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第267話 不要なもの



 どうにかしなければと、答えも出ないまま、焦ってしまうような自分の気持ちをまるで見透かしてくれているかのように。


 ルーカスさんは、どこまでも落ち着いた声色で私に言い聞かせるようにそう言ってくれる。


 お互いにそのまま、何かを続けて喋ることもせず、会話が途切れて生まれてしまった空白の時間が、特に嫌だと感じることもなく。


 不思議と、ゆったりとした時間が2人の間に流れたことに、私自身凄く驚いていた。


「私の気持ち……」


 それから……。


 ぽつりと、復唱するように溢した私の言葉に、ルーカスさんが目尻を細めて穏やかな表情で私のことを見つめてくれるのが見える。


「お姫様はさァ、殿下のこと……、好き?」


 そうして、普段、茶化すような仕草で、大人の余裕を持って私のことをからかってくるような、視線とは違い……。


 ルーカスさんから降ってきた突然の問いかけは、どこまでも柔和なのに、言葉の節々に真面目なニュアンスが含まれているような気がして、私は顔を上げた。


 ……こんな風に、お兄様のことを、聞かれるとは思っていなかったけど。


 その言葉には、特に意識をすることもなく、素直に頷くことが出来た。


「……はい、好きです」


 真正面からルーカスさんの表情を見て、はっきりとそう告げると。


 小さく頷いたような仕草をしてくれたルーカスさんが、私のことを見て……。


「じゃぁさ、殿下と俺だったらどっちが好き……?」


 と、更に質問を重ねてきて。


 私はその言葉に、咄嗟に何も言うことが出来ず、言葉に詰まって困ってしまった。


【お兄様と、ルーカスさんだったら……?】


「えっと、その……、」


 ――今まで、あまり深く考えたこともなかった事だから。


 突然の問いに、直ぐに対応することが出来ずに、思わず、悩みながらも頭の中で考え込んでしまった私を見て……。


「あー、まぁ……、当人を目の前にしてたら、答えにくい質問だよなぁ。

 でもさ、お姫様が今、自分の胸の中に聞いてみたら、きっと、殿下の方が好きだと思うんじゃないかな?

 俺と殿下だったら、お姫様の傍にいる頻度もやっぱり違うと思うし、そもそも殿下は君の“肉親”でもある訳だから。

 そこに、赤の他人である俺に対する感情とは違う、特別な感情が乗っていても不思議じゃない」


 と、どこか苦笑しながらも。


 ゆっくりと優しく、分からないことを丁寧に紐解いて教えてくれるルーカスさんに、私は自分の膝の上に置いていた手のひらを“きゅっ”と強く握ったあとで。


 しっかりと、噛みしめるようにその言葉を頭の中で反復させた。


 お兄様に対して私が抱く感情は、確かにルーカスさんの言うように“特別”なもののように思う。


 前に、『家族だと思ってもいいか』と、お兄様に我が儘を言ってお願いしたことがあるけれど……。


 ――ルーカスさんに言われて初めて気付いたけれど。


 最近になって、私は……。


 お兄様のお蔭で、“本当の意味”で家族というものが、何なのかということを理解出来てきているのかもしれない。


「……それが、君の中に生まれた“”だと思うよ。

 誰かを好きだと思う気持ちなんてさ、“愛”って言葉で、全部まとめて一括ひとくくりにされてるからややこしいだけで、そこにあるのは友情での好きだったり、家族としての愛情だったり、本来はもっと、事細かに分類出来るものだから」


 そうして、ルーカスさんにそう言われて、私は目の前で穏やかな表情をしながら私を見てくるルーカスさんへと真っ直ぐに視線を向け直した。


【私の中に生まれた、親愛の気持ち……】


 お兄様に対して抱く“その感情”を、適切な言葉で表すのだとしたら、確かにそうなのだと。


 分かりやすく噛み砕いて丁寧に説明してくれるルーカスさんのその言葉は、ストレートに自分の心の中に入ってきて、すんなりと納得することが出来た。


「……お姫様はさ。

 優しい上に、特殊な環境下で育ってきてしまったせいで、色々と大変な思いをしてしまっているから、その辺りの感覚が今も多分、かなり、“麻痺”してしまっているんだろうし。

 誰かと誰かを比べるということ自体、“”って、罪悪感を抱いてしまうんじゃないかなって思うんだけど。

 自分にとって大切な人の優先順位を付けることってのは、決して悪いことじゃないと俺は思うよ」


 そうして、ルーカスさんにそう言って貰えて、私はまるで頭の中を誰かにゴツンと殴られたような衝撃を受けてから、『……っ』と小さく息を呑んだ。


 私にとって、どちらも大事な人であることには変わりがない筈なのに。


 ローラとエリスを明確に比べてしまって。


 それが良いものなのか、悪いものなのか分からなくて、もやもやと困惑してしまったあの時の自分が“”を……。


 その時の状況を見てもいないのに、ルーカスさんからは、しっかりと言い当てられてしまったような気がして。


 僅かに目を見開いてから、その言葉の意味を頭の中で整理するように思考を巡らせる。


 ……あの時、これから周囲の人との関係性が変わってしまうんじゃないかということに不安を抱いてしまっていたけれど。


 それとは別に、私の中にあった感情が、今、明確に浮き彫りになった気がして、ストンと、自分の中で、腑に落ちたような気持ちになってくる。


【そっか、私、“罪悪感”があったんだ……】


 ――どっちも特別な筈なのに、どちらか1人を優遇してしまったみたいで。


 それは、可笑しいことなんじゃないかって……。


 “”って。


 そう思ってしまう気持ちが多分、少なからずあったんだと思う。


 そうして、今……。


 そんなことは思わなくても良い。


 それは“普通の人間として持っていてもいい感情”なんだと、教えて貰っているのだと気付く。


「それに、大切とか、特別な存在が“1人じゃないと駄目”だって、決まっている訳じゃない。

 そういうのは、君の周囲に色々な人がいて、共に過ごしていく中で、その人との関係値で決まるものだからさ。

 お姫様にとって、大切な人も、特別も、これから、君の好きなだけ増やしていけばいい。

 ……きっと、今よりもっと、世界が鮮やかに見えると思うよ」


 口元を緩めて、優しい笑みを溢しながら、私に対して色々と教えてくれるルーカスさんの言葉は、私の心の中にじわじわと染みこんできて。


 目には見えないけれど、少しずつ、温かくて、柔らかなもので包みこんでくれれているような感覚が広がっていくのを感じた。


 ……だけど。


 


「ルーカスさんの見ている世界は、今、“鮮やか”、ですか……?」


 真っ直ぐに、その目を見つめて問いかけた、私の質問に。


 虚を衝かれたような表情を浮かべたルーカスさんが、咄嗟に、何も思い浮かばなかった様子で、言葉に詰まっているのを見て……。


 私はただ純粋に、心配になってしまった。


 ――ルーカスさんは、私とは、違うのだと思う。


 初めて尽くしで、戸惑うこともありながら。


 分かりやすく説明してくれる、ルーカスさんのその言葉を今……。


 ようやく少しずつ自分の気持ちと照らし合わせて、朧気にも理解することが出来るようになってきた私とは違い。


 ルーカスさんは、初めから、愛とか、恋とか、特別というものがどんなものなのか。


 そういうものを一つ一つ、きちんと、理解しているように感じてしまう。


 じゃなきゃ、私に対して、こんなにも分かりやすく噛み砕いて説明することなんて出来ないだろう……。


 


 私にとって、『大切な人も、特別も、これから、君の好きなだけ増やしていけばいい』と言ってくれて。


 そうしたら、のだと教えてもくれているのに。


 ――肝心の、ルーカスさん本人は、一切、それを望んでいないのだと感じてしまう


 いつも、誰とでも一定の距離感で、必要以上に誰かが自分の中に入ってくることを拒んでいて。


 どうして、愛とか、特別とか、そういうものが、分かっているのに。


 “誰に対してもそれ以上を望もうとしないのか”、私には、それがよく分からなかった。


【もしかしたらルーカスさんも、私みたいに、今が何よりも幸せだから、これ以上は必要ないって思っているのかな……?】


 私の視線に、咄嗟にいつもの笑みで取り繕うとしたのだと思うんだけど。


 私があまりにも心配そうな表情をしていたからか、押し黙るように少しだけ沈黙してから、諦めたような視線を浮かべたあとで。


 『あーあ、やだやだ、これだから人の気持ちに敏感な子は……』と、ほんの少し苦笑して、俯くようにその視線を落とした。


 男の人に対して“綺麗”という表現は可笑しいかもしれないけれど。


 涼しげで切れ長のルーカスさんの瞳がほんの少し伏せられて、影を落としたようなその雰囲気は、独特の存在感がある。


「確かに、俺の見えている世界は、色鮮やかな物だとは言い難い。

 ……たまに、色を無くして、モノクロやセピアに見えるようなことだってあるよ」


 そうして、ややあって、ルーカスさんからぽつりと、困ったように吐き出されたその言葉に。


「……っ、そう、なんです、ね……」


 と、私は、慎重に言葉を選びながらも、小さく頷き返した。


 いつも、その殆どが笑顔を浮かべていて、茶目っ気のあるような明るい雰囲気を“敢えて纏っている”ことが多い所為で。


 いつもとは違うような、真剣で真面目な雰囲気と。


 ハイライトの消えた瞳や、どこか負の感情を抱えているような、そんな姿に……。


 あまりにも普段のルーカスさんとは何もかもが違いすぎて、一瞬だけ深い所まで聞いてもいいのかどうか、悩んでしまいそうになったけれど。


 きっと、私がここで、引いてしまったら。


 ルーカスさんも、普段通りの明るい状態に戻ってしまうんだろうということだけは、ひしひしと感じていて。


 必要以上に、どういう風に声をかければいいのだろう、と、慎重になってしまう。


「お姫様と俺はさ、似ている所も勿論あるんだけど、多分、何もかもが正反対なんだよね。

 何不自由なく普通の家庭で育って、両親にも恵まれてさ、育った環境でいうなら俺は随分恵まれてると思う。

 ……だからこそ、、って言った方が分かりやすいかな?」


 そうして、私が1人で悩んでいる間に、続けて声を出して私の方を見ながら、口角を少しだけ上げて、笑うルーカスさんの表情は、いつもとは違い、どこか悲しそうにも思えて。


 私は思わず、その雰囲気に息を呑んでしまった。


 答えになっていないその言葉に、どういう意味なのか私が聞き返そうとするよりも早く。


「時々、俺は君のことが本当に眩しく見えて仕方が無い」


 と……。


 ルーカスさんから、そう言われて、私はその言葉の意味を、正しく理解することが出来ずに首を傾げる。


「……私、眩しい、ですか……?」


 私自身、その言葉に、戸惑ってしまって。


 困惑と、挙動不審になりながらも、一瞬だけ左右に視線を動かしてしまったのは。


 今まで、誰かから悪意を持って貶されるようなことはあっても、“眩しい”なんて言われたことなんて一度もなかった上に。


 ともすれば光のようにも感じられるその言葉が、まるで自分には似合っていないからだと思う。


「うん。……お姫様は今、自分のしてきたことに反省して、一生懸命に前を向いて歩いてるでしょ?

 その道に待っているものは、きっと輝く未来だと思うし。

 俺とは違うから、これからの君は、そういった物を全て受け取るだけの資格がある」


 そうして、ルーカスさんから、そう言われたことで。


 どうしてか、ルーカスさんはいつも、自分と他人を明確に区別して切り離して考えているような気がして……。


「……それだと、ルーカスさんが、そういった物を受け取る資格がないのだと、自分を責めてしまっているように感じてしまいます」


 と、声をかければ。


「っ、あー、うん、そう聞こえちゃったかぁ……。

 そんなにも、純粋で綺麗な感情からだったら、どれほど良かったろうな……。

 俺自身、大切な人や物が増えるだけ、自分の弱点も増やしてしまうようなものだから。

 ……自分が守りきれないものはこれ以上増やさないようにしてるってだけなんだよ」


 と、苦笑しながらそう言われてしまって、私は目を瞬かせた。


「自分自身が、守りきれない、もの……ですか?」


「そう。……どうせ手に持てるだけの荷物なら、軽ければ軽いほどいい。

 不要なものは、一切合切全て切り捨てて、自分の負担を出来るだけ軽減させている。

 他の誰かのためなんかじゃない、これは、ただ単に俺のエゴだ」


 それから……。


 はっきりと、私に対してそう言いきって。


 此方に笑顔を向けてくれるルーカスさんのその顔は、もういつも通りの状態に戻っていた。


「愛だとか、恋だとか、そういうの、俺にとっては全部煩わしいと思ってる。

 ……大切が増えていく、その度にさ、守らなければいけないものも増えていく訳でしょ?

 抱えきれないものは、初めから、持たないって決めているんだ」


「……っ、そうなんです、ね……」


「って、本当にごめん。……どう考えても、俺から話を持ちかけておいて。

 いずれ、婚約者になるかもしれない君に対して伝える台詞じゃぁ、なかったよな。

 普段ならもっと上手く取り繕えるのに、お姫様があまりにも心配そうな表情を浮かべてくるから、ついつい言わなくてもいい本音が出ちゃったよ……。

 お姫様が俺に全く気持ちが無いからこそ、言えるってのもあるんだけど」


 そうして、おどけながら声を出してくれるルーカスさんの纏う雰囲気は、さっきとはがらりと変わっていて。


 私に対して、どこまでも申し訳なさそうな顔をしてくれているのが分かってホッと安堵する。


 勿論、ルーカスさんのその言葉は、『婚約しても私のことは愛せない』って言われているようなものだということは、自分でも重々すぎるくらいに分かっては、いる。


 それでも、私自身、事前にお兄様から、ルーカスさんのことを聞いていたというのも勿論あるとは思うんだけど。


 いつも、上手いこと取り繕われてしまって、その気持ちを隠されてしまう分。


 初めて、ほんの少しだけでも、ルーカスさんの本心に触れることが出来た気がして、嬉しい気持ちの方が強かった。



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