……それから。
私の予想に反して穏やかに進んでいたお茶会の時間も、中盤に差し掛かり、それまでの間に、巻き戻し前の知識をフル活用して『これからやってくるであろう、最新の流行』を、質問された内容に従って、いっぱいいっぱいになりながらも、その場の空気を壊すこともなく答えられていたのだけど。
和やかに交わされる会話にも、なんとか私でもついていけるようになった頃……。
不意に、隣に座っていた夫人が、持っていた紅茶のカップを、テーブルの上に落としたのが見えた。
ゴト、という鈍い音から、まだカップの中に残っていた紅茶が、じんわりとシミを作るように私の方へと流れていく。
「……っ、」
……あっという間の出来事すぎて、私が何かを言うことすら出来ない間にも、それは机の端を伝って、ぼたぼたと、私のドレスを汚していってしまった。
「まぁっ。……まぁ、まぁっ!
やだわ、私ったら、何てことをっ!
ごめんなさい、皇女様。折角、皇女様がお作りになったというドレスですのにっ!」
そうして、隣に座っていた夫人が慌てたような仕草で、此方をみて謝罪してくる。
「大変、直ぐにタオルを持ってきてっ!」
侯爵夫人が、控えていた侍女にそう伝えてくれると……。
直ぐに、侍女は動いてくれたんだけど、私のドレスにべちゃりと染みついた紅茶が直ぐに取れる訳もなく。
「皇女様、火傷はしていらっしゃらないですか?
あぁっ、私ったら、本当に、どうしましょうっ。侯爵夫人、洗面台があるところはどこですか?
私が責任を持って皇女様をお連れしますわ」
「……ええ、それならお願いしようかしら。皇女様とボートン夫人を、案内してあげて」
それから直ぐに、きちんと対処した方が良いだろうということで。
侯爵夫人に言われて、控えてくれていた侍女がこくりと頷いたあと「……此方です」と、私達を先導してくれる。
そうして、案内された洗面台についたあと……。
「あなたは、もう大丈夫よ、ご苦労さま。一度案内して頂ければ、私でも帰りの道は分かるから」
と、私に向かって紅茶を溢してしまった夫人が、侯爵家の侍女に向かって声を上げた。
一瞬、主人の命令ではないことに躊躇った様子だった侍女は、けれど直ぐに目の前の夫人の言うことに従い「承知しました」といって、引き下がった。
……それから、幾ばくも経たぬうちに。
こちらへと振り返った、その人の表情は、さっきまでの心配そうな顔も、こちらへと謝罪するようなそんなものではなく。
――くすり、と、嘲るような、どこまでも歪な笑みを浮かべていた。
(……嗚呼。この表情は、どこまでも、見覚えのある、顔だ)
そこで初めてこの状況が、目の前の夫人によって作り出された物だと悟る。
「あらまぁ、本当に大変ね?
こんなにも薄汚れてしまって。……早く綺麗にして差し上げないといけませんわね、皇女様」
そうして、何の感情も湧かないような、心が一切こもっていない、その声で、私を見て、そう言ったあと……。
洗面台に置いてあった、石けんを入れておく器から、石けんだけを取り出して、それに水を汲んでから、彼女はなんの躊躇いもなく、それを、私にぶっかけた。
……ぱしゃり、と水の跳ねる音がして。
量自体はそんなに多くないにしても、胸をめがけてかけられた水滴がぽたり、と地面に向かってしたたり落ちていく。
「……あら、あらっ。濡れ鼠みたいで素敵ですわ。どこぞの赤鼠【あかねずみ】が、よくも、こんな神聖な場所に来られましたこと」
くすり、と歪に嗤いながら、悪意だけを表情に映し出した目の前の夫人は。
大人気ない表情を全く隠すこともなく私の事を見ながら、けれどその口調はどこまでも、小さな子どもに言い聞かせるように
「確かに皇女様のセンスは素敵よっ。
けれど、あなたが私達に認められているのはそのセンスだけ。
いいかしら……?
穢らわしい血が入っているあなたのこと自体を、本当の意味で認める人間などいないことを、あなたは知らないといけないわ」
――ねぇ、そうでしょう?
と、言ってくる。
(……変化球で、こんなのが飛んでくることは、全く予想してなかった、な)
決して胸から上へ水が飛んでこないことも、目の前の夫人の計算ずくの行動なのだろう。
御茶会の会場へと戻ったとき、私の髪や顔が濡れていたらそれだけで可笑しいと思われるだろうから、それから、もう一度、『私の事を思って言っている』という体を一切崩すこと無く。
「子どもの考えたデザインに、今は物珍しくて、みなが好奇心から集まっているだけなのよ。
優しいから誰も仰らないの、も十歳にもなられる皇女様なら、分かるでしょう?
それともそんな簡単なことすら、理解出来ないのかしら?全く、烏滸がましいにも程があるわ。
……侯爵夫人は気位の高い素晴らしい御方です。
そうして彼女に呼ばれたという事はとても名誉なことであり、一流のレディであることの証。その御茶会は誰もが夢見る場所よ? 本来なら、あなたはこの場所にくることすら出来ない人間だということを思い知りなさい」
と、そう言ってから、どこまでも嘲るようにその口の端を上げて私に向かって笑みを溢す。
本気でそう言っているのだろう、ということはその表情から直ぐに読み取れた。
……この人にとっては、赤い髪をした忌み子の私に『正論を言ってやった』という感覚でしかないのだろう。
一応、皇女である私に対して、自分だけが、子どもを叱るみたいに正しいことを伝えられる。
……という、ある種の、正義感でもあるのかもしれない。
でも、私にとってこんな言葉は、最早、普段から聞き慣れていると言ってもいい。
――私に対して、そういう事を言う人達は、いつだってそんな表情を浮かべてくる。
あまりにも慣れ親しんだ侮蔑の表情と言葉の羅列に、傷つくことも最早、なくなっていて、ぽっかりと穴が空いてしまったかのように、無くした感情に何の感慨も抱くことなく、私は、目の前で私のことを馬鹿にしてくる人を、ただ真っ直ぐに見つめて、薄く笑みを浮かべた。
「……っ! なにを、わらって、いる、のっ?」
「ご忠告、痛み入ります。
……私よりも長く生きてらっしゃる夫人のお言葉です。
きっと、人生経験が豊富でいらっしゃるはずですから、有り難く、これからは、その言葉を心に刻んで生きていきますね」
「なっ、なに、をっ……」
私から、そんな言葉が降ってくるとは欠片も思って居なかったのか。
……彼女が予想していた反応は、私が泣くことか、それとも、怒ることか。
――癇癪を引き起こすことを、狙っていたのか。
御茶会の会場に戻ったあとで、そんな、私を周囲の人に見せびらかして、『私がこれだけ手を尽くしたのに、皇女様は、礼節も何も弁えていないのよ』ということを伝えたかったのか。
……どちらにせよ、浴びせられる幼稚な言葉に、こちらも同じ土俵に上がる必要なんて全く無い。
私は、真っ直ぐに目の前の夫人の瞳を見ながら、そう声に出した。
「……ヒュー、カッコイイっ……!」
……其処へ。
唐突に、その場には場違いとも思える、口笛、一つ吹いたような音がして、そちらに視線を向けると。
銀の長い髪を無造作に一つに束ねた男の人が、洗面所の入り口にある壁に寄りかかり、涼しげな表情で私とボートン夫人のことを見ていた。
「なっ、なっ……」
その男の人を確認した瞬間、一気に夫人の表情が青ざめていく。
「……る、ルーカス様っ!
こ、これはっ、あの、違いますっ!
こ、皇女様のお洋服を綺麗にしている途中でしたのよっ」
「ふっ、はははっ!
自分の表情、その鏡でよく見てみれば?
すげぇ、醜い顔してんの、丸わかりだよ、ババア」
途端、冷や汗を垂らして焦りながら、取り繕ったように声をあげる、夫人に、銀色の髪をしたその男の人は口元に笑みを湛えたまま、心底楽しそうな声を溢しながら、あからさまに嘲笑したあとで、夫人のことを罵った。
「……なっ!」
「あーあ、イケないなぁ……。
人様ん家で、誰が見ているかも分からないところで、そんなことしやがってたら、ほら……、俺にこうして見つかっちゃってんじゃん。
そういうことはもっと上手くやらないと。
……どう考えても、皇女様の方が、あんたの何倍も大人なの、見て分からない?」
夫人に、ルーカスと呼ばれたその人が、お世辞にも綺麗とは言えない言葉を、はっきりと、そう口に出しながら、どこまでも愉快そうな顔をすれば、夫人はもう何も言えなくなったのか、パクパクと、口を何度か動かして……。
「……こ、これはっ、そのっ」
と、しどろもどろになりながら、単語にもなっていない言葉を紡いでいく。
「……まっ、そんなことは、関係なく。
……どっちにしろ、もう、あんた、終わりだけどね」
そうして、少しだけ目を細めながら、はっきりとそう声に出した男の人は、視線を私達から逸らしたあと、すぐに、自分の横にいる人影へと向けた。
それから……。
ルーカスと呼ばれた人の視線を受けて、
「……ウィリ、アム……殿下っ!」
夫人が大きく目を見開いて、驚愕したように声を出したのが聞こえてきて。
――いったい、いつからそこにいたのだろう?
一番上の兄の、その金色の瞳が、濡れ鼠になってしまった私と、夫人のことを無表情で、見下ろしていた。