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6:思いがけない副作用

 吸血鬼のファリエ・シュタイア嬢――凡夫な自分とは異なり鳴り物入りで入団した、生粋のエリート魔術師だ。


 吸血鬼は種族全体が美形揃いだと聞いたことはあったのだが、どうやら本当らしい。銀糸のような髪に瑠璃るり色の瞳を持つ彼女も、ご多分に漏れず非常に愛らしい女の子だった。

 肌も真っ白なので、じっとしていると陶器人形にも見える。

 そのため、若手の男性団員からの人気も高いと聞く。


 ただ本人は吸血鬼と聞いて一般的にイメージされる、少々高慢で享楽きょうらく的な性質とは真逆の、内向的な大人しい性分なのは意外だった。

 入団当初は、漁師や職人といったガラのよろしくない強面男性に詰め寄られたり、不良少年・少女にからかわれた際に、涙目で震えていることもしばしばあった。もちろん今も、時折震えている。


 想定外の弱腰吸血鬼だったため現在は、高嶺の花というよりも自警団のマスコットと化している。あるいは孫娘、であろうか。

 ティーゲルも年若く頼りない彼女を、その辺の児童と同列に見ている節があった。庇護ひご欲はたしかにくすぐられているのだろう。


 そんな児童から、なんと書類仕事の手伝いを申し入れられたのだ。

 幼いのだから無理をせず、宿題だけ頑張っていれば十分なのに――などと考えてから、眼前の泣き虫少女は自分より熱心に宿題をこなし続け、遂には魔術師の免許も取得したインテリジェント様だったと思い出す。


 それにデスクワークへの忌避きひ感もないようで、むしろ嬉々としているではないか。

 ニコニコと「甘えてください」と言ってのける彼女の寛大さに、言葉通り甘えることにした。


 自ら事務作業が得意と宣言した通り、ファリエは追加報告に必要な要点だけを拾い上げ、サクサクと二ヶ月分の報告書をさばいていく。作業スピードも速い。

 にもかかわらず、集中力が途切れた時に盗み見た顔は、穏やかな平常運転そのものであった。いつも眉間にしわを刻み、瀕死の形相になっているであろう自分とは大違いだ。


(補佐官には嫌われてしまったが、部下にはそれなりに慕われていて、本当によかった)

 この窮地を救ってくれた慈悲深き児童、もとい天才魔術師様をこっそり拝みつつ、己の運の良さにも感謝する。

 自分の請け負った報告書も、残りわずかだ。どうやら九時台には帰れそうだ、と気持ちも少しばかり上を向く。


「あの、隊長……少しだけ大丈夫でしょうか?」

 その時おずおずと立ち上がったファリエが、遠慮がちに声をかけてきた。

 視界の隅に彼女を捉えると、報告書を抱えている。何か不備でもあったのだろうか。

「……うん? どうした?」

 キリのいい所まで書き終え、彼女に続きを促す。


 どうやら自分の作った傷害事件に関する報告書内に、記載ミスがあったらしい。書かれている事件発生現場が、バラバラだったのだ。

 己の不注意さについ下唇を噛みつつ、伸ばしっぱなしになっている髪をいじる。


 癖が強くあちこち跳ねているので、

「後ろから見ると、紅葉したもみの木のようですね」

と評したのは誰だったか。だいぶ失礼な物言いなので、おそらくシリルだろう。


(ただ、言い得て妙な気もしてしまう……いい加減そろそろ、美容室に行くべきだろうか。面倒くさくて後回しにしていると、どうにも足が遠のくんだよな)

 と、つい思考もあちこちに寄り道してしまうも、どうにか事件の発生場所を思い出せた。ホッとしてファリエの方を振り向きかけ、そこで彼女の抱擁ほうように阻まれた。

 ほのかな甘い香りと柔らかなぬくもりに包まれ、たちまち頭が真っ白になる。


 今まで二人で向かい合いながらも、ほぼ会話のない状態で書類作りを行っていた。

 つまり愛だの恋だのハグだのキスだのといった空気は、皆無である。お互いジャケットを脱ぎ、一日着込んでくたびれたシャツ姿のため、漂うのは疲労感と哀愁ばかり。


 またこれまで一年ほど、彼女を先輩や上司として見守って来たが、色恋めいた感情を向けられたことは皆無だ。

 それなりに会話はするけれど、仕事に関する話題が九割である。


 全く予期せぬスキンシップによりティーゲルが固まっている内に、ファリエが再度動く。

 彼の首筋に顔を寄せ、そのまま口づけを落としたのだ。ここで悲鳴を上げなかった自分を、後々ティーゲルは褒めてやりたいと思ったほどだ。


(ひょっとしてドッキリの類……いや、まさか、ハニートラップか? あるいは美人局つつもたせ?)

 思わずよぎった嫌な予感は、彼女のぽってりと柔らかな唇が触れた部分に走る、鋭い痛みで打ち砕かれた。


「っあ……」

 二本の針で刺されるような不意打ちの痛みに、たまらずうめき声も漏れる。それを聞いて、かすかにファリエが微笑んだような気がした。

 しかし痛みは一瞬だった。次に覚えたのは、彼女のむしゃぶりつく場所から力が抜けていくような強い虚脱感だ。座っていなかったら、倒れていたかもしれない。


 だが、不快ではなかった。脱力は感じるものの、どこか心地のよさも覚える。

 例えるならば一日中運動した後の、爽快な疲労感にとても近いのだ。

 また、最後におまけとばかりに首筋を舐められた瞬間は、悲しいかな純粋にドキドキしてしまったし、ちょっと嬉しかった。


 とはいえ突然抱き着かれ、そしておそらく血を吸われた理由が分からない。

 昨今の吸血鬼は生き血を飲まないと以前聞いた記憶があるけれど、むしゃくしゃしていたのだろうか。


 無意識に噛まれた箇所を抑えながら、改めて彼女を見上げる。

「ファリエ嬢、今のは……?」

 残業がやっぱり嫌だったのか、と恐る恐る顔色を窺うと、ファリエは真っ青になって震えていた。悲鳴まで上げているので、ますます意味が分からない。


 ただ、血を吸ったからなのだろうか。

 普段は深い青色をしている潤みがちの瞳が、今は鮮やかな赤色に変わっていた。

 不可思議な現象を目の当たりにして思わず、その綺麗な双眸そうぼうをしげしげ眺める。

 だが、それも数秒足らずで打ち切られる。


 どうやらお腹が空いていたらしい彼女は、赤い目の縁に涙をたたえつつ、前のめり気味に執務室を飛び出していったのだ。

 そこからさほど間を置かず、オフィスの出入口を慌ただしく開閉する音も聞こえた。あの勢いのまま帰ったらしい。彼女は割と鈍くさいので、途中で転ばないといいのだが。


「怒っていたわけではない、という事でいいのだろうか?」

 思わず独り言ちて、彼女に託された報告書の発生場所欄を赤ペンで修正した。事情はよく分からないものの、別に恨まれていたわけでないのなら、とりあえずは追加報告書の完成が先であろう。


 次いで自席を立ち、ファリエが先ほどまで使っていた机へ向かう。

「なるほど。本当に事務仕事も得意なのか」

 ティーゲルが一ヶ月分の報告書をまとめている間に、彼女は二ヶ月分をほぼほぼ完璧に終わらせていた。ありがたい限りだ。


 明日の期限までに追加報告を提出出来る、と安心したからだろうか。

 たちまち猛烈な眠気に襲われて、思わずティーゲルは大きなあくびをこぼした。だが、すぐに気付く。

 こんな強い眠気に襲われたのは、隊長職に就いて以来初めてである。


「血を吸われたから、だろうか」

 早くも閉じ始めた目をこすり、そう仮説を立てた。

 おそらく間違いないだろう。吸血された時に覚えた、あの心地いい脱力感が眠気ももたらしてくれたに違いない。


 自分と彼女が作った書類を簡単に束ねて紙ファイルに挟み、ティーゲルは医務室へ向かった。そこには仮眠用のベッドも用意されている。

 家に帰った方がぐっすり眠れるに違いないだろうが、一秒でも早く、今は横になりたいのだ。


 そして素直に欲求に従ったことが、功を奏したらしい。そのまま朝の六時まで、熟睡することが出来た。

 途中で一度も目が覚めることもなく、また悪夢にうなされることもない、穏やかで完璧な眠りだ。嬉し過ぎて医務室で雄叫びをあげてしまい、夜勤の団員をつい驚かせてしまったほどに、素晴らしい目覚めだった。


「ティーゲルさん! あんた声がデカいんだから、ちょっとは自重してくださいよ!」

と他部隊の副隊長に叱られて素直に平謝りしつつ、ティーゲルは考えた。

 快眠目当てで、また血を吸われたい、と。

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