ティーゲルはいつも明朗快活で笑顔を絶やさない、社交的で優しい人物だ。
だからこそ人見知りがちなファリエも、「年上・異性・大きい・偉い」という苦手要素がてんこ盛りな人物だというのに、あまり気負わず話しかけることが出来ているのだ。
そんな彼が真顔で淡々とギデオンに最後通告を行う様子は、申し訳ないがシリルの理詰め以上に恐怖を覚える。
現にギデオンも、彼の静かな圧によってカタカタと震えだしていた。
そして気の小さいファリエも、つられるように肌を粟立てている。
(ティーゲルさん、真顔だと怖い……わたしがギデオンさんなら、絶対に泣いちゃってる……)
怒られている当人でないのに、すでに涙目なのがその証左だ。
だが重ねた年の数だけ、ギデオンの方が根性が据わっていた。
震えつつも息を吸い、精一杯胸をそらす。虚勢を張りながら、ティーゲルを鼻で笑った。
「はっ……ダラダラと言い訳を重ねていますが、どうせこの娘に
(ティーゲルさんはあなたと違って好き嫌いで部下を選ばないし、そういう関係じゃないですから!)
誰よりも早く、ファリエの顔に怒りが混じる。
しかし彼女が何か反論するよりも先に、ティーゲルが動いた。真顔を解いて、朗らかな笑みに戻る。
「ふむ。つまり君はこう言いたいんだな。『私には、見てくれだけ優れた少女に劣る能力しかないのだ』と」
「なっ、私はそんな……!」
目をむいた彼を、ティーゲルは軽く手を掲げて制す。
「ああ、もちろん安心してくれ。俺が惚れこんだのはファリエ嬢の仕事ぶりと、私情を挟まずに手を差し伸べてくれた気のいいところだから」
この言葉で、とうとうギデオンの心もぽっきり折れた。
拳を握りしめ、歯ぎしり混じりに低くうなるも、これ以上は抗弁せず。
乱暴な足取りで自席に戻って鞄を取り、そのまま荒々しく扉も開け放って出て行った。幸い今度は、ファリエも体当たりを食らわずに済む。
ただ彼女は彼女で、ティーゲルの「惚れこんだ」という言葉に照れを覚えてしまい、それどころではなかったのだが。そのような意図がないことは分かっていても、つい赤く染まった頬を両手で覆う。
一方のティーゲルは、ギデオンが全開にして行った扉を見つめてうんざりと目を細めた。肩も落ちている。
「別に今すぐ補佐官をすげ替える、というわけでもないのだが」
シリルも冷ややかな表情を浮かべて、小さく嘆息。盾の役目を終えた紙ファイルは、近くのゴミ箱に放り込まれて勇退となった。
「普通は引継ぎを行った後に交代するのですがね……とはいえ、相手はギデオンさんですので、この程度は致し方ないでしょう。むしろ業務放棄を理由に、よりスムーズに交代を行えますかと」
「ふむ、それもそうか」
シリルの冷めているものの案外前向きな感想に、ティーゲルの眉間に寄っていたしわも和らぐ。
そして彼は、ファリエに向き直った。
「色々と見苦しいところを見せてしまい、すまなかった」
硬い声音で謝られ、ファリエは大慌てでフルフルと、首と両手を振る。
「い、いえ! なんとなく……なんとなく、ですけど……ギデオンさんと隊長が不仲なのは、わたしたちも察していたので」
だから気にしないで、という意図も込めてふにゃりと笑ったのだが、微笑まれたティーゲルは実に冴えない表情だった。
「そうだったのか……まあ、気付いて当然か。彼には露骨に無視されていたからな」
「えーっと……そう、なのかも、ですね……」
この場合、どう答えるのが適当なのか分からない。ファリエは視線をさまよわせて、あいまいな返事をするにとどめた。
「ただそれで、君たちにも不安を与えていたのかと思うと、本当に申し訳ない」
深々と頭も下げられ、ファリエはさらに泡を食った。
だってギデオン騒動に関しては、彼に落ち度があるとは思えないのだ。ファリエとて、個人の
「で、でも、ちゃんと喧嘩別れできたわけですから! 今日からまた、心機一転頑張れば……あ、けど、喧嘩別れだと……ちゃんとしてない、でしょうか……?」
彼を励まそうとして、自分の論筋が見えなくなったファリエは、彼方を見つめて首をひねる。
どうやら己の言葉で思考が迷子になったらしい姿に、ティーゲルはぷっと吹き出す。
含み笑いのまま、彼は先ほどよりも明るい口調で言った。
「喧嘩別れがちゃんとした別れ方かは分からないが、心機一転するのはその通りだな。もちろん俺と君で」
「あ」
そして自分がギデオンの後釜に据えられようとしていたことも、すっかり頭から抜け落ちていた。思わず頬がひきつる。
たしかにファリエは、元々勉強熱心だったのでデスクワークも得意な方だ。
しかし補佐官をはじめとした、裏方の業務については一切知識がない。
昨日の調査報告書作成だって、ギデオンの言う通りまぐれで上手くいった可能性が高いのだ。
いや、ひょっとすると第三部隊を賞与減額ルートへと導く、忌み子に等しい報告書を生み出したのかもしれない。
(やっぱり無理よ、わたしには無理……)
数秒間の内に迷子だった思考を懸命に走らせて、この結論へとたどり着いた。
やはり二年目の自分が務めていい役職ではない。事務員の中でもベテランで、そしてちゃんとティーゲルに敬意を持ってくれる人格者を選ぶべきなのだ。
――と、彼に進言したかったのに。
「ギデオンにも伝えたが、ファリエ嬢の仕事ぶりと実直さを見込んで、是非俺の補佐官になってほしい」
「でも、わたし……魔術師で……」
「うむ。そこに関しては君の負担が増えないよう、業務配分もきちんと考えていこう。俺の安眠のために、ファリエ嬢が体を壊してしまっては元も子もないからな!」
キラキラと光る琥珀色の目で見つめられ、身を乗り出すようにして熱弁されると、駄目だった。陽のオーラに吞み込まれる。
元々ファリエは、気が弱くて流されやすい、お人よしとも評される性格なのだ。ついでに言えば闇に隠れて生きる、陰の者筆頭の吸血鬼でもある。
そんな彼女が以前から好印象を持っている上司に、ここまで熱意たっぷりに口説かれて落ちないわけがない。
事実、かくりと肩も落ちた。
「あの、えっと……じゃあ、頑張ります」
「そうか! ありがとう!」
か細い声での承諾ではあったが、ティーゲルは本日一番の大きな声ではしゃいだ。
思った通り、易々と熱血上司に落とされた新補佐官 (仮)の姿に、シリルは密かにニヤリと笑う。
だが、不敵な表情を浮かべていた彼の視線が、不意に二人の足元へと縫い付けられた。
シリルが凝視するのは、見事なぶっ壊れ方を晒している手錠である。
たちまちスン……と、彼の顔から一切の表情が抜け落ちる。
「隊長、ちょっとよろしいでしょうか」
次いで地獄から響き渡るかのような、低い声で有頂天のティーゲルを呼び止めた。
ビクン、と彼の全身が飛び跳ねる。
「な、何かあったのか、シリル殿?」
声だけで危機的状況の接近を察した彼が、身構えつつシリルへ体を向けた。
「ええ、少しお伺いしたい事がございまして」
シリルは右手だけを無音で動かし、床に転がる手錠を指し示した。衣擦れの音も一切しないので、まるで幽霊のようである。
「そちらの見慣れぬ知恵の輪につきまして、少々お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
たちまちティーゲルが、呼吸を止めて石と化す。かすかに動く唇は「まずい」と繰り返し紡いでいるように見えた。
逃げるタイミングを、うっかり見失ってしまったばかりに。
怒ったティーゲル以上に、怒ったシリルの方がやはり恐ろしいのだと、ファリエは目の前で繰り広げられる修羅場から学ぶ羽目となった。
また同時に、何があっても備品は大事に扱おうとも固く心に誓ったという。