「ここは……?」
少年を追いかけて迷い込んだ通りは、さらに暗く寂れた路地裏だった。石畳はところどころ剥げていて、まばらに立つ建物もあばら家といった外観だ。
「城下にこんな通りがあるのを知らなかったわ。ねえ、ユナ?」
追いついたユナを振り返ると、彼女の顔がめずらしく暗いことに気づく。
「ユナ、どうしたの」
「……ここは奴隷市場です。治安がいいとはけっして言えない場所ですから、用がなければうかつに近寄りません。早く立ち去りましょう」
ユナは低い声でそう言うと、リリーを引っ張って来た道を引き返そうとする。
「待ってちょうだい」
「危険なんです。お気持ちはわかりますが、お嬢さまがいていい場所じゃありません」
リリーが尻込みしていると、すぐそばの建物からひときわ大きなどよめきが上がった。
このあたりの建物のなかでは比較的しっかりとした造りに見える。三階建てほどの高さで、入口には重厚感のある扉がついていた。
中でなにか行なわれているのだろうか。気になったリリーは、ユナの静止を無視して建物の窓を覗き込んだ。
そこに広がっている光景に、リリーは息をのんだ。
建物のなかは、芝居小屋のような造りになっているようだった。舞台の中央にぽつんと立つ人間を、見物席の人々が取り囲んでいる。舞台上で強い照明に照らされたその人は、ぼろきれ一枚を身にまとってはいるがほぼ裸同然。
奴隷の売買。遠目で見てもやつれていて、鈍いリリーでもいま何が行なわれているのか瞬時に理解した。
「おわかりでしょう。行きますよ」
ふたたびユナに腕を掴まれる。さっきよりも力が強いが、リリーの視線は舞台から離れられない。
「で、でも……」
「はやく!」
しびれを切らしたユナが大きい声を出したときだった。
「お嬢さん方、なにかご用ですか?」
先ほどの大男が、リリーとユナの背後に立っていた。
ふり返るとはりつけたような笑顔と目が合い、リリーの背中に汗が伝う。
恐怖でなにも言えなくなってしまったリリーとは対照的に、ユナは落ちつきはらっている。リリーをつかんでいた手を離すと、大男からリリーを隠すように立った。
「道に迷ってしまったんです」
ユナの声はいつもより低く、平坦だった。
大男は二人の表情が固いことなんて気にも留めず、明るく朗らかな声色を崩そうとしない。
「ああ、なるほど。城下の中央広場のほうからおいでですか? 今日は休日だから人混みがすごかったでしょう」
「ええ。大通りに戻りたいのですが、あちらであっていますか?」
あちら、とユナはやってきた方向を指さす。
大男はそちらを一瞥すると、ユナに目を戻した。
「大通りに出るなら、あっちの道を通ったほうが近いですよ」
「ああ、そうですか。ありがとうございます」
ユナは軽く頭を下げると、リリーを連れて足早に去ろうとする。
リリーは少年の行方が気がかりであったものの、大男の放つものものしい雰囲気に、明らかに危険な場所に来てしまったことを身をもって理解し、おとなしくユナに従うことにする。
「ところでお嬢さん」
二人が立ち去ろうとしたとき、大男はリリーに視線を寄越すとそう言った。
少年のことを考えていたリリーは、いきなり話しかけられて「はい」と素直に返事をしてしまう。
ユナが舌打ちをしたのが聞こえる。
男に目を向けると、穏やかな表情の下に下卑た笑みが見え隠れしていた。
「お嬢さん、奴隷に興味はございませんか。最近、幼い少年の奴隷が貴族の婦女子に人気なんですよ。今日はちょうど新しい子どもが一人入荷したので、見ていくだけでもいかがでしょう?」
「いいえ、結構です」
――新しい子ども……?
リリーが何か言うよりも早く、ユナがきっぱりと断った。そのままリリーの手を取り歩き出そうとするので、リリーは慌てる。
「み、見ていきたいです!」
「はあ⁉︎」
「ご案内しましょう」
ユナはすっとんんきょうな声で叫び、大男は恭しく返事をした。
***
恰幅のいい大男は、リリーとユナを一番眺めのよい席に案内すると、すぐにどこかに消えてしまった。
大男がいなくなるやいなや、これまで黙っていたユナがリリーを睨む。
「ちょっとお嬢さま。いったいどういうおつもりなんです」
「さっき、あの方に連れて行かれる子どもを見たの。たぶんあの方が言っていた子どもの奴隷というのは、その子のことよ。放ってはおけないわ」
「……どういうおつもりなのかは知りませんが、公爵さまになんて言われても私は知りませんからね!」
ユナの文句はごもっともであったが、あの子どもの怯えた瞳が脳裏にこびりついて離れてないリリーであった。
会場内は、異様な熱気に満ちていた。
なにをすればよいかわからないリリーは、客席をそれとなく観察する。客席は照明が落とされていて暗いので表情までは見えないが、みなそれなりに高級そうな衣装を身にまとっている。貴族やそれに近い階級の人々なのだろう。
この国では、奴隷という階級が認められている。奴隷売買も合法だ。地位のある人々が、使用人にはやらせないような仕事をさせるために奴隷を買い求めることはわりとよく聞く話だ。
しかしリリーの実家であるレイモンド公爵家には、奴隷がいたことはない。だから、リリーはいままで奴隷というものがどういう制度なのか知っていたものの、その実態をよくわかっていなかった。
現実味がないから、まるでサーカスを見るような心持ちで、次はなにが行なわれるのかしら、なんて思いながらリリーは席に座っていた。
薄暗かった舞台上に一筋の照明があたる。
目を凝らすと、先ほど外から見た光景と同じで、奴隷と思しき人が一人立っていた。
続いて舞台袖から例の大男が登場し、恭しく礼をした。奴隷の年齢、出身、性格、値段などをひと通り延べ、男はこう言った。
「さあ、どなたがお買い上げになりますか?」
すると、客席からちらほらと声が上がる。競って値段を言い合っているらしい。
値段が上がるごとにあちこちから歓声があがる。その声色は愉悦に歪んでいた。その異様さたるや。
リリーは、先ほどまでのふわふわした心持ちから、急激に胃が冷えるのを感じた。
――人に値段をつけて悦んでいる? 見ていてあまり気持ちのいいものではないわね。
リリーは小さくため息をつく。
はやくあの子どもの安否が知りたい。そう思っていた矢先、舞台が暗転した。
すぐに明るくなった舞台を凝視すると、そこには例の子どもが立っていた。
「さあ、本日の特上品をご紹介いたします。めずらしく子どもの奴隷が入荷しました。彼は十四歳で、比較的健康状態のいい男です。ご婦人方、いかがでしょうか」
大男がそう述べるやいなや、客席から甲高い声がちらほらと上がりだした。少年の奴隷が婦女子に人気というのは本当のようだ。
冗談じゃないと、リリーは静かに憤る。
こういう場に疎いリリーでも、少年趣味の婦女子が彼をいたぶって悦ぶ姿が容易に目に浮かんだ。
「お嬢さま……」
隣に座るユナが、気遣わしげな声を出す。
少年の買い値はどんどん上がっている。
リリーは意を決して立ち上がり、まっすぐ手をあげた。
「一億でいかがです」
「い、一億!?」
客席からどよめきが起きる。
大男は満面の笑みでリリーを見据えた。
「もちろんでございます。さあ、ほかにいらっしゃいませんか?」
大男がそう問いかけると、あたりは水を打ったように静かになった。
「おめでとうございます。一億で落札です!」
舞台にぽつねんと立つ少年は、明らかに困惑していた。
――やりすぎたかしら……
拍手と歓声を受け、リリーは気まずくなって肩をすくめた。
***
大男に言われるがままに手続きを済ませ、少年の手を取って会場の外に出ると、日暮れを迎えていた。夕焼けの橙がリリーの目を貫く。
リリーは急に現実感に襲われた。もしかして、自分はとんでもないことをしでかしたのではないだろうか。おそるおそるユナを見ると、あきれ顔でため息をつかれる。
「ど、ど、ど、どうしましょう……」
「はあ?」
「私、いったいなんてことをしてしまったのでしょうか……」
「いまさらですか」
ユナはふたたび盛大なため息をついた。
奴隷を買いました、と家族に言ったらなんて言われるか。それに、支払いは後日と言われたが、一億なんて大金はさすがに公爵令嬢のリリーでも持ち合わせていない。
リリーは目の前が真っ暗になる。しかし、つないだ少年の手が小さく震えているのに気づいて、キッと涼しい表情をつくった。
「私はどうなっても知らないと忠告しましたよ。その子ども、捨てていきますか?」
突き放すような声だった。
少年がびくっと身体を震わせる。リリーはすぐに膝をついて少年を抱きしめ、ユナを見上げた。
「いやよ! 一緒に帰るんです」
「そう言うと思いましたよ。じゃあ、こんなところさっさとお暇しましょう」
ユナはすたすたと歩いていく。
「……行きましょうか」
少年にそう声をかけて立ち上がるも、そういえば彼に自己紹介をしていなかったことに気がつく。
「リリー・レイモンドと申します。はじめまして」
リリーはしゃがんで少年と目線を合わせる。にっこり微笑んでみても、少年は微動だにしない。
リリーとユナのやりとりを聞いていた様子からは、この国の言葉を理解しているように見えた。それに、彼は十四歳だと聞いている。どんな身分であっても、その年であれば字の読み書きはできなくても日常会話ぐらいならできるはずだ。
「私の言葉はわかる?」
ねんのため聞くと、少年はわずかに頷いた。
めずらしい濃紺の髪に溢れるほど大きい金色の瞳。どこか異国風情を感じる容姿だが、どうやら言葉は通じているらしい。
「お名前はなんて言うの?」
「……ハルモニア」
小さく掠れた声だった。細身の身体のわりには低い声で、成長期の子どもなのだと実感する。
「ハルモニア! すてきな名前ね。こっちは侍女のユナよ。よろしくね」
「ユナです。さ、お嬢さま、行きますよ」
「そうね。もう暗くなってしまったし、はやく帰りましょうか」
日中の薄暗さとは違う闇があたりを包みはじめていた。そろそろほんとうにこんなところを出歩く時間ではなくなってしまう。
ハルモニアの手を掴んで歩き出そうとしたとき、リリーはドレスの裾を踏み、勢いよく尻もちをついた。
「お嬢さま!」
ユナが慌てて駆け寄ってきた。
布越しに感じる石畳は冷たく、リリーは小さく悲鳴をあげた。それを聞いたユナとハルモニアがいっそう慌てる。
「私ってどうしていつも肝心なところでどんくさいんでしょうね……」
リリーははずかしくて情けなく笑うしかない。
ユナに助けられて立ち上がると、ハルモニアがドレスについた汚れを払ってくれた。
「ありがとう」
お礼を言うと、それまでずっと顔色の悪かったハルモニアの頬が、ほんのりと朱に染まった。