は、みんなこんな感じなんだろうか?
それとも、ナナシだけが特別、浮世離れしているだけなのか……。
話をしていると、会話のテンポがあまりにも独特で。
俺自身、自分に主軸を置いて、自分のペースで遣り取りが出来ないから滅茶苦茶疲れるんだろうな、という所までは理解した。
「まぁ、忠実って意味では、あながち間違ってないのかもしれないけどさ」
それから、暫く間を置いて、ナナシの言葉に答えるように言葉を出せば。
「……いえ、ですが、あなたは、あの女の忠実な狗ではなかったんですよね?
その証拠に、こうして僕に会うために、一歩踏み出してる」
と……。
ハッキリとした口調で、此方を見ることもないナナシからそう言われて。
今の今まで、顔に貼り付けていた自分の表情から一切の笑みを消したあとで。
隣にいる、仮面で顔を隠して表情が全く分からないナナシの方へと顔だけ向けてから。
俺は……。
「……どうせ、戻るのも進むのも、
同じ地獄ならば、会って話を聞いてみるだけでも、悪くないかなって思っただけだよ。
俺はまだ、君の提案に乗るだなんて、一言も言ってない」
と、声を出した。