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第229話 絶対的な支配者



 それから……。


 一先ず、アンドリュー達が持っている眠り玉を出して貰って。


 私達は、目の前にいる熊の方へと向き直った。


 アンドリューが2個、もう一人の冒険者が2個所持していたので。


 全部で、合計4個の眠り玉が私達の手元にある。


 その際、アンドリューが『これは、俺のだっ! 渡すなんて冗談じゃねぇ!』と言って、眠り玉を出すのは出し渋っていたけれど。


 セオドアの『……ここで死にたいのか?』という一言で。


 渋々ながらも、それを出して私達の方へと手渡してくれた。


「アルフレッド、それで、“アレ”に眠り玉を当てたとして。

 一体、どれくらいで眠りにつくものなんだっ? ……直ぐにでも、眠るものなのか?」


「数を当てれば、いずれは、絶対に眠りにつくであろうが。

 ……如何せん、身体が大きいからな、効果が出始めるまでにも、何十分とか、時間は多めに見ておかねばならぬだろう」


「ハァ!? 有り得ねぇだろうがよっ! じゃぁ、なんだっ!?

 あの、いきり立っている熊の調子を見ながら、“”して、眠るのを待つって言うのかよっ!?

 そんなの、こっちの身体が幾つあっても足りねぇだろうが!」


 それから、お兄さまの問いかけに、アルが答えてくれると。

 アンドリューが此方に向かって思いっきり吠えるような声を出して反発してきた。


 アンドリューの言っていることは確かに人間だけを主軸に考えれば、理に適っていることではあると思う。


 でも、元々彼らが冬眠していた所を、罠を使って起こしたのはアンドリューを含めた人間側だ。


 確かに人命は大事だけど、勝手に問題を起こしておいて……。


 襲ってきて、どうしようもなくなったら殺すというのは、心情的にはあくまでも最終的な判断にしておきたいというアルの気持ちも私には理解出来る。


 みんなの批判的な視線が一斉にアンドリューの方へと向くと。


 特にセオドアの視線に気圧されたのか、自分がそもそもこの火種を撒いたという自覚はあったのだろう。


 アンドリューが、グッと口を閉じて押し黙るのが見えた。


 そのタイミングで、アルが手早く簡単に私達にこの作戦の説明をしてくれる。


 まず、今ここにある眠り玉をありったけ、目の前の熊たちに放り投げた後で。


 私達は眠り玉の粉を吸い込まないように、このフロアから、一個先のフロアまで全員で走って逃げる。


 当然、熊たちは追ってくるだろうから、次のフロアで、みんなでそれを迎え撃ち。

 熊たちが眠り玉の効果を感じて“眠りにつく”もしくは、“自分たちの住処に引いてくれるまで”の時間を稼ぐ。


 剣を抜いていたお兄さまとセオドアが、一先ず、鞘にそれをおさめたあとで。


 目の前にいる熊たちに視線を合わせたまま、ジリジリと後退しつつ。


 私達はこのフロアの出口までやってきていた。


 後はここから、眠り玉を投げて、次のフロアへとひたすら走るだけ。


 視線を交わし合い、目配せだけで合図をするとセオドアとお兄さま、それからヒューゴとサムが一斉に目の前にいる熊たちに今ある手持ちの眠り玉を投げてくれた。


「走れッッ!!」


 そうしてセオドアが、かけ声を出してくれたのを皮切りに、私達は一斉に走りだす。


 パァンという近くで、眠り玉が破裂する音が聞こえてきたのを耳に入れながらも。


 なるべく、みんなに付いていけるように私も必死で前に足を動かしていく。


 遠くで『グルァァァァ!』という、熊が呻るような、そんな鳴き声が聞こえてきたから。


 もしかしたら“意表を突けた”という意味でも、眠り玉の効果はあったのかもしれない。


 そうして、次のフロアへと難なく辿り着いて。


 この場で『……っ、ハァ……っ!』という荒い吐息を溢しているのは、私とサムと怪我をしている冒険者の人くらいで。


 後はみんな、これだけの距離を走っていても、息すら乱しておらず、平気そうで。



 内心でそのことに、凄いなぁっ、と思いながら、私は自分の胸を押さえて必死で自分の呼吸を落ち着かせる。


「うむ、ウィリアム、セオドアっ!

 後方支援ならば僕に任せろ。……ここで、あの子たちを迎え打つぞっ!」


「わ、私も、何かお役に立てそうなことがあればっ、一緒に戦いますっ!」


 カチャリ、と音を立てて直ぐさまセオドアとお兄さまが再び抜刀してくれて。


 二人がそちらに向かって警戒してくれている間に。


 アルと私も、その後ろから……。

 何かあれば、魔法や能力を使う気で、さっき、私達が来た方向へと視線を向ける。


 奥へと繋がっている道は、まるで吸い込まれてしまいそうな程の暗闇で。


 そこから、いつ熊たちが飛びかかって出てくるのかと。

 内心ドキドキしながら『いつでも能力が使えるように』と、私も彼らを迎え打つ準備を整えれば。


「姫さん、こっちのことは大丈夫だっ!

 アルフレッドっ、ここは俺と皇太子に任せて、お前はヒューゴと姫さんを連れて6つ目の洞窟小屋にまで戻れ……!」


 と、セオドアに言われてしまって、私は目を見開いた。


 『……どうして?』とか『自分でも役に立てるはず』と、セオドアに私が声をかけようとするその前に。


「な、何を言っているのだ、セオドアっ! 流石にお前達だけで6匹もいる熊たちの相手となると荷が重すぎるっ……!」


 と、アルが慌てたように声を出す。


「……いや、子供がこの場に残るのは危険だ。

 それならば、お前達は、6つ目の洞窟小屋にいるギルド職員に今の状況を伝達して冒険者の応援を呼びに行ってくれた方がいい。

 眠り玉がもしも今さっき投げた4つだけで効かなかったら、商人であるダニエル達に事情を話して追加も持ってきて貰えたら助かる」


「だがっ……!」


「あぁ、俺もその意見に賛成だ。

 どっちみち、6つ目の洞窟小屋にまで帰らなければいけないことも含めて、応援を呼ぶにしても、道に迷うことなくたどり着ける“お前”の案内がいるだろっ? ……それに、ここには怪我人もいる。

 見た目は派手に流血しているが、喋れてもいるし、すぐには問題ないだろうが、もしもアイツ等が“毒持ちの熊”だっていうんなら、ちゃんとしたとこで診て貰った方がいいし、手当ては必要だ。

 で心情的には全くもって助けたくねぇ奴らだが、このまま熊たちが洞窟小屋の方になだれこんできたら、あまり戦えない商人など、人的な被害はもっと広がる恐れがあるからな」


 そうして、限られた時間の中で、お兄さまとセオドアから降ってきた説明はどこまでも冷静で的確なもので。


 私は、二人を心配しながらも、此処に来るまでに怪我をしていた目の前の冒険者の方へと視線をむけた。


 確かに今まで普通に喋ってていたけれど、爪で肩を引っ搔かれてしまっているのか。


 決して小さくないそこからは、今も血がじわじわと広がっているし、手当ては絶対にしなければいけないだろう。


 熊たちに眠り玉がどれくらいの時間で効くのか分からない以上、このまま、この人をこの場に残す訳にはいかないのは一目瞭然だった。


 さっき、眠り玉を投げたあとにも、走ったことが大きく影響しているのか。


 冷や汗をかいてヒューヒューと荒い息を溢していることからも、色々と我慢をしていたのかもしれない。


 ――助けられる命があるのなら、助けた方がいい


 彼を連れて6つ目の洞窟小屋まで戻り、応援を呼びにいく。


 ダニエルを含めた商人の人達にも協力して貰って。


 冒険者ギルドが何かあった時の為にと常備してくれているであろう救援物資なども含めて二人の元に届けられるのならそれに越したことはない、と思う。


 並大抵の腕しかなかったのなら、そんなことは出来ないけれど。


 今、ここに残ってくれると言っているのは私が何よりも信頼している二人だ。


 二人とも。


 ―― 


 だから、お兄さまとセオドアの二人の視線とその判断に、私とアルがこくりと頷いて同意すると。


「皇太子様、護衛の兄さん、俺もっ……」


「ヒューゴ、お前もその怪我人を連れて洞窟小屋まで戻れっ!

 何かあったときの、バリケードや、障壁みたいなものは6つ目の洞窟小屋付近に立てておいた方が良いからな! お前ならギルド職員に指示も的確に伝えられるだろっ!」


 セオドアやお兄さまに向かって『俺も戦いますぜっ!』と声を出しかけてくれたヒューゴが、セオドアの言葉を聞いてごくりとその言葉を飲み込んだあとで。


 目の前で辛そうにしている冒険者の人の手から松明を受け取ってくれた。


「……っっ! 承知したっ! 護衛の兄さん達、ぼわっとした灯りしかねぇが、コイツは洞窟の壁に立て掛けておきます」


 それから、それを壁に立て掛けたあとで、セオドア達に向かって声をかけてくれる。


 懐中電灯で限定的に目の前の場所を照らすよりも。

 この場に留まるのなら、松明の方が広範囲を照らしてくれるからその判断は正しいものだと思う。


 そして、冒険者の怪我をしていない方の腕を自分の肩へと回すと、ヒューゴは私とアルに視線を向けて。


「お二人とも、ここは皇太子様と護衛の兄さんに任せて、行きましょうっ!」


 と、力強く声を出してくれた。


「……オイ、冗談じゃねぇぞっ! 馬鹿らしいっ!

 あんな奴らと戦ってられるかよっ! 俺は降りるぜっ!」


「……なっ!! お前たちが原因でこうなってんだろうがっ!

 あり得ねぇってもんじゃねぇぞ…っ! お前っ、本当にどうしようもない屑だなっ!」


 そうして、どこも怪我をしていないアンドリューがそう言ったことで。


 ヒューゴが怒りの表情を浮かべながら声を出して、一気に険悪な雰囲気になってしまったのを。


「……っ! 非常事態で、みんなで協力しなければいけない時に、何を言っているんですかっ?」


 と、私は声を上げて、思わずアンドリューの顔を信じられない物を見る目つきでまじまじと見つめてしまった。


 ……こういう時に足を引っ張るような人は往々にして存在するけれど。

 自分にも身の危険が迫ってきているのにもかかわらず、そんな態度をとれることの方が信じられなくて……。


 あまりにも自己中心的な言い分に、非難の視線を向けるのも仕方がないだろう。


「……ハッ、別に構わねぇよっ! 戦いたくねぇ奴がこの場に残ったところで、士気が下がるだけだ」


「あぁ、足手まといならば必要無い。好きにしろ」


 そうして、セオドアとお兄さまの冷たい視線がアンドリューに向いて。


「……んだと、ゴラァっっ!!」


 額に青筋を浮かべて怒りだした、アンドリューが二人に突っかかろうとしたその瞬間。


 近くで、また熊のグルルルっ、という威嚇するような鳴き声が聞こえてきて。


 アンドリューが上に掲げたその拳を行き場を失ったように、下に降ろす。


「……ッ! ここは任せて早く行けッ!」


 視線は真っ直ぐ目の前に向けたまま、セオドアが私達に向かって声をかけてくれる。


 そのタイミングでアルが冒険者が持っていた松明の方へと、多分だけど何か魔法をかけてくれたんだと思う。


 薄暗い灯りしかなかったそこから、オレンジ色の光がふわっと照らされてこのフロア一帯を明るくしたのが見えた。


 周囲からは、アルがただ単に松明に向かって手をかざしただけに見えただろう。


「なっ……あ、アルフレッド様、一体……っ!? コイツは、何をっ!?」


 そうして、ヒューゴが驚いたように声をあげるのを


「今はそんなことを言っている場合ではないっ!」


 と、一喝してくれてから。


「……お前達、今はこれくらいしか出来ぬが、僕達が戻ってくるまで、何とか持ちこたえてくれっ!」


 と、アルがセオドアとお兄さまに声をかけてくれる。


「お兄さま、セオドアっ、増援と必要になりそうな救援物資を持って、必ず戻ってきますっ! どうかご無事で……っ!」


 そうして、二人に声をかけたあと、後ろ髪を引かれる思いをしながらも、アルの案内の元、私達は6つ目の洞窟小屋の方へと向かって走りだした。



 **********************



 それから、どれくらい経っただろう。


 私達があの場所から離れて、少なくとも10分以上は経っただろうか。


 怪我人がいる以上、どうしても早く歩くことが出来ない私達を見て。


 アンドリューが苛立ちを隠せない様子で、定期的に舌打ちをしてくるのが聞こえてくる。


【この人、さっきヒューゴが言ってたように、本当にどうしようもない人だな……】


 と、内心で思いながらも。


 私は、リュックの中に入っていたガーゼを取り出して、目の前の冒険者の人の肩にあてて、テープでとめる。


 洞窟内は危険も沢山あるからと、事前にお兄さまが準備してくれたものもあるし。


 私達が洞窟に行くことを心配してくれたローラが気を配って色々と医療品を渡してくれたので、その辺りは結構潤沢に揃っていた。


「根本的な治療じゃなくて申し訳ないのですが、6つ目の洞窟小屋に辿り着くまで、これで暫くは我慢して貰えますか……?」


 ただ、本当にあの熊さん達が毒を持っていたのなら、この人が引っ搔かれてしまった時に何かしらの毒による攻撃は受けたかもしれない。


 流石に何系の毒が使われてしまったのかは、私にも判断が出来ず、治療に関しては勝手なことは出来なかった。


 それに、幾つかは6つ目の洞窟小屋で、今日私達が宿泊する予定だった部屋に置いてきているものもある。


 止血というにはあまりにも心許ないものだったけれど。


 少なくとも何もしないよりはマシだろうと思いながら声をかければ。


 未だ、ヒューゴの肩に腕を回して荒い息を溢していた冒険者が、驚いた様子で目を見開いてから


「……っ、あっ、ありがとうございます」


 と、私に向かってお礼のためにお辞儀をしてきたのが見えた。


「……ケッ! 全員で、仲良く医療ごっこの真似事でもやってんのかよっ!

 俺たちは子供の遊びに付き合ってんじゃねぇぞっ! 反吐が出るっ!」


「オイ、いい加減、口を慎めっ! お前、もう黙れよっ、アンドリュー!」


「リーダー、彼女のこと、子供だからって侮るようなことを、しないで下さいっ……。

 俺だって、空腹のところ、助けて貰ってっ」


「あぁっ!? 何だよっ、サム、いつから俺にそんなデカい口が叩けるようになりやがったっ!?」


「……っっ、おっ、俺は……」


 そうして、此方に向かって悪態を吐いてくるアンドリューにヒューゴとサムが意見をしてくれようとして……。


 私達をとりまく雰囲気は、どこまでも最悪なものになっていた。


「ヒューゴ、サム、ありがとうございます。私は気にしてないので大丈夫です」


 二人に向かって、にこっと、笑顔を向ければ、『ケッ、良い子ちゃんがよっ! 虫唾が走るぜ』というアンドリューの悪態が再び聞こえてくるという悪循環で。


 何を言っても鋭い視線と口調が私に向けられるのなら。

 何も言わない方がまだ良いかもしれないなと思って、私はそっと押し黙る。


 別に何かを言われることに関しては慣れているから問題ないんだけど、それでヒューゴやアルが怒ってくれるから余計。


「なぜ、僕たちがこんな屑を助けなければならないのだ」


 そうして、私のことを侮辱されたと思ってくれて、怒りの表情を浮かべながら声を出してくるアルのその言葉には、私も頷けたのだけど。


 私のことはいいけど、アンドリューは、セオドアやお兄さまに助けて貰ったという自覚すら持てていないみたいだった。


「……俺は一人でも大丈夫なんだよっ!」


 と、威張り散らしてくるその姿を見ていると、この人はこうやって危険を回避出来ているのに。


 危険なことは承知で、セオドアとお兄さまが今も熊さん達と戦ってくれていることが本当に心苦しくなってくる。


 それでも、私達が、なんとか前に向かって進んでいると。


 私達が来た方向とは別の、分かれ道の方角から、『グルルルっ!』という声が聞こえてきた。


 その呻るような鳴き声に、思わず身体がびくりと強ばってしまう。


 突如、此方へと向かってきたその声はさっき聞いたばかりのもので。


 ――何よりも聞き覚えがあった。


 パッとヒューゴが持っていた懐中電灯を向けてくれると、やっぱり熊が一匹。


 恐らく洞穴熊の中では、小熊であろう存在が、洞窟内の通路から出てきて、私達に向けて威嚇してくるのが見える。


「……っ、アルっ! 熊さんがっ!」


「うむっ……っ! 迂闊であったなっ!

 一匹、今、セオドアやウィリアムが戦ってくれているフロアを経由せず。

 別ルートを通って、此方へとやってきたのであろうっ!

 もしかしたら、眠り玉を浴びて舞う粉塵の中で、熊たちが動いたのから遅れてはぐれてしまった個体かもしれぬっ……!」


「ハァっ!? どうすんだよっ! 眠り玉は全部投げちまったんだぞっ!」


 私の声かけで、アルが今現在の状況判断をしてくれると。

 アンドリューが此方に向かって怒りの表情を浮かべてくる。


 目の前の熊を見るに、さっき遭遇した時よりも、更に興奮状態にあるのが見てとれた。


 もしも家族とはぐれてしまった個体なら……。

 自分の家族をどこにやったのかと、私達のことを疑っているのかもしれない。


 さっきみたいに、熊に向き合って、じりじりと後退しているものの。


 着実にその間合いは詰まってきていて……。


 このまま行くと確実に追いつかれて、バッと飛びかかってこられそうな所までもう少しで到達しそうな感じだった。


「クソっ! 怪我人を抱えてたんじゃ、俺等は早く動けねぇしっ! 手詰まりかっ!? この調子じゃ、逃げても追いつかれますかねっ?」


 そうして、ヒューゴが焦った様な表情を浮かべて。

 此方に向かって、声をかけてくれると……。


「……っっ、こうなってしまっては、やむを得ないなっ!」


 アルが、熊の方へ向かって臨戦態勢を取ってくれるのが此方からでも確認出来た。


 ――人命を優先して、魔法を使ってくれるつもりなのだろう。


 私も何かあれば、いつでも能力を使えるようその態勢を整える。


 だけど……。


 私達のそんな思いを、まるで無にすように……。


「……オイ、クソやろうがっ! 冗談じゃねぇぞっ!

 こんな所で死んでたまるかっ! テメェが生け贄になれよっ!」


 目の前で威嚇してくる熊を見ながら、苛立った様子でアンドリューが隣にいたサムの背中を容赦なくゴッと蹴って。


 前方へと転ばしたのが見えた。


「……っ、ぐあっ……っ!」


 無防備だった背中を蹴られて。


 何の受け身を取ることもできずにサムがその場に転けるように転倒したのに気を取られていると。


 その瞬間っ……。


 腕をガッと掴まれて、私は気付いたらアンドリューに引っ張られ、その腕の中にいた。


「……ッッ!」


「アリスッッ!!」


 迂闊、だった……。


 元々私達を傷つけたいと思っていたアンドリューが、もしかすると何かしてくるかもしれないと思ってはいたものの。


 今は緊急事態だったし、みんなで協力し合わなければいけない場面で。


 なおかつ、サムが地面に転倒したことで、そっちに気を取られていて、ほんの少し対応が遅れてしまった。


 サバイバルナイフをカチャっと鳴らして。


 ほっぺたにそれを押しつけられて、ブツっという切れた音と共にそこから血が滲み出てくるのが見なくても自分でも理解出来る。


「ん、ぅ……っ!」


 突然のアンドリューの暴挙に、ヒューゴの視線もアルの視線も、こっちを向いていて。


 サムの方を見ておらず……。


 サムが前に転倒したことで、怒り狂った表情をしていた熊が毛を逆立て。


 今にもサムに向かって、襲いかかろうと、ぐあっ、っと大きな口を開けているのを見ながら……。


「……っ、あぶない、っ!」


 と、私が声を出して、“能力を使おう”と瞬時の判断で決めたのは一瞬だった。


【……まきもどれっ!】


 この状況で、どこまで巻き戻せるか分からないけれど。


 それでも何もしないよりはマシだろう。


 いつもと同じように、意識を集中させて、時間を巻き戻す。


 額から汗が滲み出て……。


 曲がって、捻れて……。


 ゆらりと、揺れながら、一時、停止した時間に、どれくらい遡ればいいのか自分の中で明確に。


 サムがアンドリューに蹴飛ばされてしまう前までを頭の中でその光景をしっかりとイメージして。


 前に練習したときのように魔力を最小限に、戻る分だけ欲しいと願い。


「……はっ、……ぁぅっ」


 ――進んだ時間を過去へと戻していく。


「【……っっ、こうなってしまっては、やむを得ないなっ!】」


 私が目を開けたその瞬間、アルがヒューゴに向かって、そう声を出している瞬間だった。


「サム、こっちですっ!」


 思考する時間もままならない状況で、私は、咄嗟に近くに居たサムの腕を此方にぐっと強く引っ張った。


 そのタイミングで……。


「【……オイ、クソやろうがっ! 冗談じゃねぇぞっ! こんな所で死んでたま……】」


 と、言いかけたアンドリューが目の前にいた筈のサムが私に引っ張られたことで居なくなったことに気付いて此方に鋭い視線を向けてきた。


「……あぁっ!? テメェ……」


 そうして、怒りの表情を浮かべてくるアンドリューと、此方に視線を向けて驚いた様子で目を白黒させているサムに何も言葉を返すことが出来ず。


 私は、ごぽっと、自分の口から血が溢れ落ちるのを慌てて自分の手のひらで受け止めた。


「……っ、はぁ、っ……!」


「アリスッッ!!」


「こ、皇女様ッッ!」


 アルとヒューゴの声を聞きながら、大丈夫、と声を出そうとした瞬間。


「ハッ! 病気持ちだっつうと、ちょっと売値は落ちるかもしれねぇが。

 取りあえず、弱ってんなら、俺にも運が向いてきたってもんよ! オラ、こっちに来やがれっ!」


 腕を引っ張られて、私は結局、アンドリューに掴まえられて、またサバイバルナイフをほっぺたに突きつけられてしまった。


「……っ、」


 能力の反動で暫くはまともに動けそうにないから、アンドリューに捕まえられてしまったのはある程度覚悟していて、仕方が無い。


 それよりも今は熊をどうにかしないと、と思いながら。


「……っ、私は大丈夫だからっ、熊を……」


 と、私がみんなに言いかけると……。


 ――ぶわっ、と……。


 覇気のような、殺気のような……。


 そんな、ぞわりとした空気がこの場を支配して。


「……


「あぁ、な、……なっ、なんだよ? ……一体、どうなってやがるっ!?」


。……っ、……」


 と、アルが……。


 片方、その手のひらを、ただかざしているだけで、まるで借りてきた猫のようにブルブルと震えて大人しくなった小熊の方を見ることもせずに……。


 私を捕まえているアンドリューの方へと背筋が凍ってしまいそうな程に、無機質で冷淡な視線を向けて、その場に佇んでいた。


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