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第64話【セオドアSide】



 シーンと静まり返った皇宮の廊下で、ゆっくりとした時間が流れていく。


 ――何にも代えがたい、柔らかな時間だ。


 隣にいる主人は、医者に言われて、侍女さんが用意してくれていたハーブティー入りのカップを手に持っていて……。


 その縁に、そっと口をつけながら、特別な会話を交わすこともなく、何も言わずに、俺の隣に立っていた。


 互いに、一切の言葉がないというのに、不思議と、それが嫌じゃない。


 ただでさえ、餓鬼の頃からスラムのような汚い場所で暮らしてきて、周りにいる全ての人間が敵だった俺からしてみれば、それは本当に、あり得ないことだった。


 誰かと、長時間一緒にいるということを、苦にも思わない日がくるだなんて、全てのものに対して疑いの目を持っていて荒んだ目をしていた餓鬼の頃の俺が知ったら、きっと、『嘘だ』と断じて、信じてもくれないだろう。


 ……姫さんの従者になってから、俺は自分で望んで、夜も姫さんの警護にあたっている。


 自分がほんの少しだけ睡眠が取れれば、それで、問題がない体質だということは言うまでもなく。


 一般の騎士の時は宿舎だったが、姫さんの護衛騎士になってからは、姫さんの部屋に近いところに、わざわざ従者用の自室まで用意されていて、本当に今までの暮らしに比べたら雲泥の差くらいに違う。


 今まではマトモに寝る場所を確保出来て『有り難い』と思っていたくらい、野宿に慣れきった生活をして来た俺からすれば、とんでもなく豪華なものであり……。


 何となく、部屋に一人でいたところで落ち着かなくて、夜は、姫さんの部屋の前で、自然に警護をするのが日課になっていた。


 ちょっと前まで、そんなことはしなくて『大丈夫そう』だったものも、今じゃ、その意味合いが、大きく変わってきてしまっていることに、俺自身、気づいていた。


 皇帝が、姫さんに対して古の森の砦を与えてきたり、色々と便宜を図るようなことをするようになってきてから。


 ――急激に、変わっていく周囲の目が……。


 一斉に、姫さんの方を向き始めているってことも、姫さんの傍にいる俺が一番、実感しているし、理解していることだろう。


 ……必然、姫さんの護衛も、以前より、その必要性が増してしまっているということは間違いなく。


(俺がここに来た頃は、姫さんの周囲はあんなにも静かだったのに……)


 今、俺の目の前で、姫さんが少し動く度に、紅色の髪の毛がふわふわと揺れて、そこからちらりと見え隠れする首筋は、どこまでも細っこくて、今にも折れてしまいそうなくらいに頼りない。


 ……皇族だから、皇女だからって。


 ――外野はいつだって、自分勝手に騒がしいだけだ。


 そこに、姫さんのことを思いやってくれるような感情なんて、一切、乗ってない。


 これから先、この小さな主人の肩は、一体、どれほどの重荷を背負わなければいけないのだろう。


『解っていながら、お姫様の耳をそっと塞いで、いつまでも鳥籠に閉じ込めて大事に守るだけなのは、騎士の務めの範疇を超えてるよ? 』 そんなことは、今更、念を押すように言ってこなくても、俺自身が一番理解していることだった。


 此方の事情だなんて考慮する必要すらないと言わんばかりに、お構いなしに、好き勝手、言ってきやがって。


 ……姫さんに、皇宮のことも含めて、今の情勢を伝えてこなかったのは、意図的だ。


(……私は、眠るのが、恐いなって思う時があるよ。深夜に一人で、冷や汗をかいて目が覚めて……。

 そこで、あぁ……、夢だったんだって、ホッと安堵するの)


 ――本当は、姫さんから今、そのことを聞かなくても、その事実を、俺は知っていた。


 扉一枚、隔てた、その先で……。


 何度か、自室で姫さんが魘【うな】されたあと目が覚めて、安堵したように、小さな吐息を溢していることを……。


 普通の人間とは違い、動体視力や聴力が桁外れの俺は『そんな些細な音』ですら、聞かないほうがいいと分かっていても、逃すことなく、全部、自分の耳の中に入れてしまう。


 だけど、扉の外で警護をするしかない俺は、いつだって、姫さんに何もしてやることが出来なかった。


 たった一枚の扉が、どこまでも分厚いもののように感じてしまう。


 ましてや、自分から話した訳じゃないプライベートなことを、他人が勝手に知っていたらと思うと嫌だろう。


 だから、その今にも消えてしまいそうなほどに、か細くて、泣き出してしまいそうな小さな音が、俺の耳に入ってきても、俺はいつだってそれを……。


(早く、主人が穏やかな眠りにつけるように……)


 と、ここで、静かに祈ることしか出来なかった。


 ――姫さんが、一体どんな悪夢を見ているのかまでは、俺には分からない。


 それでも、魘されてしまうほどなのだから、余程、辛いものなのだろう。


 それに、俺自身、その現象には覚えがある。


 それをずっと、今まで誰にも言うことも出来ずに、真っ暗な闇の中、一人耐えしのぐ日々が……。


 ……どれほど、辛いものなのか……。


 そんなものは、経験した人間にしか分からないことだ。


 今日、姫さんが倒れてしまったのだって、 そういった日々の積み重ねで、見えないうちにストレスを溜めてしまっていたからなんじゃないかと思う。


 だから、ゆっくりでいいと思っていた。


 姫さんに、周囲の視線や情報を伝えて、余計なことで煩わせたくない。


 周囲がどれほど早いスピードで目まぐるしく変わっていこうが、そこに合わせる必要なんて、全くない。


 姫さんのペースで、徐々に色々なことを知っていくことが出来ればそれでいいって。


『それに対応するのは、お姫様自身であって、君達、従者の役割じゃないでしょ?』


 ――嗚呼、本当に……。


 正論や、一般論という盾を振りかざして、清々しいまでに、こっちのことを煽ってきやがる。

 いつだって、どこか……。


 俺等のことを詮索するように接してくるあの男が、俺とはまた違った意味で厄介な手合いであることは間違いないだろう。


 その本心が、どこにあるのか読めない分、余計……。


(今は、完全に姫さんの敵側にいる訳じゃねぇから、様子見しているけど。あの男がもしも、姫さんの敵に回ったら、その時は、躊躇なんてしない)


 世の中に、五万と溢れている『汚いものや醜いもの』だなんて、見ないで済むのなら、極力見せたくはなかった。


 これから先の、姫さんの目の前にあるものが、綺麗なものばかりであることを、ただ願う。



 そう思うのは、確かに俺のエゴなんだろう……。


 ……これから先も。


 たとえ、今、俺がやっていることが『騎士としての務め』の範疇を超えていようとも。


 それが、姫さんのためになることだと言うのなら、俺は、どんなことも躊躇いはしない。


(俺に居場所を与えて救い上げてくれたのは、他でもない姫さんだから……)


 最初は、ただ、単純に『赤を持つ者同士』っていう共通点があるからってだけなんだと思ってた。


 事実、きっと、姫さんの目に俺が止まったのはだろう。


 ただ、姫さんの傍に仕えるようになって、時間が経った『今』だからこそ、分かることでもあるんだけど。


 多分、姫さんは、自分の護衛のことなんて二の次で、度外視した上で、最初、俺に、『護衛騎士っていう称号』だけを、与えてくれるつもりだったんだと思う。


 俺が騎士になった時にはもう、姫さんは自分に『魔女の能力』が発現しているのを分かっていたし。


 考えたくはないが、もしも仮に、能力の使用で削られてしまった寿命により『姫さんが死んでしまった』のだとしたら……。


 そのあと、今、姫さんの護衛騎士を経験している俺の立場や地位は、多分、これから先も、不当に降格させられてしまうようなことはないだろう。


 特に、魔女の能力での死亡は、どう足掻いたって防ぎようがないものだ。


 そのことで、騎士として主人を守れなかったと過失が問われてしまうようなものでもない。


 ……多分、誰よりも、そのことを分かっていながら、姫さんは、俺のことを自分の護衛騎士に任命したんだと思う。


(この話で、一番得をするのは、どう転んでも俺だ)


 道ばたに落ちている汚い小石同然だった俺を……。


 ――最初から、姫さんだけが、どこまでも救い上げてくれていた。


 ……今まで、一緒に過ごしてきたからこそ分かる。


 あの日、あの時、あの瞬間、お飾りの皇女だと自分のことを卑下しながらも、姫さんは俺に対して自分のことをきちんと護衛してほしいとは、思っていなさそうな雰囲気だった。


 そうして、そのスタンスは、今も変わっていない。


 騎士である俺自身が、夜中も含めて、こうして、皇女という立場である姫さんの警護にあたるということは、本来なら、当たり前のことであるはすなのに、申し訳ないと謝罪してくる始末なんだから……。


 ――守っているようでいて、その実、いつだってこの幼い主人に守られている。


 だから、姫さんが普段から過ごしている、この場所だけは……。


 ……いつも、温かなものであって欲しい。


「……っ、うん、ありがとう。

 じゃぁ、お言葉に甘えて、もうちょっとだけ。このまま、傍にいててもらってもいいかな……?」


 そうやって、おずおずと……。


 全く我が儘にもなっていない主人の願いごとを、こうやって聞ける場所であって欲しい。


 隣に立っている姫さんに視線を向ければ、穏やかな雰囲気を纏わせながら、ホッと一息吐いたあとで。

 ジッと姫さんのことを見つめていた俺と目が合って、はにかんだように、ふわっ、と俺に微笑みかけたあと、姫さんが照れた様子で、俺の方を見つめてくる。


 その視線が、いつまでも変わらないでいてほしいと願うのは……。

 やっぱり、俺のエゴでしかないと、重々、解っていた。







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