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第69話 マナー講師



 それから……。


「アリス、あくまでも、今決める必要などはないからな?

 エヴァンズからの持ち込みでその話があったというだけで、お前の後ろ盾が必要ならば、わざわざ、婚約者などとお前の将来を縛ってしまうものではなく、別で、私が用意することも厭わないのだから」


 と、ルーカスさんと、私の遣り取りを断ち切ったのは、お父様だった。


 デスクの前に置かれている椅子に座ったまま、コホン、と一つ、咳払いしたあとで、私を見たお父様は……。


「……今、互いに結婚する意思がなく、実際には、それが仮初めのものであろうとも。一度、取り決めた契約には、どうしても効力が発生してきてしまうからな……。それが、たとえ、最善の道のように思えるものであっても、わざわざ、エヴァンズの息子の言う通りにする必要などはないということは、頭の中に入れておきなさい」


 ……気休めではあるのだろうけど、私に向かって、そんなふうに声を出してくれた。


 だけど、私でも、この婚約の話は、ルーカスさんから話を聞いた時点で、お兄様のためにも私のためにもなるものだと理解することが出来ているのだから。


 きっと、誰よりも、お父様自身が一番この話の有用性については理解しているはず。


 お父様が私のためを思って用意してくれた『後ろ盾』になってしまうと、そこにどうしても皇帝の圧力みたいなものが生じてしまう。


 そして、私が皇族の子供として、お父様に『贔屓』されていると、貴族達や世間から受け取られてしまいかねない。


 ……そのことで、余計、いらない火種が生じてしまう可能性については、否定しきれなくなってしまうし、普段のお父様だったらきっと、私の確認を取るまでもなく、この話を一も二もなく頷いて了承していたはず、だ。


 国に多大なる貢献をしてきたという名門『エヴァンズ』ならば、私が『降嫁』する相手としては不足がないと思われるだろうし。


 仮に、皇室の都合で、私の嫁ぎ先にもっと相応しい場所があると、他国などに行くことになって、この婚約が破談になったとしても、元々、エヴァンズ家もその可能性を考えてくれた上で、この婚約の話を持ちかけてきてくれているのだから問題もない。


 もしかしたら、私の年齢がまだ幼いというのを考慮してそう言ってくれたのだろうか?


 どちらにせよ、考える時間が欲しかった今の私にとって、それは有り難いことに違いなく。


「……はい、ありがとうございます、お父様……」


 と、お父様にかけてもらった言葉に、こくりと、頷けば。


 自分の言いたいことが言えて、納得したような表情を見せてきた、お父様が……。


「……しかし、お前がそこまできちんと自分のことを考えていたとはな。

 皇女としての自覚を持つというのはいいことだ。勉強がしたいのなら、お前の望むように、家庭教師もマナー講師も再度、来てもらうよう手配しよう」


 と、私に向かって、そう言ってくれる。


 その姿にホッと安堵しながら、お父様の提案に「ありがとうございます」とお礼を伝えて、こくりと頷いた私は……。


 次いで、お父様の執務室にある、書類が沢山入っている棚の前に立っているお兄様へ視線を向けてから、未だ、ルーカスさんとの婚約について、セオドアと同様、よく思っていなさそうなお兄様に向かって、おずおずと問いかけるように言葉を出した。


「あの、それでっ……。お伺いしたいことが一つだけあったのですが、お兄様っ……」


「……どうした?」


 まだまだ、お兄様に対する苦手意識のようなものが払拭出来ず、恐る恐る問いかけた私の言葉に、『俺に用事があるのか?』と言わんばかりに、此方を見てくるその視線は、相変わらず、無機質で冷たいもので。


 その姿に、事前にロイから『マナー講師』の話は聞いていたものの……。


 やっぱり、お兄様が私のために動いてくれているとはどうしても思えずに、一度、たじろいでしまった私は、それでもなんとか勇気を出して、続きの言葉を出すことに成功した。


「……今まで、私についていたマナー講師が、解雇されたと聞いたのですが……っ」


「……あぁ。お前の耳にも、もう入っていたのか」


 私の問いかけに『何だ、そんなことか』と、視線だけでそう告げてきたあと、お兄様が平然と答えてくるのが聞こえてきて『ロイが言っていたことは本当だったんだ!』と、この話が、どこまでも真実味を帯びていることを知った私は……。


「では、お兄様が、マナー講師を……?」


 と『どうして、わざわざ、そんなことをしたのですか?』という意味を込めて、問いかけるように視線を向けて声をかける。


 私とお兄様の『マナー講師』は、確か同様の人だったと思うけど、既に、お兄様はマナー講師からマナーを教わるという課程自体を終えていて、直接、今は関わっている訳でもない。


 それなのに、何故、お兄様がマナー講師をわざわざ解雇したのかと、ただひたすらに困惑するしかない私の方を真っ直ぐに見つめてきたあと。


 お兄様は一度「はぁ……」と、どこまでも呆れたような深いため息をついてから、私を見て。


「……躾」


 と、全く意味の分からない単語を口にする。


「……? えっと……? しつけ?」


 その言葉に、動揺しながらも、何のことを言われているのか全く分からずに首を傾げた私が、お兄様に向かって、言われたことをなぞるように、オウム返しをすれば……。


「暴言」


「……?」


「……極めつけは、わざわざ見えないところへの体罰だったな」


 と、続けざまにお兄様が、普段、無表情なのに、ほんの少しだけ眉を寄せて険しいとも取れるような表情を浮かべてきたあとで、そう言ってくる。


「……、っ、?? あの、おにいさま?」


「これらのことにとは、言わせないが?」


 そうして、はっきりとそう言われて、思わずたじろいでしまった私は……。


「……! あ、えっと……っ、それ、は……」


 と、『躾、暴言、体罰』という三つのワードが示す意味に行き当たって、しどろもどろに声をあげた。

 私と、のその情報を、お兄様が知っているということは、わざわざ、マナー講師からそのことを聞き出したのだろうか?


 目に見えて視線を彷徨わせ動揺してしまった私を見て、お兄様が深いため息とともに。


「……父上に相談の一言でもしていれば違っていただろう? どうして今まで、黙っていた?」


 と、問いかけてくる。


 自分の能力で『時間を巻き戻している』私にとって、それは遠い記憶の彼方にあった出来事であり、もう随分と、当時の傷も痛みも癒えていて、今は本当になんとも思っていないもの、だ。


 だから、今回の軸では、別にそのことを隠していた訳じゃないんだけど。


 そのことを、そのまま馬鹿正直に伝える訳にもいかないだろう。


 ――ウィリアムお兄様は、私が、魔女だということは知らないんだから……。


「……べつに、黙っていた訳では……」


 思考を巡らせながら、どういうふうに答えれば、当たり障りがなくて一番いいことなのか、色々と考えた結果、適切な言葉が見つからなかった私に、怒ったような冷たい目をしたお兄様の視線が、ぴしゃりと、こっちに向いてきて、思わず、びくりと身体が震えてしまった……。


「まぁ、いい……。どちらにせよ、皇宮で働くには不要な人間だと判断したまで、だ」


 お兄様がかけてくる、冷たいその一言に、私達が一体、何の話をしているのか、話の流れが全く読めなかったのか。


「……っ、ウィリアム、これは一体、どういうことだ?」


 と、お父様が、問いかけるように私達の会話に入ってきた。


 ……瞬間、お兄様の冷たい視線は私から外れ、デスクの前に座っているお父様の方へ向いたことで、私は息が詰まるような心地から解放されて、ホッと胸を撫で下ろした。


「……アリスはずっと、体のいい躾という名目で誤魔化されて、マナー講師から鞭で体罰を受けていたんです」


「……なん、だとっ⁉︎」


 それから、隠すようなことでもないと思ったのか、お兄様がお父様に対して詳しい事情を説明するように、声を出したことで、お父様が、その額に青筋を浮かべて、一度、目の前の机を乱暴に叩いたかと思ったら、ガタリと椅子から立ち上がるのが見えた。


 憤怒の形相をしながらも、私の方を向いたその瞳には、『本当なのか?』という確認の色が強く乗っていて、別に、故意に隠していた訳ではないんだから、申し訳なさを感じる必要もないんだけど、何となく大事おおごとになってしまいそうな雰囲気に罪悪感を感じつつ、そのことに、こくり、と頷けば。


「……っ、! 今すぐ、ソイツをここに呼べっ!」


 と、お父様が苛立ったように、お兄様に向かって声を荒げたのが聞こえてきて、私はびっくりしてしまった。


「……あのっ、落ち着いてください、おとうさまっ。お兄様が、対処してくださったみたいですし、今は別になんともありません、ので」


 そのことに、あわあわしながら、お父様を制止するように声をかければ、その場にいたみんなの視線が、私に一斉に向いて『一体、どういうことなんだ?』と問いかけられるような雰囲気で、特にセオドアから心配の表情で見られたこともあり、思わず、その圧に耐えきれずに私は視線を逸らしてしまう。


「……なぜ、今まで私に一言も言わなかったんだ?」


「……その、今までは、お父様はいつもお忙しそうにされていて、必要最低限の会話をすることしか出来なかったので、私のことで煩わせる訳にもいかないな、と思いまして。

 それに、私が、お兄様より、不出来な人間であることは間違いないことですし、何度やっても物覚えが悪くて覚えられなくて……。

 マナー講師に、不出来で劣等生だと思われてしまうのは、当然のことだった、ので……。

 おかしい、とも思わなかったのです……」


 最終的に、どこまでも尻すぼみになりながらも、お父様に向かって『伝えた言葉』は、確かに私の本心だった。


 お兄様達と比べて『自分が不出来だった』ということは、変えようもない事実だから。


 マナー講師からお兄様達二人と比べられて、いつも厳しくそう言われてしまうのも、体罰に関しても、ある程度は仕方がないことなのだと諦めてしまっていた部分はある。


 それに、巻き戻し前の軸では、お父様やお兄様達には何を言っても信じてもらえなかったし……。


 そもそも、巻き戻し前の軸では『味方』が殆どいなかったから、言うまでもなくではあるんだけど……。


 仮に、今回の軸で、私の傍についてくれている人達に『このこと』を伝えても、その事実がお父様に辿り着くその前には、握りつぶされて、なかったことにされてしまっていただろう。


 ――宝石が盗まれたのだと本当のことを言っても、誰にも聞き入れてもらえなかったように。


 たとえ、ローラに事実を伝えていたとしても、直接、お父様にそのことをローラが伝えられる訳がなく、それを最終的に判断するのは、侍女長や、ハーロックになる訳で……。


 ……お父様にまできちんとその事実が届けられたとは、とてもじゃないけど思えない。


 それに、六年も時を巻き戻せば、実際にそれを体験したのは本当にかなり前のことで。

 巻き戻したあとの今の軸では、ロイが『マナー講師が来ないように』と止めてくれていたこともあって、被害もなかったというのが一番、大きいのだけど。


「……っ、」


 どこか後悔を滲ませたような瞳で、お父様が私を見てきたあとで。


「……ウィリアム、その事実を知っていて、お前は私に何の報告もなく、マナー講師を解雇にしたのか?」


 と、お兄様に向かって、ほんの僅かばかり非難するように声をあげたのが聞こえてきた。


「いえ、今後、処罰に関してどのようにも出来るように、先に、解雇という通達を出しただけで、その身柄は、まだ俺の手の中にあります。今日、そのことを伝えようと思っていたのですが、アリスに問われたので、このような形での報告になってしまい申し訳ありませんでした、父上」


「……そうか」


 そうして、お父様の質問に、しっかりと答えるように出されたお兄様のその言葉で、ほんの少しだけ溜飲りゅういんを下げたのか、険しい表情を、幾分か和らげたあと、お父様は私の方へと視線を向けてきた。


「……こんなことになってしまったのは、私にも責がある。次の講師は、きちんと吟味して選ばねばならぬな」


 そのあとで、そう言ってくれたことに、内心で安堵していると……。


「……お二人とのお話中、申し訳ありません、陛下。見たところ、俺には、劣等生などと謂われのない言葉を受けるほど、皇女様がマナーが出来ていないとは思えないんですけど……。勿論、全部を見た訳じゃないので、全てが分かる訳じゃないですけど、傍から見ても、基礎はしっかりと、出来ているように思います」


 と、私達の遣り取りに、ルーカスさんが横やりを入れるように入ってきて、お父様に向かってそう言ってきた。


「……何が言いたい?」


 かけられた言葉の意図が分からなくて、首を傾げる私を置いてけぼりにして、ルーカスさんが次いで声を上げる。


「エヴァンズ家が、周囲の貴族からどういうふうに見られているかは、ご存知でしょう?

 こと、マナーに関しては、ウチの母以上に淑女の象徴として見られている人物はいない。

 そんな環境で育っている人間なので、俺でも充分、皇女様にマナーについては教えることが出来ると思います。

 ……知らない人間を雇うより、皇女様にとって負担の少ない知っている人間から教師を選ぶのも、一つの手かと思いまして」


 私達の目の前で、ルーカスさんがかけてくれたその言葉に、珍しくお父様がグッと言葉を詰まらせるのが見えた。


「……確かに、それは、一理ある、が……」


「俺も、色々と家のことで、次期侯爵としての仕事を任されてはいるものの。

 実際、今はそこまで忙しくもありませんし……。

 丁度、さっき、婚約の話もあって、暫く一緒に過ごしてみる? って、皇女様に提案したばかりですしね。週に何度か、此方に来て、皇女様にマナーを教えることは出来ますよ」


「……っ、私相手に、なかなか上手い交渉をしてくるものだな」


「陛下、もしかしてそれって、褒めていただいてます?」


「呆れているんだ。

 全くエヴァンズは、とんだ狸を育て上げたものだなっ。

 ……アリス、エヴァンズの息子はこう言っているが、お前はどう思う?」


「……あ、はいっ。私は、そのっ、どなたが教えに来てくれても大丈夫です……っ」


 交渉術に長けた様子で、にこにこと屈託のない笑みを溢しているルーカスさんに向かって、お父様が深いため息を溢して、言葉を出しているのを聞きながら……。


 突然、話を振られたことで、私は慌てて、反射的に声をあげた。


 ルーカスさんが、私のマナー講師になってくれるだなんて、今の今まで全く予想もしていなかったけど。


 確かに、一度も会ったことがない『よく知らない人』が教えにきてくれるよりは、少しでも知っているルーカスさんが来てくれるのなら、私自身も、ちょっとは安心することができる。


 ルーカスさんを見つめるお兄様の視線が、もの凄く、『一体、何を考えているんだ?』とでも言いたげに、ビシバシと、冷たく向いているけれど。


 ルーカスさんは相変わらず、お兄様のその瞳への耐性が強いのか、それら全てを華麗にスルーしながら、私の方へと、にこりと笑いかけて。


「皇女様、改めて、これから宜しくね?」


 と、その手を差し出してきた。


「……っ、はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」


 私に向けられているものじゃないとはいえ、お父様に呼び出されてこの執務室に来てから、ルーカスさんとの婚約の話が持ち上がったことで、それ以降、ルーカスさんに対して、ずっと物言いたげに険しい表情を浮かべていたセオドアの視線と、更に、お兄様の厳しいようにも思える視線に、どこまでも居心地の悪いものを覚えながらも、差し出されたその手を取って、私はルーカスさんのその言葉に、こくりと頷き返した。



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