ぎゅっと、自分の下にいるアンドリューの服を持つ自分の手に力が籠もる。
思わず目を
「……?」
いつまで、経ってもその衝撃が訪れないことを不思議に思いながら……。
私は恐る恐る、瞑っていた瞳を開ける。
【……え? どうして……?】
周囲にある光景は、最早私にとっては“
時空がぐにゃりと歪んで……、鮮やかな色合いだった世界が突然セピア色になっているように。
今、ここにある空間が……。
――私がいつも、能力を使う時みたいに……。
でも、その光景は本来なら可笑しい筈のもので。
【だって、私、今……能力なんて、使っていないはず、……だよね?】
どうして、時が止まったのか、この状況が全く理解出来なくて顔を上げれば。
その瞬間……。
ごぽっと、せり上がってくるように自分の口から血が溢れ落ちるのが分かった。
咄嗟にそれを、両手で受け止めてから気付く……。
【……あ、これ、ダメな奴、だ……】
周囲にいる、誰も彼もが動かない、今この瞬間。
この場所で、
突然襲ってきた、身体の不調、違和感に……。
私の身体自身が、能力を発動したのだと、明確に伝えてきた。
【もしかして、私の危険を察知して、能力が自動的に発動しちゃったんだろうか……?】
――ギゼルお兄さまに剣を突き立てられて、殺されそうになった、巻き戻し前の軸のあの時のように……。
そうだとしたら、止まっているこの時空で、
黒の本に書かれていた私の能力は、未来、現在、過去の全て、時間を司る魔女の能力と、あったはず……。
過去は、“
未来は、“
現在、というのは、“
【未来へと時を進める訳でもなく、過去に巻き戻る訳でもなく。
今、この瞬間、
その間、私だけは何故か通常通りに動けるのだとしたら……?
そこまで考えついた所で、ハッとした。
――このままだと、また現実に、時が普通に流れる状態へと戻ってしまう
どうしてか分からないけれど、直感的に“
「……っぅ、……っ、は、っ……ぁ……」
よく分からない状況に混乱しながらも……。
私は目の前で私の下敷きになって止まっていた、死への恐怖で引き攣ったような表情を浮かべたままのアンドリューの身体をグッと押して、熊さんの攻撃が下に降って来ない擦れ擦れの所まで何とか転がすことに成功した。
私がアンドリューの身体を避けた所で、再びパッと周囲の風景が鮮やかな色合いを取り戻していく。
私は、再び時が動き始めたその感覚に、早送り、コマ回しのような状況で自分の身体が、時が止まっていた違和感から一気に解放されていくことに……。
咄嗟のことで対応することが出来ず、足を
「……ッッ!」
『グルァァァァァッッ!!』
大きく口を開き吠えるような声を出しながら……。
怒ったような母熊の前足が、私とアンドリューのギリギリの位置に、落ちていく。
「……っ!」
目の前で、声も出せずに引き攣った様子のアンドリューのことを、心配する余裕もなく。
「……はっ、ぁ……っっ、……う、ぁ……」
アンドリューのお腹の上で荒い息を溢しながら、堪えきれずに、再度ぼたぼたと血を吐く私に……。
「……姫さんっ!」
私の方を見て、直ぐに駆け寄ってくれたのは、多分セオドアだった。
……セオドアの声が聞こえてきたから、そうなんだと思う。
「……ぁっ、セオドア……」
それでも、多分、としか……。
曖昧な表現しか出来なかったのは、私の視界が今は滲んで、まるで霧がかかったようにぼやけているからだった。
それから、後頭部から、頭の奥にかけて、ズキンズキンとした鈍い痛みが襲ってくる。
それと同時に、吐き気も、普段、能力を使用した時に比べると、かなり重いものが襲ってきて……。
私は、声が聞こえる方へと何とか顔を上げて視線を向けたつもりだったのだけど。
「……ぅっ、はっ、ぁ……っ」
耐えきれずに、その場に、ただ
「……っ、姫さんっ! 大丈夫かっ!? どこが苦しいっ!?」
――慌てたような、セオドアの声がする。
顔を上げて『大丈夫』だと、答えたいけれど……。
胸を押さえて苦しい息を溢すことしか出来なくて。
いつもみたいに、時間をただ巻き戻すだけに比べて、身体にかかっている負荷が大きいのは……。
突然のことで、能力をコントロールすることもなく、自動的に発動してしまったからだろう、か?
それとも、1日に2回も連続して能力を使ってしまったからだろうか……?
「……っ、セオドア、すまないっ! 少し離れてくれっ!
アリスっ! 僕の手が見えるか……? 今、何本に見えるっ!?」
「……っっ、ぁ……っ、ぁる……?」
バッと、顔を起こされて、目の前でアルが声をかけてくれたのが分かって……。
目の前が、雲みたいな真白い
その姿を確認すれば、アルが私の目の前で指を一本、ちらつかせてくれているのが分かって。
「……っ、ごめっ、だいじょ、う……いっぽん、ちゃんと、みえてるよ……」
と、ふわっと、笑みを溢しながらも、私は声を出した。
もう一本の手のひらで、アルが私の手を握ってくれると、じわりと温かな癒やしの波動が私の身体を包み込んでくれる。
そのお蔭で、視界が徐々に、
そこで、今の状況も朧気だったものから、はっきりと把握出来るようになってくる。
パッと、熊さん達を見れば、私がアンドリューを庇う為に飛び出したというのもあるのか、一度の攻撃をした後は、その怒りは鳴りを潜めてくれたみたいで、ホッと安堵する。
「……んで、っ……なんで、俺を助けたんだっ……? 可笑しい、だろう、?
お前は、
そうじゃなきゃ……っ、俺は、っ……俺は……っ!」
そうして、下からブツブツと、何かを言ってくるアンドリューの声が聞こえてきて。
私は、今も尚、自分の下敷きになっているアンドリューに視線を向けて、その無事を確認したあとで、ふにゃっと、口元を緩めながら微笑み返す。
「……良かった、どこも、怪我して、なかったんです、ね……」
安心しながら、アンドリューにそう声をかけたあと……。
頭の中でズキン、ズキンと、連続して流れてくる、割れそうなくらいの激しい痛みに耐えきれず……。
誰かが遠くで、私を呼んでくれたような気がしたんだけど……。
それに返事を返すことも出来ずに。
ぶつり、と……。
――私の意識は、そこで途絶えた……。
**********************
ぼんやりとした、
「……ん、ぅ……?」
――ここ、何処だろう……?
一番最初にそう思ったのは、ここが普通にベッドの上だったからだ。
確か、私、洞窟の中で、能力を使っちゃった筈だったよね……?
内心でそう思いながら、この場所が何処なのか確認しようと、一つ身じろぎすれば……。
「姫さんっ!」
「……アリス!」
という声が、ベッドの横からかかって、私は思わず其方に視線を向けた。
まだ、頭の中がぼんやりとしていて、身体が重かったけれど。
視線や顔を動かすことくらいは出来る。
「……お兄さま、……セオドア……?」
私が其方へと視線を向けると、険しい表情を浮かべたままのお兄さまとセオドアが、ガタリと椅子から立ち上がり、私の方へと駆け寄ってきてびっくりしてしまう。
よくよく見れば、この部屋の構図には見覚えがある。
6つ目の洞窟小屋の中、私達が今日泊まる予定だった宿泊施設だろう。
【一番、大きいお部屋だ……】
お兄さまが泊まる予定だった筈の……。
内心で、そう思いながら首を傾げた後で。
どうして、二人ともそんなにも険しい表情をしているのだろうと、困惑しながら二人に向かって『どうしたのか……』と問いかけようとした口から言葉は出てこず。
此方に向かって駆け寄ってきたセオドアに、思いっきり手を握られて、私は思わずびっくりしてしまう。
「……っ、セオ……?」
問いかけに、怒ったような、安堵したような、複雑な表情が入り交じったような顔をしながらも……。
「……本当に、無事で良かったっ! ……覚えてるかっ? 能力を使った所為でぶっ倒れたのっ……!」
と、声がかかって、私はびっくりした後でお兄さまの方へと思わず視線を向けてしまった。
さっきまでのセオドアと同様、険しい表情をしたままのお兄さまが、その言葉に対して『どういう意味なのか』と、問いかけるようなこともなく、私の方をただ怒ったように真っ直ぐに見てくることに……。
【きっと、私が倒れたことに“どういう事なのだ”と、セオドアやアルが問い詰められてしまった可能性は凄く高いと思うし……。
流石に、あんな立ち回りしてしまったら、隠す訳にもいかないし、バレちゃったよね……】
と、私はしょぼんと落ち込んでしまう。
お兄さまは、私が魔女だと知っても、きっと私のことを嫌わないでいてくれるだろう。
というのは、分かっているけれど……。
【大事な話だから、落ち着いて聞いて。
これから先、何があろうとも、自分が魔女だってこと他には誰にも伝えないで。
……いい? 身の回りに居る人間に伝えているのは仕方が無いにしても。
これから先、君に近づいてくるであろう宮で働く人間は勿論……。
お姫様の家族には陛下以外、誰にも教えちゃダメだよ。
例え、それが、“殿下”で、あろうとも……】
いつだったか、ルーカスさんとした約束を破ってしまうようなことになったことに、ほんの少し申し訳なさが湧いてくる。
あの日のルーカスさんが、どうして私にそんなことを言ってきたのかは今も分からないままだけど。
もしもあの言葉が私の事を思って、そう言ってくれただけなのだとしたら、そこまで問題には思わないけれど。
お兄さまに私が魔女だと知られることは、ルーカスさん的にも何か
頭の中で、あれこれと考えてしまったせいで、セオドアの問いかけに、空白の時間が生まれてしまって……。
私が何も答えなかったことを不審に思ったのか『もしや能力を使う前後で記憶が混濁しているのか』と、私を見る目が更に険しいものになった二人を見て、ハッとした私は……。
「あ、……あ、あの……お、おぼえて……、ます……」
と、慌てて声を出した。
どちらにせよ、二人の態度からも、お兄さまにも確実に私の能力がバレてしまった事には変わりなく。
ルーカスさんには、約束を破ってしまって、申し訳なかったと、謝るしかないだろう。
今は、目の前で私の様子を心配してくれている二人に、少しでも安心して貰うのが先決だった。
だから……。
ベッドで仰向けに寝転んでいる状況から、なんとか上半身だけ起こすと。
ふわっと、笑みを浮かべて……。
「心配してくれて、ありがとう。……きっと、アルが癒やしてくれたんだよね?
そのお蔭で、身体も軽くなってるし、もう、大丈夫、っ!」
と、声をだして、二人に向かって自分が元気なことを告げたんだけど……。
「……大丈夫な訳ないだろっ! 今の今までっ、まるで死んだように眠ってたんだぞっ!?」
と、セオドアからそう言われて、私はビクリと肩を震わせた。
「……っっ、!?」
「……顔色は青白いままでっ! アルフレッドに癒やして貰っても、全然起きねぇしっ!
体調が戻るのか、本当に無事なのか、俺が……、俺たちがどれほど心配したかっ!
今もまだ、血の気を失ったような顔をしてるの自分で気付いてないだろっ!?」
そうして、続けざまにそう言われて、今が何時なのか確認する術もない私には。
どれくらい眠っていたのか体感でも全く判断が出来なかったんだけど。
こうして、真剣な表情を浮かべたままのセオドアから心配をさせてしまうくらいには、長いこと起きなかったのだろう。
みんなの、負担になったりとか……。
【お荷物になるのだけは嫌だったのに……】
――結局、倒れてしまって迷惑をかけてしまったな
と、思いながら
「……っ、セオドアも、お兄さまも、ありがとうございます……ごめんなさい」
と、声に出したあとで。
どう言ったら安心して貰えるだろう、と思いながらも。
「あの、でも……能力を使ったのは本能が危険を察知したのか、偶然、発動しちゃったことだけど。
アンドリューを助けようと思ったのは自分の意思だから……」
と、私は2人に向かって声をかける。
私がそう決めて。
自分の意思で、アンドリューのことを助けようと考えて行動したことだから……。
そこに対して、後悔はしていないと言い切れる。
「あっ、そうだっ、セオドア、お兄さまっ、アンドリューは無事でしたか……?
熊さん達は、あの後、どうなりました……?」
そこで、ハッとして、2人に向かって、あの後どうなったのかを確認するように問いかければ。
グッと唇を噛んだ後で、セオドアもお兄さまも険しい表情に戻ってから、何も言ってくれなくなって。
一斉に押し黙ってしまった2人の様子に……。
【もしかして、あの後、誰かに何か問題でも起きてしまったんじゃないか】
と、私は1人、不安になってしまう。
難しい表情を浮かべているセオドアと、お兄さまの方を交互に見ながら、ハラハラ、オロオロしていると……。
「……あの
「あぁ、熊たちの方も問題ない。
あの後、無事に食料を人間達の手から食べて再び洞窟の奥へと消えていった」
と、2人から私の求める答えが返ってきて……。
ホッと、安堵しながら、ふわっと笑みを溢す。
「そう、ですか……。良かった……」
アンドリューも熊たちも、無事で……。
誰かに何か問題などが起こるようなこともなかったのだろう。
私が2人の言葉に安心しきっていると……。
「全然、良くない」
と、ムスッとしたようなセオドアから刺々しいような言葉が返ってきて、私はベッドで上半身を起こした状態から、ベッドの近くに立ってくれているセオドアの方を見上げて首を傾げた。
「……あぁ。
もしも仮に、魔女の能力が自動的に発動してなかったら、お前は熊にやられて死んでいたんだぞ、アリス」
そうして、お兄さまにそう言われて、2人がこの状況を良しとしていない理由が私のことを心配してくれているからだと気付いたあとで。
「……っ、はい。でも、あの場でアンドリューのことを、どうにかして助けられないかと思って……」
と、声に出す。
私自身、自分の身体のこと、そんなに大切に思えないって言う気持ちがあるから、説得力はないかもしれないけれど。
――死んでしまったら、本当にそれで終わってしまう。
私のように、今までの自分に後悔して、改めて自分の人生を生き直すようなチャンスもなくなってしまうだろう。
だから……。
目の前に、もしも助けられる命があるのなら、例えそれが誰であろうと、私は助けたいと思う。
「……っ、」
ピリッとした痛みが、瞬間的に頬に走った。
見れば、セオドアが私の頬を指でなぞるように触っていて……。
「……こんな傷、つけられてんのに、放っときゃ良かったんだ、あんな奴」
と、声を出して怒ってくれたことに……。
そう言えば、アンドリューにサバイバルナイフで傷つけられてしまっていた箇所、そのままだったな。
ということを、今になって思い出した私は。
「セオドア、お兄さま、ありがとうございます。
……その、私、どれくらい眠ってたのかな? アルも含めて、みんなは今、どんな状況でしょうか?」
と、2人にお礼を伝えた後で……。
アルとヒューゴの姿が、今ここに居ないことに不安になって声を出した。
熊たちと戦う為に色々と協力して動いてくれていた冒険者ギルドの職員さんや、怪我をしていた冒険者など、みんなの状況はどうなっているのだろう。
もしかして、みんな、バタバタと事後処理なんかで、忙しく動き回っているんじゃないだろうか。
私も能力を使った反動があるとはいえ、他の人よりも全然働いていないんだし。
何か手伝えることがあるのなら、出来る範囲で動いた方がいいだろう。
緊急時でみんなが頑張っている中、1人でも人手はあった方がいいんじゃないかな?
私が色々と考えながら、2人に向かって、視線を向けると。
「アリス、余計な気を回さなくてもいい。お前はもう少しここで休んでいろ」
「あぁ、姫さんは、そうじゃなくても無理をするんだ。
姫さんの仕事はここでゆっくり身体を回復させることだからな? 誰かを手伝おうなんざ、思わなくていい」
と、2人から、そう言われて。
私は、その有り難い言葉に、自分の身体とみんなの状況を天秤にかけた結果。
今の状況で行っても、みんなに迷惑をかけてしまうだけかもしれない、と判断して……。
こくりと大人しく頷いた後で、遠慮せず、もう少しだけこの場所で休ませて貰うことにした。