それから……。
「俺のため、っていうのは、俺が将来父上の跡を継ぐことを言っているのか……?
それなら、お前があれこれと配慮してくれなくても、今までだって努力してきたし、自分の裁量でどうとでも出来ると思っている」
と……。
少しの間、無言になったお兄様から、そんな言葉が返ってくると。
普段にこやかな笑みを浮かべていることが多い、ルーカスさんが、本当に一瞬だけ、悲しそうな表情になったのを私は見逃さなかった。
そうして、いつも通り、顔に貼り付けたように笑顔を浮かべたルーカスさんに。
どうして、一瞬だけ、そんな風に悲しそうな表情を浮かべたのか分からず。
その表情の意味について、問いかけようかと口を開いたタイミングで。
「……それだけじゃないよ。
まぁ、でも、今、そんなことを言っても仕方のないことだから言わないけど」
と、私が声を出すよりも先に。
ルーカスさんから、お兄様の質問に対して、濁すような返事が戻って来て。
その言葉を聞いたお兄様が、更に険しい表情を浮かべたのが私からも確認出来た。
「相変わらず、隠し事か……?
3年前、お前が自暴自棄になった時もそうだったが、頑なに“そこには”触れて欲しくないとお前が思うほどに、そんなにも、俺は信用がないのか……?」
それから、思いっきり眉を寄せて顔を顰めたあと。
――きっと、友人同士だからこそだと思うんだけど
ルーカスさんから
低い声を出し、遣りきれないような気持ちを滲ませて……。
どこか怒っているようにも思えるお兄様の言葉を聞きながら。
「逆だよ。……信用してるからこそ、話せないこともある」
と、ルーカスさんが苦笑しながら声を出すのが聞こえてきた。
瞬間、冬の冷たさを教えてくるかのように、ぶわりと吹きぬけた、一陣の風が。
まるで……。
隠し事の多いルーカスさんと、私達の間にある溝や
――これ以上は、決して入ってこないで欲しいと。
相変わらず、誰に対しても一線を引いている、ルーカスさんのその態度に。
やっぱり、親しいはずのお兄様でも駄目なのかな、と、内心でルーカスさんのことを心配しながらも。
2人の様子からも。
今は口を挟んじゃいけないなと察した私は、顔を上げて2人の方に視線を向けて、その遣り取りに耳を傾ける。
「普段から、俺を突き放しているようにも聞こえる対応をすることもあるけどさ。
ただ、お姫様のことを一番に考えて動いているお兄さんとも少し違って。
お姫様もそうだけど、殿下って基本的に“優しすぎる”でしょ……?
当然、上に立つ人間として昔から殿下が、ただの天性の才能だけじゃなく。
周囲の反感が一切出ないようにと、見えない所で努力をしてきていたのは、俺が一番知ってることだし。
陛下ほど何もかもを割り切って、国の為を一番に考えて動くだけの“合理的主義者”にはなれない、殿下の性格を一番良く知ってるのは俺だから」
そうして、続けてルーカスさんから降ってきたその言葉に。
お兄様の瞳がほんの僅か、驚くように開かれたのが見て取れて。
私はルーカスさんの言葉を聞きながら、前に家庭教師の先生に教えて貰ったことを思い出していた。
――確か。
お兄様は第一皇子でありながら、当時、第二妃だったテレーゼ様が産んだ子どもという立場で。
皇后であるお母様が産んだ『正当な後継者』ではないという世間の声が、少なからずあったんだよね……?
それで、小さい時から周囲の期待に応えようと努力してきたっていう話だったと思う。
お兄様が優しいというのは勿論、私も分かっているけれど。
【ルーカスさんの言う、お父様ほど“
今までだって、お兄様が国のことを考えて行動してくれている姿を見てきただけに。
その言葉が、すんなりとは呑み込めなくて、きょとん、としてしまう。
そんな私に……。
さっきまで、お兄様の方だけを見て、会話の遣り取りをしていたルーカスさんが視線を向けてきて。
突然、自分に矛先が向いたことにびっくりしていたら……。
「現に、こうしてお姫様と俺との婚約関係を反対しているのは、国の為を一番に考えて動いているとはどう考えても言いづらいよね?
俺との婚約は、エヴァンズが後ろ盾になるって意味でお姫様にとっても、将来、皇帝陛下になるであろう殿下にとっても。
合理的に考えれば誰にとっても利があることなのに、お姫様の将来の幸せとか、そういうことを考えて、気持ちの部分を優先しちゃってる」
と……。
そう言われてしまった。
「……それは……」
そうして、ぐっと言葉に詰まった様子のお兄様を見ながら。
慌てて……。
「あ、あの……、ルーカスさん。
私は、セオドアやお兄様が私のことを考えて動いてくれていることは、本当に嬉しく思ってます。
そのっ……、今まで、私が送ってきた生活があまりにも“酷いもの”だったから、その分きっと、心配してくれていて……」
と、声を出せば。
「うん、大丈夫だよ、お姫様。
俺も、ちゃんとその辺りのことは分かってる。
別に俺自身、殿下のことを責めてる訳じゃないんだ。
君も含めて、そういう優しい所は殿下の良い所でもあると思ってるからね」
ルーカスさんは、口元を緩めながら、私の方を優しく穏やかな瞳で見てくれた。
けれど、きっぱりとしたような雰囲気で『だけど』と前置きした上で。
「ずっと、ただの友人同士で居られるのなら、それに越したことはないんだけどさ。
これから先、俺と殿下はどう足掻いても“
俺にもしも何かあった時には“切り捨てる”だけの強さも持たなければいけないし。
互いに言えないことが出来るのも、一線を引かなければいけない事があるのも、家のことや国のことを考えて“お互いの立場”が関わってくる以上、仕方がないことだから」
と、そう言われてしまって……。
私はその言葉に、今日、ルーカスさんに“ブランシュ村について何かあるのか”と聞かれてしまった時。
私達が調査に行ったことを知られない為に、まるで何ごとも無かったかのようにしれっと上手く取り繕って答えていたお兄様のことを思い出していた。
それから、何となくその様子を見て。
『2人が対等な友人同士の関係』では無くなっているんだろうな、と漠然と思いながら……。
ほんの少し、その関係性について寂しく思ってしまったことも。
もしかしたら、さっきルーカスさんが一瞬だけ浮かべていた悲しそうな表情も。
――自分がお兄様とは既に対等な関係ではない
と、そういう意味が含まれていたのかもしれない。
そうだとしたら……。
ルーカスさんがお兄様に対しても、自分の考えを全て見せることなく。
ある程度、距離を取りながら接しているのは、これから先、お互いの立場や役目がより確固たるものへと変わっていくことを想定して……。
これ以上……。
お兄様と友人として仲良くなってしまうと、良くないと思ってのことなんだろうか?
「別に俺は、優しい訳じゃない。
これでも小さい頃から、父上の跡を継ぐために帝王学を叩き込まれてきたんだ。
……本当に重要な時に、公正な判断はしなければいけないとは思ってる」
「うん、そうだね」
「だが、アリスのことは別だ。
確かに父上もお前との婚約に関して、
……俺自身、父上の跡を継ぐために誰の手を借りずとも、どんな反対意見が出ようともそれを撥ねのけるだけの自信がある。
だとしたら、家族として今まで辛い思いをしてきた自分の妹の幸せを考えたって別にいいだろう?」
そうして、お兄様にそう言って貰えて、私は嬉しくなりながらも、複雑な気持ちになってしまった。
お兄様が私のことを思ってくれているのと同じように、私にとってもお兄様は家族として本当に大切な存在だし。
お兄様が例え、周囲からの反対意見が出た時にそれを撥ねのけるだけの自信があると思っていても……。
――私がルーカスさんと婚約関係を結ぶのと、結ばないのとでは……。
どう考えても、これから先、お兄様が苦労するかしないかの比率が違ってくるんじゃないかな?
エヴァンズ家が私の後ろ盾に付いてくれることで。
私のことをある程度認めてくれつつも、お兄様がお父様の跡を継ぐことに対しても、あれこれと煩く干渉してくるような貴族の人を減らすことが出来る。
それが分かっているから、ルーカスさんも私に対して婚約関係を結ぼうとしてくれたんだと思う。
だからこそ……。
「お兄様、私のことを心配して下さって、本当にありがとうございます。
でも、ルーカスさんの言うように、エヴァンズ家が後ろ盾についてくれるということで、このお話は私にとっても悪いことじゃないと思うんです。
……未来のことに関しては正直、まだ、分かりませんけど。
私自身、ルーカスさんと2人で話し合って、今回の話については納得して決めたことなので、どうか見守って頂けないでしょうか」
と、はっきりと口に出して、お兄様に向かって伝えれば。
お兄様は私の言葉を聞いて……。
「アリス……。
まさかとは思うが、お前、俺の為に、ルーカスと婚約関係を結ぼうとしている訳じゃないよな……?」
と、眉を寄せたお兄様からそう言われてしまって。
私はその言葉に内心でドキッとしながらも、ふるりと首を横に振った。
勿論、ルーカスさんと話した時も含めて、今もこうやって、お兄様のことを考えてはいるけれど。
それだけじゃなくて、総合的に考えて、自分自身で決めたということには間違いはないことだから。
それに関しては嘘じゃない。
私の真っ直ぐな視線に、お兄様はまだ何か言いたそうだったけど。
それでも、私の意思を優先して、最終的には『……分かった』と、声に出して認めてくれた。
「まぁ、はっきり言って、まだ“仮婚約”みたいなものだから。
お姫様と婚約関係を結ぶとしても、さっきも言ったようにお姫様の年齢を考慮して、暫くは、皇宮内でのみの通達にしておくのも……。
この先、何かあった時にも、そこまで影響が出ないようには配慮しているつもり」
そうして、ふわりとルーカスさんが柔らかな口調で声をかけてくれるのを確認しながら。
「例え、そうだとしても。
この先、お前がアリスを傷つけるようなことがあったら、俺はお前を許さないからな」
と、お兄様が念押ししてくれるのが見えて、慌てて……。
「あ、あの、お兄様、ありがとうございます……」
と、声に出してお礼を伝える。
それに対して、ルーカスさんが苦笑しながら……。
「あー、うん。……肝に銘じておくよ。
っていうか、そもそも、お姫様と将来、俺が結婚したら。
目を光らせてくる恐い人達が3人も付いてくるの、今から滅茶苦茶気が重いんだけど。
お兄さんだけじゃなくて、アルフレッド君もそういうタイプだったの、意外だったなぁ……」
と言いながら、アルとセオドアの方へと困ったように視線を向けるのが見えた。
その様子は、さっきまでの雰囲気とはまた打って変わって、どこまでも穏やかなもので。
「姫さんが決めたことだから保留にしたってだけで、俺はまだ、アンタのことを認めた訳じゃねぇよ。
例え従者の役割を逸脱していようとも、将来、姫さんのことを、幸せに出来ないなら、アンタに姫さんを託す訳にはいかねぇと思ってる」
「うむ。セオドアの言うとおりだぞ。
僕だって、アリスのことが大切だからこそ、お前の意思がどこにあるか分からぬ以上は反対だからな」
そうして、セオドアとアルが私のことを思ってそう言ってくれるのを聞いて。
「あーあ、本当に俺には手厳しいなぁ……。
ちょっとは優しくしてくれたって良いじゃん。
ほんと、人の温もりが恋しすぎる……っ。
まぁでも、有り難い意見だし。
勿論、お姫様とそういう関係を結ぶ以上は、2人の意見もきちんと頭に入れておくつもりだよ」
と、言いながらも。
「いつまでもここで話す訳にもいかないし、そろそろみんなで部屋に戻ろっか。
お姫様も、さっきから体調が悪そうだったしね」
私達に向かって、そう声をかけてくれた。
その言葉にこくりと頷いて、自然、みんなで宮に向かって歩き始めれば。
さっきまでの、ルーカスさんとセオドア、それからお兄様の間にあった、ピリピリとしたような雰囲気が一先ずなくなっていることに気付いて、私はホッと胸を撫で下ろした。
「あぁ、そうだ。
もう一つだけ、全然関係ない話なんだけど。……殿下の“主治医”いたじゃん?
殿下だけじゃなくて、テレーゼ様もギゼル様もお世話になってる……。
えっと、確か、バートン医師だっけ?」
それから、不意に思い出したようにルーカスさんがお兄様に話しかけているのが見えて。
突然の話の転換に驚いたのは、私だけじゃなく、お兄様も同じみたいだった。
バートンさんって、私のデビュタントの時にワインに毒を盛られた貴族の人の看護にあたってくれたお医者さんの名前だったよね……?
「……あぁ、それがどうした?」
ルーカスさんから滅多に出ることがないような人の名前に、ほんの少しだけ、訝しんだような声色でお兄様が問いかけると。
「いや、最近会う予定はあるのかなぁ、って思ってさ」
と、ルーカスさんが苦笑しながら、お兄様に向かって言葉を濁しつつも声をかけているのが見えて、私は首を傾げた。
「唐突すぎないか? どうして、いきなり?」
「あー、ほら……。
殿下の主治医って、かなり医療に詳しくて、その地位を確立しているような人じゃん?
俺自身、ちょっと聞きたいことがあったから、殿下が近々会う予定があるなら、聞いてみようかなって思っただけだよ。
急ぎじゃないから、別に会う予定がないならいいんだけどね」
そうして、『会わないなら、別にいいんだ』とでも言うように声を出してくるルーカスさんの様子を見ていると、本当に急ぎの内容ではなかったのだろう。
一瞬だけ、エヴァンズ侯爵からも前に聞いた、病人であるルーカスさん達にとって大切な人の容体について何か気になることでもあったのかと思ったけれど。
そうだとしたら、『症状を少しでも緩和するよう、テレーゼ様にお世話になっている』と、前に話していた人はバートンさんのことじゃなかったんだろうか。
私があれこれと頭の中で思考を巡らせている間にも、ルーカスさんにとっては、あまり大事なことでもなかったのか……。
気付いたら、さらっとその話を切り上げてしまっていた。
その間に、みんなと一緒に、自分の部屋へと戻って来た私は……。
「じゃぁ、お姫様。……俺は、今日はこれでお
婚約の話は、次に俺がマナーの勉強を教えに来た時に陛下に話しに行こう」
と、ルーカスさんに言われて、こくりと頷き返してから。
「あ、……ルーカスさん、待ってください」
その姿を呼び止めて。
前にベラさんに分けてもらった黄金の薔薇で作った薬を、いくつか持ち歩く用に、更に小さな小瓶に数回分の量を入れて小分けにしていたのを思い出して。
自分の部屋にあった紙にペンで……。
この瓶の中身が『黄金の薔薇』で作られた薬であること。
“一回分の分量について”と、瓶一つで数回分、使用出来ること。
前に体調不良になって苦しい思いをしている人が身近にいると聞いていたから、もし薬が合いそうなら使って欲しいということを、簡単に書き記してから。
私がこれから先、大事に使わせて貰うための、半量分だけを手元に残して。
幾つかの瓶と手紙を、パッと見ただけでは誰にも分からないよう袋にまとめて入れたあと。
カモフラージュの為に、エリスのお母さんが作ってお土産として持たしてくれたクッキーも入れて、ルーカスさんに差し出した。
「……お姫様、これは?」
「この間、お兄様と旅行をした先で貰ったクッキーのお裾分けです。
私の侍女であるエリスのお母さんから頂いたものになるのですが、食べきれないほど沢山貰ったので、良かったら召し上がって下さい」
そうして、穏やかに笑みを溢しながら、受け取って貰いやすいように、そう伝えると。
「ありがとう。……美味しく頂くよ」
と、言いながら。
特に、何も疑問にも思わなかった様子のルーカスさんが、私の手から、それを受け取ってくれた。
そのことに、内心でホッとしながら、ルーカスさんを笑顔で見送った私は……。
少なからず、ルーカスさんとの遣り取りも含めて、色々と気を張っていた部分があったのだと思う。
一気に、どっと、肩が重くなってしまうような疲労感を味わいながらも。
未だ、ルーカスさんと婚約したことについて、心配そうに私のことを見てくれているアルとセオドアとお兄様にお礼を伝え。
【みんなにこれ以上、心配をかけないためにも……。
今日は早めに、お風呂に入ってベッドでゆっくりした方がいいかもしれない】
と、内心で思いながら……。
3人に向かって『大丈夫だから、心配しないで欲しい……』と声をかけて、安心して貰えるように、ふわりと笑いかけた。