「アリス様と距離を、感じます」

　扉を開けてすぐ、医者であるロイに、開口一番そう告げると、彼は私を見て困ったように頭を掻いた。

　私達がこうやって密室とも呼べる場所で会話を交わしているのは他でもなく、私の仕えているアリス様のためだ。

　言い換えれば、こうして人目を避けてこの医者と会わなければいけない程に、アリス様には敵が多いということだ。

　それもあってか、誘拐後に奇跡的な生還を果たしたあと、すっかり人が変わられたように達観し、落ち着き払っているアリス様に、私は何かを失った時のような焦燥感に似たものを感じていた。

（一体、誘拐時にどんな大変な思いをしたのだろう？　助けもこずに、母である皇后様も殺されて、

　どんなに恐かっただろう）

　ぎり、と、小さく唇をかみしめる。

　大事な御方だからこそ、何かしたいと思うのに、お側にいても何も出来なくて歯がゆい気持ちばかりが湧き上がってくる。

（あれがほしい、これがほしい）

　と、もっと、子供っぽく喋る御方だった。

（……身体はっ？　……どこも怪我してない？）

　切羽詰まったように、私のことを一番に心配されたアリス様の姿を思い出すだけで胸が痛くなる。

（死ねなかった……？）

　と、ぽつり、絶望したようにそう言ったあの方が忘れられない。

　……そうして、今まで愛情にただ飢えていて、欲しかった者の関心を引くことすらも、そっと手放すに至るまで。

　口調を変えて、急激に大人でいようと努力するその姿に、諦めた様に、自分が『魔女』だと認めてしまっているようなその姿に……、周囲に対する憤りを感じずにはいられなくて、私は怒りで手足が冷たくなるのを感じていた。

「前にも話したように、恐らく事件の後遺症だと思います」

『よほど、恐い思いをしたのでしょう』と言うのが、ロイの見解だった。

　感情を無くしてしまうほど、酷い思いをしたのだろうと、彼は言った。

　そうして、安定しているように見える今が、実は、いつ崩れてもおかしくない程に危険でぐらぐらと不安定な状態なのではないか、と。

　それがアリス様があの事件以降、『誰とも、一線を引いて会話をしている』ことからしても明白だと。

　――まるで、人が変わったかのように、アリス様が穏やかに笑うようになった。

　それ自体は良いことのはずなのに、アリス様がどこか遠い存在になってしまったようなそんな風に思えてならなくて……。

「周囲がアリス様のことを魔・女・の・子・だなんて、言っていても、私はそうは思わない。護られなければいけないはずの小さな子供が、どうしてそんな誹謗中傷を受けなければいけなくて、母親まで奪われなければいけなかったのかっ」

　荒げるように溢した私の本音交じりの言葉に……、頷いてくれる人間が、ほんの一握りしかいないことを私は知っている。

　そうして、その数少ない貴重な人間が現在いま、私の目の前にいることも。

「アリス様に外傷は見られなかった。その代わりに、心の傷は見えない故に分かりづらい。……ただ、皇女様に特殊な能力の兆候がまだ見えないのが不幸中の幸い、か」

　ぽつり、と憎々しげに呟かれた一言は決して前向きなものじゃない。

　紅色の髪を持っていたとして、全ての人間が『魔女』と呼ばれるように能力を持っている訳じゃない。

　その大半が、何の能力も持たないのに、紅に近い髪色だからと『魔女』扱いされて迫害される普通の人間だ。

　……アリス様にもしも、特殊な能力が備わっていると知ったら、その時点で恐らく『魔女』と侮蔑する保守的な貴族達は一斉に彼女に群がり、これ幸いとばかりに食い物にするだろう。

　そうでなくとも、テレーゼ様が皇后に正式に就かれたことで、そのお立場が危ういというのに。

「外傷はなくても、アリス様が本当に何かしらの能力を持っていたら、それはそれで短命かもしれないんですよね……。そんなの、酷すぎます」

　アリス様は何も悪いことはしていない。

　確かに以前までのアリス様は気性も荒く、時々手がつけられないこともあった。

　でも、それは生まれた時から『彼女を愛するはずの存在』が誰一人、存在しなかったからだと私は思う。

　愛を切望して、小さなその手のひらで一生懸命腕を伸ばしても……。

（誰一人として、彼女のその小さな手のひらを大丈夫だと握りしめてはあげなかった）

　一介の侍女の私では、アリス様の寂しさは一時、埋められても……、その根本的な部分までお救い出来ないことが、どうしようもないほどに歯がゆいと感じてしまう。

　今、どんなに近く、お側にいてもその心が此方へと向くことはないのだろう。

　それは、傍に居ればいるほどに、身に染みるように分からされる。

（アリス様の瞳は、今、誰の方も向いていない）

　前までならば、その矛先が誰に向いているか、手に取るように分かりやすかった。

　母親、父親、兄弟……家族。でも、今は本当に、凪いだ水面みなものようにぴたり、と。興味関心その全てが、誰の方も向いていない。

（まるで、全てを、諦めてしまったかのように）

　それは、私達がお嬢様の手を取ることをやめてしまったら、その瞬間に、彼女は穏やかに笑って、全てを手放してしまうかのような、そんな危うい状態に見えてならなかった。