「お父さま、お待たせしました」
時間ギリギリで執務室に転がり込むと、父は慌てた様子のリリーに目を丸くした。父は仕事の休憩時間のようで、襟元をくつろげて深くソファに腰かけている。
「はい、いらっしゃい。まさかお父さまとの約束を忘れてたなんてことはないよね?」
「いえ、そんなことはないですわ」
図星でむせこみながらも慌てて否定すると、父はにっこりと微笑んだ。
「ならいいんだけれど。お父さまがどれだけこの時間を楽しみにしてたか! ハルモニアとユナも聞いてくれる?」
いきなり話しかけられて驚いたハルモニアは、びくりと肩を震わせると、ユナを見た。
「長いから聞かなくていいのよ」
ユナがハルモニアに耳打ちして、すぐに父に目を向ける。
「公爵さま。時間もかぎられていますし、私たちに構うよりも、お嬢さまとお話しされたほうがよいのではないでしょうか」
「おお、それもそうだね」
子煩悩の父の娘自慢は長い。明らかに相手をするのがめんどくさそうな表情をしてそう言ったユナだったが、父には伝わっていなかったようで、納得して手を打った。
「じゃあ本題に入ろうか。正式に奴隷制度の廃止が宣言されたんだ。おめでとう、これできみも平民だよ」
「まあ、よかったわ」
隣に座るハルモニアに目を向けると、きょとんとしている。
「ハル、あなたはもう奴隷じゃないんですって。誰かにお金で買われたり、指図されたりすることは金輪際ないのよ」
そう説明すると、ハルモニアは理解したのかしていないのかわからないぼんやりした顔のまま、父に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「うん」
父は笑顔でひらひらと手を振る。
最初は困惑していた父だったが、彼も彼でそれなりにお人好しなので、行く当てのないハルモニアを受け入れてかわいがっている。
――よかったわ。これでひと安心ね。
そう胸をなでおろしたとき、リリーはたいせつなことを忘れていたことを思い出した。
「あ!」
「どうしたんだい、リリー」
「あ、あの……お父さま」
「うん、なんでも言ってごらん」
こわごわ父を見上げると、娘に見つめられてうれしいのか父は満面の笑みでリリーを見る。
「あの、私、ハルモニアを一億で買ったんです……」
「い、い、一億!?」
父は奴隷市場の聴衆と同じように叫ぶと、こめかみを押さえてうなった。
やっぱりやりすぎだったのだとリリーは反省して縮こまる。
「まだ払ってないよね? さすがのリリーでも一億は持ち合わせていもんね」
「え、ええ」
リリーは何度もうなずく。
父はよかったと大きなため息をついた。
「なら大丈夫だ。あの奴隷市場は解体されたんだけど、どうやら以前から何度も違法な取引をしていたようで、奴隷商人は逮捕されたんだ。ハルモニアくん、きみもその違法な取引の被害者なんだよ。この国は昔から未成年の売買を禁止しているんだ。だからまあ、支払う必要はないんじゃないかな」
それから父は、「法務省や警察にはうまく話しておいたから」と言った。
「うまく話す」がなにを指すのかはわからなかったが、ただでさえ忙しい父によけいな負担を増やしてしまったことを申し訳なく思う。
「すみませんでした」
そもそもリリーは、奴隷制度の存在こそ知っていたもののその中身をよく理解していなかったので、未成年の取引が違法なことを知らなかった。ちょうど奴隷制度の廃止が宣言されていたからよいものの、知らず知らずのうちに法律を犯していたことを知って愕然とする。
「巷では、『お人よし公爵令嬢が未成年の奴隷を気の毒がって、単身で奴隷市場に乗り込んで助けた』と噂されている」
「ああ……また噂が増えてしまったのですか……」
うしろに立つユナが頭を抱える。
「まあ、リリーのやさしさが広まっていいじゃない。危険なことをしてしまったことはきちんと反省しているようだから、もうこの話は終わり」
「す、すみませんでした」
謝ることしかできないリリーに父は肩をすくめた。
「じゃあ、ひとつだけお父さまからお小言を。これからは、なにか気になることがあったら、一人で行動する前にお父さまやお母さま、ルルベルに相談してくれると約束してくれるかい? リリーになにかあったら、私たち家族は幸せでいられないのだから」
リリーはハッとする。
自分が向こう見ずな行動をすることで、家族全員を不幸にしてしまうかもしれないのだ。ユナやこの屋敷の使用人、それにハルモニアだって自分のことを心配してくれている。
――私、なんて馬鹿なことをしたの。
「はい、気をつけます」
リリーが固くうなずくと、父は満足げに笑った。
「あ、そういえば、あしたアルベルトくんが屋敷に来るんだって。ルルベルと結婚式のことを話し合ったり、衣装を選んだりするらしいんだけど、時間が合えばリリーにも会いたいって言っていたよ」
「わかりました」
「お父さまは不在にしているから、おもてなしを頼んだよ」
「はい」
ハルモニアがリリーを不思議そうに見上げた。
「誰……ですか?」
父の前なので敬語を使っているが、たどたどしい話し方がかわいい。
「アルベルトさまというのはね、お姉さまの婚約者さまなの。近いうちに式を挙げるから、あしたはその準備でいらっしゃるんですって」
「……わかりました」
神妙な面持ちでうなずくハルモニアがかわいくてほおずりしたくなるが、父の目があるのでぐっとこらえる。
ふとリリーは気づく。
ハルモニアのことをアルベルトになんて説明すればいいのだろうか。あの温厚な姉の婚約者に、奴隷市場で買ったんですだなんて無邪気に言えるわけがない。
――アルベルトさまが聞いたら、泡を吹いて倒れてしまうかもしれないわ。
あと先考えずに行動するからこういうことになるんです、と頭の中のユナが叱る。ほんとうに言われたような気もして本人をちらりと見ると、「なんですか」と睨まれてしまう。
「なんでもないわ」
リリーはうーんと頭を抱えた。