よく晴れたある日の昼下がり。
レイモンド公爵家の次女リリーは、侍女のユナを連れて城下を散歩していた。
リリーは学院のない休日に暇をもてあますと、年の近いユナと茶を楽しんだり、買い物に付き合ってもらったりしているのだ。
この日も、リリーにとって平凡で幸せなとるにたらない日常の一コマとなる予定だった。
城下を歩いていると、前を歩く男の紙袋から果物が落ちたのが目に入る。リリーは足元に転がってきた果物を拾うと、小走りで男に追いつき、声をかけた。
「落とされましたよ」
「ああ、すみません。ありがとうございます」
男はお礼を言って果物を受け取る。リリーと目が合うと、わずかに目を開いた。
――初めて見る方のように思うけれど、どこかでお会いしたことがあったかしら。
リリーは小首をかしげる。いかにも人のよさそうな庶民といった風貌の男に見覚えはなかった。
男は子どもと一緒に城下で買い物をしていたようだ。ふと、手をつないでいる小さな子どもが目に入る。
「あら。あなた、血が出ているわ」
子どもの膝には、血が滲んでいた。
「これはこれは、本当ですね。さっき転んだときに怪我したのかな」
父親がそう問いかけるも、子どもはリリーとユナを警戒しているのか口をつぐんだままだ。
リリーは子どもを怖がらせないようにそっとしゃがみ、膝に手を当てて治癒魔法を使った。かざした手から緑色の光が灯り、みるみるうちに膝の傷はふさがっていく。
リリーの治癒魔法はまだ万全ではないから、傷がきちんと塞がらずに化膿する可能性はある。ねんのためハンカチを膝に巻いてやると、子どもは父親とそっくりの顔でリリーをじっと見た。
「ほかに痛いところはありませんか?」
子どもはふるふると首を振る。
「ならよかった。気をつけてね」
「おねえちゃん、ありがとう」
子どもははずかしそうに頭を下げた。はらはらと見守っていた父親が、「あ、あの」と遠慮がちに声をかけた。
「あの、ハンカチは……」
「どうぞ差し上げます。ご不要でしたら、雑巾にでもしてくださいませ」
「そ、そんな……! ありがとうございます、レイモンド公爵令嬢!」
いつ名乗ったかしらと疑問に思ったものの、リリーは手を振って親子を見送る。
勉強中の治癒魔法がうまくいったことに安堵して息をつくと、それまで黙っていたユナがものすごい剣幕でリリーを睨んだ。
「お嬢さま」
「は、はい」
「次から次へと知らない人に話しかけないでください、って何度言えばわかるのですか! 仮にもあなたはレイモンド公爵家の娘なのですよ」
耳にたこができるほど聞いたお小言。
思わず苦笑いをすると、ユナがつり目がちの目じりをキッとつりあげて、「なにを笑っているのですか!」と怒る。
高い位置で一つにまとめたダークブラウンの髪が、ユナの語気に合わせて揺れる。
しっかり者のユナはまだ十八歳。十六のリリーと二つほどしか年は違わないはずだが、おっとりしたリリーが変なことをやらかさないようにと、いつも目を光らせている頼りがいのある侍女なのだ。
「わかっているわ。でも、困っている人がいたら気になるじゃない」
「まったく、お人よしなんだから……」
斜めうしろを歩くユナは、ぶつぶつと文句を言っている。
ユナは思ったことは言わないと気が済まない性格だそうで、いつも言葉が荒い。正反対の二人だが、ユナのことを姉のように慕っているリリーは、いつだって彼女が自分を心配してくれているのをきちんと理解している。
「でも、なんだかんだ許してくれるやさしいユナが好きよ」
そう言ってユナに微笑みかけると、ユナは盛大なため息をついた。
「もう! お嬢さまが巷でなんて呼ばれているかご存じですか」
「なあに?」
「『お人好し公爵令嬢』です! 名門・レイモンド公爵家がずいぶん舐められたものです。さっきの父親がお嬢さまのことを知っているようなそぶりを見せたのは、きっとこのあだ名を聞いたことがあるからですよ。たしかにお嬢さまは馬鹿がつくくらいお人好しですが、そんなんじゃいつかずるい大人から騙されてしまうんじゃないかと心配で!」
さっきの父親に名前を知られていたのは、無意識のうちに名乗ったからではなく、そういう理由だったのか。リリーが心の中で一人納得していると、「聞いているのですか」とユナにたしなめられる。
「私のことを知ってくださる人が多いのね。まだ魔法も一人前に扱えないですし、学院に通う身ですが、うれしいわ」
「やっぱりお嬢さまはちょっとズレているんです……心配だわ……」
ユナはがっくりと肩を落とした。
顔を赤くしたり青くしたりするユナがおかしくて笑っていたリリーだったが、ふと見慣れない景色が気になってあたりを見まわす。
城下の大通りを散策していたつもりだったが、いつの間にか知らない路地に出ていたようだった。
休日だというのに城下のにぎわいが嘘のように人ひとり見当たらず、閑散としている。周囲に高い建物はないが、ちょうど陽の光が届かないのかどこもかしこも薄暗い。大通りの地面は赤茶色のレンガが敷き詰められているのだが、このあたりは簡素な石畳が続いていて、殺風景な景色が広がっていた。
「あら……ここはどこかしら」
「どうやら人混みに流されて、いつもなら来ないところに出てしまったみたいです。早く大通りに戻りましょうか」
「ええ」
ユナも見慣れない場所だったようで、きょろきょろと周囲を見回して、大通りへの近道を探している。
そのときだった。
恰幅のいい大男に引きずられて、小さな少年が歩いてきた。
大男は二人の近くまで来ると、控えめに目礼をしてすれ違っていく。リリーも軽く会釈すると、少年の手首につけられた手錠が目に入った。
やせ細った身体、ぼろきれのような衣服、ぼさぼさの濃紺の髪、擦り傷と痣まみれの手足。
かちり。少年と目が合った。
ぼろぼろの身体とは真逆で、少年の瞳は金色に輝いていた。
リリーと目が合うと、金色の瞳はかすかに揺れた。
――怯えているの?
そう問いたかったが、大男の有無を言わせぬ笑みに気圧されて口をつぐむ。
大男と少年は、路地の奥へ行ってしまった。
「あ、待って……」
少年がいなくなったほうへそうつぶやくと、ユナが心配そうに覗き込む。
「どうかされましたか、お嬢さま」
お人好しのリリーとしては、あの少年が気にならないわけがない。でも、これ以上路地の向こう側に行くのは危険だということもじゅうぶん理解していた。
――でも、放っておけないわ。
「追うわよ!」
リリーはドレスの裾をたくし上げて、ヒールを履いていることを気にせず走り出す。
「ちょ、お嬢さま、どこ行くんですか!」