「……っ、ぁっ……ご、ごめんなさいっ」
今の時間ならばまだ、皇帝も執務室で仕事をしているだろうと踏んで……。
幾つかある宮の中の仕事場などがある
鼻が痛いのを我慢しながら、ぶつかってしまった相手から距離をとり、慌てて頭を下げて謝罪しつつ、よく確認もせずに上を見上げれば……。
「……っ、おにい……さまっ」
――どこまでも、冷たい金色の瞳が見下ろすように私に視線を向けていた。
二番目の兄であるギゼルお兄様は、悪感情だけを此方に向けてくるだけ、ある意味で分かりやすんだけど……。
巻き戻し前の軸も含めて、いつも私には、一番上の兄、ウィリアムお兄様が何を考えているのかが全く読み取れず、無機質なその冷たい瞳が、……どうしても、苦手だった。
……同じ『金』でも、兄弟でこうも違うものなのだろうか。
二番目の兄の瞳に宿るものが燃え盛るような炎なら、一番上の兄の瞳はどこまでも冷たい氷みたいだといつも思う。
「……こんな所で何をしている?」
兄の静かな問いに、私は再度頭を下げて、丁寧に謝罪したあと……。
「お父様に用事があったので、此方に」
と、声をあげる。……思わず、震えてしまった自分の声に、苦笑する。
二番目の兄も、お父様も、今回の軸では淡々としながらも関わることは平気だったのに。
一番上の兄に対しては、未だ、苦手意識を払拭することが出来ず、こんなにも恐怖心を感じている自分が情けない。
「……用事? そんな話は聞いていないが?
……突然、こちらにやってきても、会えないことくらいはお前でも知っているだろう?
父上が常日頃から忙しくされていることをお前は全く考慮していないのか?」
そうして、強く、咎めるようにそう言われて、私はふるりとその言葉に、一度、首を振って否定してから……。
「……勿論、承知はしているつもりです。……ですが、どうしても急用が出来てしまったので」
と、なおも、食い下がるように声を出した私の言葉に、どこまでも冷たい視線を向けたまま、呆れたように一つため息を溢した兄は……。
「なら、俺が聞こう」
と、思ってもみない事を私に提案してきた。
「お兄様、が……?」
「父上の手を煩わせることもないだろう。
……どうした? 俺には言えない事なのか?」
そうして、私を上から見下ろすように眺める兄の姿に色々と諦めた私は、仕方なく重たい口を開くことにした。
「お父様の指示だと。
……今日、新しい侍女が私の元へ来たのですが、伝令が無かったため、本当にお父様の指示だったのかどうかの確認を」
「あぁ、今朝の朝食での話だ。……間違いない」
「では、やっぱり本当なのですね?」
「……はぁっ……。そんなことで嘘を言うほど、俺も暇じゃない。
というか、それだけなら伝令が来るのを待てばいいだけの話だろう?
何かがあって、伝令が遅れているだけかもしれないものを、ほんの少しでも我慢出来ないのか、お前は。待っていれば、今日中に、絶対届くはずのものを……。」
それから、ぴしゃりと厳しくそう言ってくる兄の姿に、私は小さく口の端を吊り上げて、薄く笑みを浮かべた。
(……もしもそれが、お兄様相手のことならば、本当に伝令が遅れているだけで、ちゃんとその日のうちに情報は正確に届けられるだろう)
兄の常識の中に、皇族相手に『わざと、誰かが悪意を持って、陥れるため』に情報を止めているなんてことは、欠片すらも存在していない。
兄と私の間にある、絶対に噛み合うことのない認識の違いに、私はただ、苦笑することしか出来ず。
「それだけか?」
と、冷たい視線を向けてくる兄に……。
一度、口を開きかけて、けれど何て言ったらいいのか分からず、言いよどんでしまった。
そんな私のことを、兄が訝しげな表情で見つめてくる。
そうして、私の持っている缶に兄の方が目ざとく気付いて視線を向けた。
「……それは?」
問われて、私は苦笑する。
……それから、一度だけ俯いて、再び、言いよどんだあと。
最早、これが見つかってしまった以上、言わないでおくことなんて出来ないだろうと諦めた私は、その缶に視線を向けながら、声を出すことにした。
「……そのっ、今日、貴族の方から届けられたプレゼントの中に、毒が混入されていたんです」
戸惑いながらも、事実だけを正確に切り取って、なんとか伝えれば、『はぁっ……』という、失望したようなため息がひとつ聞こえてきた。
そのことに、反射的に、びくり、と肩を震わせれば……。
「……いい加減にしたらどうだ?
お前はまた懲りもせずにそうやって、父上の気を引くような嘘をつくつもりか?」
「……っ、ちがっ……!」
と、呆れたように兄から降ってきたその言葉を否定しようとして、視線を向けた先、此方をただ真正面から非難する目つきで見てくるその姿に、何も言えずに身体が硬直してしまった。
「……全くお前は本当にどこまでも愚かで浅ましいな。よくも平気な顔をしてつらつらと、厚かましくも俺にそんな言葉を伝えてこられるものだ」
そうして、兄から容赦なく冷酷で厳しい言葉が降ってきたことに、私はぎゅっと手のひらを握りしめた。
(……こんなことで、傷つくなっ)
信じて貰えないなんて、今に始まったことじゃない。
けれど、息を詰まらせて、それ以上どう言えばいいのか分からなくなった私は、未だ冷たい瞳で此方を見下ろしている兄の視線に耐えられずに俯くことしか出来ない。
そんな、私の目の前に……。
……そっと、影がよぎったのが目に入ってきた。
パッと、視界に映ったのは、見慣れた騎士の隊服で……。
「……っ、セオ……っ」
気づけば、セオドアが私のことを守るように、立ってくれていた。
しかも、完全に鞘から抜いた剣の……。
――その切っ先が……、兄の方を向いていた
「騎士ごときが。……一体、どういうつもりだ?」
「……ハッ……!
あんたが、次期皇帝様だから、俺がしゃしゃり出て、俺の主人に迷惑かかるような真似なんざ出来ればしたくなかったけどよ。
ふざけんなよっ? その
皇族だろうが、皇帝だろうが、絶対に容赦しねぇぞっ……!」
「っ、セオドア、待ってっ!
だめっ。……あのっ、違います、お兄様っ……! ごめんなさいっ」
守るように目の前に立ってくれながら、私のことを庇ってくれようとしているセオドアに、兄が眉を寄せて、不快そうな表情をしたあとで……。
一瞬だけ、興味を持ったように、その視線が動くのが目に入ってきた。
(今、セオドアに興味を持ったの?)
がたがたと、自分の身体が恐怖で震えてしまう。
セオドアが、私のために刃向かってくれたことで、兄から何をされるのか想像出来なくて……。
慌てて、ぎゅっとセオドアのその背の、服の裾を掴んで……。
一生懸命止めようとする私に、お兄様の呆れたような視線は、やがて、くつり、と唇を歪めて。
「面白い。飼い犬風情が俺に刃向かうというのか? ……やってみろっ」
と、挑発するような視線を、セオドアに向ける。
その状態に、一人、あわあわと慌てながら……。
縋るように、アルに視線を向ければ。
「うむ、セオドア、僕もいい加減、
と、何故か此方は此方で、セオドアの横に立ってお兄様相手に応戦しようとする。
……突然、緊迫感を増してしまった一触即発のその雰囲気に、けれど兄にほんの少しでも傷を付けてしまったなら、もう、罪を免れることなど不可能だろう。
今の私に出来ることは、二人に対して可能な限り『やめて』と伝えることだけで……、無意識のうちに、ぎゅう、っとセオドアの服を握る手に力を込めれば……。
「……随分と外が騒がしいと思って来てみれば、これは一体どういう状況だ」
ぽつり、と……。
静かに。……だけど威厳のある声色で、この場を制するような発言が辺りに響いた。
「……おとうさまっ……!」
……誰の声かなんて、見なくても分かった。
その存在に、こんなにも感謝する日が訪れるなんて思いもしなかったけど、その姿は今の私にとって限りなく『救い』に違いなかった……。