……どうしてお兄様がここにいるのか、未だ全く理解出来ていない私を置いてけぼりにして。
「……皇族に対して、このような事をすればどうなるかくらい、分かっているはずだが?」
と、冷たい口調でウィリアムお兄様が夫人に向かって声を上げる。
それに対して、夫人がしどろもどろになりながらも、「も、申し訳ありません、殿下」と、焦ったように謝罪を繰り返せば。
「確か、ボートン家の夫人だったな?
皇女を蔑ろにしたこと、この件は正式に、抗議させて貰うことにする」
と、お兄様が、どこまでも冷たく、無慈悲に声を上げた。
(……もしかして、最初から全部、聞いていたのかな?)
流石に、王城ならまだしも、公の場で『私が貶されていたから』助けに入らざるを得なかったのだろうか。
私が、内心でそんなことを思っている間にも……。
「……そ、そんな、っ。……殿下、お待ちください。主人にだけは、このことはっ!」
「はぁっ? あり得ない。……伯爵どころか、お前の発言そのものが、家の存続の危機であることがまだ分からないのか?」
と、夫人に対して、冷酷に声を出すお兄様の詰問は、続いていく。
私相手だし、流石に、不敬罪にはなるだろうけど、家の存続の危機とまではいかないだろう。
だけど、その脅しが
「……っ! そ、それだけは、本当に、ご勘弁、を……。
殿下、お許しっ、お許しくださ、いっ……!
あ、ぁ、こう、こうじょ、さまっ!
本当に、本当に、申し訳ありませんでした、どうかっ……私に、寛大なご慈悲をっ!」
「……その舌の根の乾かぬうちに。
惨めにも、次は、あれほどその口で貶していた妹に、慈悲を乞うつもりか?
沙汰は追って通達されるだろう。
……どんなに俺や妹に許しを乞うても無駄なことだ。
それを決めるのは俺ではなく父上だからな」
「……っ、ぁ」
そうして、色を無くした表情のまま、がくり、と崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んでしまった夫人を。
けれどもう、お兄様のその金色の瞳は、興味を一切無くしてしまったかのように、一度も見ることはなく。
そのまま今度は、私に視線を向けてきた兄は、洗面台に夫人が裸のまま置いた石けんを取ると、それを水に濡らし、私の汚れた服に向かって擦りつけてくる。
突然の兄のその行動に、一瞬、本当に何をされているのか分からず、困惑したあとで、ようやく、その行動の意味が分かって、ぎょっとしていれば……。
「……っ、全く、鈍臭いにも程がある。一体、何をやっているんだ、お前は」
「……も、申し訳ありません、お兄様っ……自分で、出来ますっ」
と、なぜか怒ったようにそう言われて、私は、謝罪することしか出来ない。
嫌われていることくらい分かるから、なるべく事を荒立てないようにそう伝えれば、そんな私の目を一度ちらりと見たあとで、兄は、少し苛立ったような表情を浮かべながら。
「……今日は、あの番犬は一緒じゃないのか?」
と、聞いてくる。
【番犬【・・】、という単語には、直ぐに思い当たらなかったけど。
兄が犬扱いしていたのに該当する人間が、一人いた……。
「……セオドアのことですか? 一緒に来てくれてますけど、流石に女性しかいない御茶会の場までは……」
――私の騎士を、犬扱いしないで欲しい、
そう思いながら、兄に向かって、ちょっとだけ怒ったように声を出せば、ウィリアムお兄様はわざわざ、洗面台と此方へと往復し……。
しゃがんで、私のドレスに何度も濡らした石けんを擦りつけては、自分の手のひらが水に濡れることも構わずに、私のドレスをくしゃりと自分の手で汚れが落ちるように、揉みこんでいく。
そのことに、あわあわとしながら。
「……自分で、出来ます、おにいさまっ。……手が、ぬれちゃいますっ」
と、か細く、声をあげるけど、兄は、私のおろおろとしたその声には一切、返事を返してくれる気配がない。
「……いつも、こうなのか?」
そうして、問われた一言の意味が分からずに、首を傾げれば……、呆れたように、はぁ、っと、小さくため息を溢されて、そのことに、びくりと条件反射のように肩が震えてしまう。
「こんな風に。
……いつも、こういう
それから問いただすように聞かれた一言に、私は、暫くしてから、ようやく兄が私に何を聞きたいのか納得がいって、なるべく平常心を装いながら、声を出す。
……声は、少しだけ震えていたかもしれない。
「いえ、御茶会に誘われること自体、初めてのことでしたので。
……このような場所で、こういう事を言われるのは初めてのことです」
「……こんな場所じゃなかったら、今までにも似た様なことがあったのか?」
「……え、っと、あのっ……」
「……そのようなことが、あったんだな? 一体、誰だ?」
「……え?」
「言えっ。……一体、今まで誰に、そんなことを言われたんだ?」
詰問にも近い、怒りと不愉快そうな顔を隠しもしない兄のその質問に……。
「あの、マナー、講師、とか……。
今まで、仕えてくれていた侍女とか、騎士、とか。
あっ、えっと、だけど今、私に仕えてくれている人達は本当にみんな、そんなことは言わないし、優しい人達ばかりでっ」
と、しどろもどろになりながらも、なんとかそれに答えれば……。
「そんなことは、聞いていない」
と、ウィリアムお兄様は、それっきり、むっつりと、黙り込んでしまった。
その怒ったような雰囲気に、ただ圧倒されて……。
(どうしよう? 何が、正解だったのか、全くわからない……っ)
と、一人、内心で困惑していると。
「うわぁ……、流石に、怖すぎじゃないっ⁉︎
もっと、レディには笑顔を振りまいてやらないと嫌われるって。ねっ?
鳥籠の中の、お姫様?」
……とどこか、呆れたような様子でお兄様に向かって声を出したあと、私に向かって声を出してくるもう一人の存在に、更に戸惑ってしまう。
「……えっと、あ、の……っ」
「うるさい、黙れ、喋るな、ルーカス。
……お前のその口を縫いこんで、永遠に喋れないようにしてやろうか」
「……まぁっ、こんなにも忠義を誓っている人間に、なんて酷い言い草でしょう」
……おどけて、ふざけて、からかって。
無表情がデフォルトの兄と、こうして対等に言葉を交わしあっている。
そのことに、驚きつつも……、この人の存在を、私は記憶の中からなんとか引っ張り出すことに成功した。
「エヴァンズ侯爵、さま……?」
「残念、その息子です、
未来では、彼が侯爵家を継いでいたから、そう呼んだけど。
……そうか、まだ、継いでいないのか。
お兄様と年齢が同い年だったはずだから、確か今、十六歳、だったかな?
未来では、お兄様の、側近中の側近だったはず、だ。
嗚呼、そっか……、それで、お兄様が侯爵家に来ていたのか……。
二人の関係性を傍から見るに、皇太子であるお兄様に対し、こういう非公式のプライベートな場では、対等な言葉遣いが許されているほど、同い年で、気の合う友人という間柄であることはその様子から窺い知れた。
「あの、とりかご……?」
「おや? ご存知ない?
殆ど公に顔を出すことがない深窓のお姫様だからそう呼ばれていることを」
「……あぁ、なるほど。私の事を
「……っ、あーっ、これは失礼しましたレディ。
そのようなつもりは一切なかったんだが」
「いえ、大丈夫です。気にしてませんから」
私の言葉に、エヴァンズ侯爵の子息だという彼の表情が一気に戸惑ったようなものへ変わる。
「……参ったね、どうも。皇女様は噂とは全く違うらしい」
そうして、やりにくそうな顔をした彼は、ぽつりとそんな言葉を口にした。
「いいえ、あまり変わってません。
……我が儘だったのも、癇癪で色々な人を困らせていたのも事実ですから」
「そりゃァ、また、なんで。……どんな心境の変化で?」
「……私には、その全てが必要なくなっただけです」
そうして、問われたその言葉に口元を緩め、ふわり、と笑顔を溢せば、納得したような、納得していないような顔をした彼は……。
「おい。いい加減、その口を閉じろ、ルーカス」
と、不機嫌そうな表情を全く隠すこともないお兄様にそう言われて、今度こそ、その口を閉じた。
その、瞬間……。
「……紅茶がドレスにかかったって聞いて来たんだが、コイツは一体どういう状況だ?
なんで、
……いつまでも、帰ってこない私のことを、誰かから聞いて心配してくれたのだろうか。
やってきてくれたセオドアが、私達の様子に、警戒しながらも、困惑したような表情を見せた。
その隣に、セオドアをここまで連れてきてくれたのか、さっき、私達をこの場に案内してくれたエヴァンズ家の侍女の姿も見える。
そうして、セオドアの姿を確認した瞬間、私のドレスのシミを落としていた兄の手がピタリと止まり。……その場から立ち上がると、もう興味を一切無くしたようにサッと私に背を向けていく。
「……この駄犬、が。……来るのが遅い」
ドンっ、と、一度セオドアの胸元を拳で叩いた兄は、それっきりエヴァンズ侯爵の息子、お兄様にルーカスと呼ばれていたその人を引き連れてここから、離れていく。
その間際、ルーカス、さんが、侍女に耳打ちするように、二言、三言、何かを話すと。……血相を変えた彼女は慌てたようにこの場から去って行った。
それと引き換えに、私の全身を見たセオドアが、慌てたように此方へと駆け寄ってきてくれる。
「……っ! 姫さん、大丈夫かっ!」
そうして、私のドレスの惨状に息を呑むと、険しい顔をして、セオドアが自分がつけていた騎士のマントをふわりと、私の身体にかけてくれた。
そのあと、マントの端と端を、胸の前でキュッと結んでくれる。
さっき、兄が、紅茶のシミを石けんで擦ってくれていたけれど、綺麗にそのシミが落ちたとは、到底、言い難いし。
何より、胸の所がボートン夫人に水で濡らされてしまい、結構、際どく透けていた……。
まぁ、私自身が子どもだから、多少透けていても、別にどうってことないんだけど。
……だって、普通に、ぺったんこ……。
「だいじょうぶ」
「……っ! そんな姿で……、全然、大丈夫なんかじゃねぇ、だろっ。
クソっ、俺が、もっと早くに来ることが出来ていればっ。
いや、そもそも、茶会の場だからって、姫さんから片時も、離れるべきじゃなかったっ……。
一体、何があったんだ? ……っ、何をされ、た?」
そうして、私を心配してくれながら、地を這うような低い声でセオドアが声を出すのが聞こえてきた。
さっきまでの経緯というか、兄と私の詳しい遣り取りまでは見ていなかったのだろう。
先日、廊下でバッタリとお兄様に会って、あんなことがあったばかりだから……。
警戒してくれているのは、言われなくても分かった。
私のことを心配するセオドアに私はふるふると首をふり、ひとまず、兄には何もされていないことを伝えたあと。
「……心配してくれて、ありがとう。
ちゃんと帰りの馬車の中で話すね。
とりあえず、一緒に御茶会の会場に戻ろう?
きっと、侯爵夫人や、他の方達が心配されているから、呼びに来てくれたんだよね?」
と、そう言えば……。
「……っ、分かった」
と、声に出して、まだ納得はしてくれていなさそうだったけど、それでもセオドアは、私の言葉に頷いてくれた。