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第55話 母の好きだったもの




 ――その後 悔の滲むような瞳は、一体どこから来るものなのだろう?


 ……考えるまでもなかった。


 その瞳の先に行き着く人は、ただ一人しかいないと私にも、想像がつく。


「……娘は、生まれた時からその運命が決まっていたからな。

 皇后という立場に就くということは、生半可な覚悟で出来るようなものではない。

 娘を産んで直ぐに身体が弱かった私の妻が死んでからは、母親代わりと父親代わりを一手に担ってやってきたつもりだが。

 綺麗事じゃ、すまないようなことも色々とくぐり抜けていかねばならぬ立場が故、赤色の髪を 持っていることくらいで負けないように、なるべく強く育つよう、厳しく育ててきた。

……だが、それが失敗だったのだろうな?

 丈夫に生んでやれなかったことで、それを理由に部屋に籠もることも多くなってしまって。

 いつの頃からだったか分からないが、厳しい躾に反抗するように、我が儘も言うようになって、気づけば、娘は、私の言うことなど欠片も聞かないようになっていってしまった」


 そうして生まれて初めて聞くお母様の過去の話に、お祖父様の言葉を隣で聞いていた執事が、進言するように、お祖父様に……。


「旦那様。

 皇女様は、まだ十歳でございます。そのような話は、早いかと……」


 と、お祖父様の言葉を止めるようにそう言ってくれる。


 けれど……。


「だから、娘が死ぬことになって直ぐ、皇后が代わったことに関しても、私はあの男に何も言うつもりなどはない。

 一国を背負う者として感情で動くことがない男だというのは、私が誰よりも知っているからな。

 どちらにせよ、あのままの娘では『皇后』という大役は務まらなかったのだろうということは分かりきっていた話だ」


 と、お祖父様はそれに構うことなく、私に向かって言葉を続けてきた。


 『事実』だけが込められたその話には、お祖父様の『感情』は一切乗っていない。


 ――ただ、ありのまま……。


 『いずれ、こうなることは、想像がついていた』と、伝えてくるだけの……。


 真っ直ぐに私の目を見て話される、その言葉はどこまでも事務的で、淡々としていた。


「旦那様っ……!」


 それを、咎めるように、やきもきしているような雰囲気で声を出したのは執事だった。


 お祖父様を止めるように出されたその言葉には、一体、どんな意味が込められていたのだろう。


 そこまでは、私にも推し量ることは出来なかったけど。


「……だがな、アリス、お前は別だ。

 お前まで、あんなにもドロドロとした世界にいなくていいのだ。

 皇宮にいれば嫌なことなど、日常茶飯事に起こるだろう。見なくていいはずのものを、見なければならないことも、誰かがお前のことを利用する目的で近づいてくることも、決して避けられまい?」


 そんな執事の声を、お祖父様の瞳は、まるで無視をして。


 ――変わらずに、対面に座っている私だけを真っ直ぐに見つめていた。


「ただでさえ、冷遇されてきていたというのは周知の事実だったのだし。

 娘が死んでしまった今、尚更、皇宮でのお前の立場に関しても、どんなものなのかは、その状況を確認せずとも想像に難くない。

 そこまで、お前が皇宮で重要視されていないというのなら、寧ろ好都合。

 たとえ、老いぼれになろうとも、未だ、大公爵という立場に立っている私の影響力は健在であり、私の発言をあの男も無視することなど出来ぬだろう。

 ……アリス、公爵家の養子となって、私の娘になれ。お前には、普通に生きる権利がある」


 真剣な表情で、私の目を見つめながら、そう言ってくれるお祖父様のその言葉には、嘘偽りなど欠片もないのだと私にも理解することが出来た。


 皇后であるお母様が亡くなって直ぐに、お父様の判断により『その座』に就いた継母のテレーゼ様……。


 お母様があの馬車での事故で、魔女狩り信仰派の市民に殺されてしまったということも含め、お母様が皇后じゃなくなったことで、着々とテレーゼ様を支持していた『魔女狩り信仰派』の貴族の声が大きくなってきている、今。


 皇宮での私の立場や、政治的なものも含めて、勿論、理解してくれた上で、こうしてお祖父様が私に提案してきてくれているのはその瞳からもよく分かる。


 だからこそ。


(……どうして、今なんだろう?)


(……どうして、その言葉を聞いたのが私なのだろう?)


 だって、その後悔も、その言葉も……。


 目の前にいる私に向けられているようで、その実、私に向けられたものではない。


 ――普通に生きる権利。


 お祖父様がその言葉を一番に伝えたかったのは、きっと、今の今まで一度も会ったことがないなんかではなかったはずだ。


(きっと、お母様には、一度として、言えなかったのだろう)


 お母様は生まれた時から、皇后としての責務を果たさねばならないと決まっていたから。


「……有り難い申し出ですが、お祖父様……」


 私は、真剣な表情で此方を見てくれているお祖父様の目を真っ直ぐに見つめて、その提案を断るように、ふるり、と首を横に振った。


 だって、本来『その想いの欠片』を受け取るべきなのは、お母様であるべきで。


 ……私であって、良いはずがないのだから。


 私から、断りの言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろうか。


 お祖父様が、更に言い募ろうと、何か言葉を続けようとしたのを遮って、私は声を出した。


「……代わりに、もしも私の願いを聞いていただけるなら、どうかお母様のお墓にお花を手向たむけに行ってもらえませんか?」


「……っ」


 ふわり、と出したその一言に、目の前で、お祖父様が、小さく息を呑んだのが見えた。


 私から、そんな言葉が出るだなんて予想もしていなかったのだろう。


 僅かにその瞳が見開かれ、驚いたような表情を見せるお祖父様に、口元を緩め、私はそっと、微笑んだ。


「生前、お母様はリンドウの花が好きでした。

 きっと、お祖父様がお母様にリンドウの花を手向けに行ってくれたなら、喜ばれると思います。

 ……恐らく誰も来なくて、その墓前は寂しいままだと思いますから」


 巻き戻し前の軸、私自身、何度か、お母様のところに足を運ぼうかと思ったことがある。


 ……だけど。思い出すのは、此方に向かって倒れてくるお母様の姿。


 そして、私に向かって吐き出されたお母様からの呪詛のような言葉。


 |は、どうしようもなく、足が竦んで、恐くなって、私は、お母様のお墓に一度だって行くことが出来なかった。


 そうして、今回もきっと……。


 たとえ、その墓前が寂しいものだと分かっていても、これから先も、私はあの場所には、行くことが出来ないだろう。


(……もう久しく感じていなかったトラウマが、再び、呼び起こされるように、ジクジクと浸食するように、そっと胸を痛めつけてくる)


 ――愛されていなかった自分を自覚すればするほどに、言い知れないほどの痛みだけが、いつだって、心の中を鋭利に傷つけていく。


 お母様もきっと、私が行っても喜んではくれないだろう。


 それでも、お母様の墓前が寂しいものでしかないことはずっと気がかりではあった。


 私が行かなかったら、それこそ本当に、誰も参ることのないそのお墓に……。


 もしも、血の繋がっているお祖父様が来てくれるのなら、お母様も喜んでくれるかもしれない。


 リンドウの花言葉は……。


(あなたの悲しみに寄り添う)


 孤独にいつも、儚く悲哀の表情を浮かべていた人だったから、その言葉はお母様にぴったりな言葉だろう。


 亡くなったお母様のことを、お祖父様が後悔しているのだとしたら……。


 ――気休めでもいい。


 、お母様は、お祖父様に愛されていたのだということを。


 望まれて生まれてきたのだということを、ほんの少しでもいいから伝えてあげて欲しい。


 ……私には、どう頑張っても、お母様の寂しさは埋めてあげられなかったから。


「リンドウの花が好きだったのだということは、初めて知った。

 父親失格だが。……思い返せば、私は、娘の好きなものを何一つ知らない、な……」


 唇を噛みしめて、後悔が滲んだようなお祖父様のその言葉に私は小さく笑みを溢した。


「……私も、お母様が好きだったものを、そう多く知らないんです」


 記憶にある『お母様の好きだったもの』を指折り数えてみるけれど。


 ……私自身、ただでさえ避けられていたのに、病弱であることで皇后宮に籠もっていたお母様とは、触れ合うような機会さえあまりなかったし、お母様の好きなものについては、本当に片手で数えるほどしか、思い浮かばなかった。


(リンドウの花、宝石、洋服……)


 あとは……。


『愛を知らない』私が、それを、愛と呼んでいいのかは、分からないものの。


 ……そうじゃなくても、その執着が愛だったのかさえ、分からないけれど。


 だけど、幼いながらに、一度も私のことを気にかけてはくれなかったお母様のその視線を追った時、一番、お母様が、何よりも執着していたのは……。


 ――


 お祖父様に、今、そのことを言っても、きっと困らせてしまうだけだろう。


 そうでなくても、少し会話をしただけでも、今のお祖父様がお母様の伴侶だったあの人について嫌悪感に近いものを持っていることは理解出来る。 


 私は、今、頭の中に思いついたを振り払うようにして、何でもないことを装うため、私と会話をしてくれていたお祖父様に向かって、ふわり、と笑みを溢した。



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