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4:退職願はお早めに

 いっそこのまま飛ぶ――無断欠勤後にフェードアウト退職という、クズの所業を決めようか。

 自宅まで全速力で走って帰ったファリエは、靴も脱がずに玄関でのたうち回りながら、そんな誘惑に襲われていた。健康優良児なティーゲルの血をたっぷり無許可で吸った甲斐あり、元気が有り余っているのだ。


「最低……わたし最低……あんないい人に、なんてこと……ああああぁぁ」

 抱えた頭を前後に激しく振りながら、涙声で懊悩おうのうした。本当は力の限り叫びたいものの、ご近所迷惑を考える理性だけは辛うじて残っていたため、寸前でこらえる。


 玄関で思う存分あがいた末、ようやく靴を脱ぎ、室内に上がった。のたうち回ったところで何かが好転するわけでもない、と思い至ったのだ。

 そしてここで、自分がジャケットを執務室に忘れてきたうえ、着替えもせずに制服のまま帰宅したことに気付く。おまけに、白いシャツには小さな赤い染みが飛んでいた。

 十中八九、ティーゲルの血であろう。


 染みに気付くとまた、涙がこみあげて来る。たれ目がちの瞳から、今度は遠慮なしに涙をこぼした。きっと口の周りにも、血がこびり付いているはずだ。

 自分のおぞましい姿を想像し、鳥肌も立つ。


 だが鏡を見て確かめる勇気はなく、乱暴に服を脱いで放り投げ、そのまま浴室へ入った。

 そしてシャワーを浴びながら、今後について改めて考える。


 まず間違いなく、自警団はクビになるだろう。

 現代社会において、人間の血を吸うことなど同胞もドン引きの、時代錯誤な鬼畜行為である。

 また被害者であるティーゲルの慈悲によっては、回避の可能性もわずかに残っているが……一般常識に基づいて考えれば、逮捕待ったなしだ。


 逮捕。

 この結論に行きつき、温かいお湯を浴びているにもかかわらず寒気に襲われた。

 今まで悪人を取り締まっていた自分が、まさか取り締まられる側になるだなんて。


(第三部隊の皆さんには、取り調べされたくないなぁ……)

 これまでお世話になって来た分、自身の情けなさや申し訳なさで号泣してしまうだろう。可能であれば比較的関わり合いの薄い、第一か第五部隊の方に絞られたいところだ。


 もしくはいっそ、総務部のどなたかでもいい。ついでに賞与を減額しないよう、懇願出来るかもしれない。


 逮捕される前に実家まで逃げてしまおうか、とまた臆病な考えが首をもたげる。

 吸血鬼のコミュニティに逃げ込めば、ひょっとするとうやむやに終わるかもしれない、と。その場のノリで生きている節がある吸血鬼たちは、同胞の出戻りにも非常に寛容なのだ。


 が、慌てて首を振った。


 ファリエは人間が好きだ。

 より詳細に述べれば、人間の作った文化――特に料理が大好きなのだ。

 幼い頃、家族旅行で人間の街を訪れて以来、吸血鬼の食生活とは全く異なる多様さにすっかりとりことなった。


 そしてその好きがこうじて、人間社会に身を置きたいと考えるようになった。幸い吸血鬼の中でも魔術の才には恵まれている方だったので、その技術を磨いてこうして、人間の暮らす世界に飛び出すことが出来た。

 だからこそ、彼らに迷惑をかけまくった挙句、何の後始末もせずに逃げるなどという選択肢は取れない。


 シャワーを止め、脱衣所の棚からタオルを取り出す。

 濡れそぼった髪を拭いながら、気持ちを固めた。

「まずはティーゲルさんに、ちゃんと謝らないと……」

 そのまま逮捕コースが最も現実的であるが、無言で逃亡するより後悔は少ないだろう。きっと。


 長々とシャワーに打たれたおかげで、雪のように白い肌もほんのり赤らんでいる。

 また体と一緒に、心も少し温まったようだ。

 普段は何でも悲観的に考えがちではあるものの、今はポカポカと全身が温かいからだろうか。若干ながらも、前向きになれた。


 そのためファリエは次に、寝室に置いてある引き出しを漁った。お目当てはお気に入りのペンと、レターセットだ。

 万が一逮捕を免れた際のため、退職願を書くことにしたのだ。


(クビになっちゃうなら、要らない気もするけれど……ううん、ご迷惑をかけたんだから。せめて何か、お詫びの気持ちは形にしよう)

 ないよりはマシな、自身の誠意の証としたい。


 ただ、退職する気など今夜までさらさらなかったため、ピンクと黄色のチェック柄という、妙に愛らしいレターセットにしたためる羽目となった。

 後々この時の自分を思い返し、ファリエは「まだだいぶ混乱してたんだろうな」と感慨にふけるのであるが、それはまだ先のこと。


 キュートな退職願を書き上げた後も、神経がたかぶり続けたため、結局一睡も出来なかった。

 ぼんやりと居間のラグに横たわり、日の差さない北向きの窓を眺めていると、段々と空が白んで朝を迎えた。


 ファリエは己を奮い立たせるべく、一つ深呼吸。

 そして緩慢な動作で顔を洗って身支度をして、気持ちを落ち着けるべくお茶を一杯飲んで出勤する。鞄の中には、制服のシャツとスカートのみ突っ込んだ。退職願を出しつつ、ジャケットも回収できれば万々歳だ。


 出来るだけ人目につかない内に、ティーゲルに謝りたかったので、普段よりもかなり前倒しでの出勤だ。それでも日光は天敵なので、日傘は欠かせない。


 ニーマ市は中心部に市街地が広がり、その更に中央部分に自警団本部がある。

 石造りの、日中なら絶えず誰かが出入りしている堅牢な本部も、今はほぼ無人だ。入口に、夜勤担当の団員が見張りで立っていたぐらいである。

 彼らも早朝出勤のファリエを見つけて、一瞬不思議そうにしたものの、特段呼び止めることもせず笑顔で挨拶をしてくれた。それにぎこちなく、微笑み返す。


 更衣室でシャツとスカートに着替え、とぼとぼと自身のオフィスへ向かうにつれ、昨日以上のめまいと吐き気に襲われつつあった。緊張と恐怖のためだろう。


 だが、彼女が涙ぐんだりへたり込むよりも早く、第三部隊のオフィスから人が飛び出して来た。ティーゲルだ。昨日より一層ヨレた出で立ちになっているので、ひょっとすると泊まり込みだったのかもしれない。


 ファリエがギクリと身を強張らせて、顔色を青くするべきか赤くするべきか迷っている内に、ティーゲルはパッと表情を明るくした。

「おはよう、ファリエ嬢!」

「ひぁっ?」

 想定外の更に外からもたらされた笑顔に、ファリエが目を白黒させていると、快活な挨拶まで飛んで来る。


 そして軽やかな足取りで、廊下に棒立ちのファリエの眼前まで駆け寄る。手には、彼が着るにはずいぶんと小さい制服のジャケットが。

「昨日はジャケットを忘れていただろう? 皺にならないよう、一応ハンガーに吊るしておいたんだが」

「あ、ありが、とう、ございま……」


 手と声を小刻みに震わせながら、ファリエは怯えた目で彼を見上げた。

 分からない。ティーゲルの考えていることが、全く分からない。

 昨夜あんな目に遭ったのに、どうしていつも通り……いや、むしろ普段以上に元気なのだろう。


 ひょっとして昨夜の吸血事件は、空腹のあまり自分の見た幻覚だったのだろうか、とファリエは一瞬考えたのだが。

(シャツの襟に、血痕残ってるよね……首も、うん、傷跡が……)

 どう見ても事後である。自分がやったくせに、ファリエは涙ぐんだ。


 だとすると、彼女を油断させて逮捕する気なのかもしれない。

 せめてその前に退職願を渡そう、と肩にかけた鞄へ視線を向けた彼女の右手を、ティーゲルの両手が掴んだ。


(もう逮捕されちゃうのっ?)

 ギョッとなって顔を戻すと、顔のいい上司が、更にいい表情でファリエを凝視している。なんだか視線も熱っぽい。

 平素ならば思わずときめく状況だが、今は恐怖一色だ。


「あの、えっと……隊長……?」

「昨日の今日ですまないが、一つ、頼まれてくれないだろうか?」

「はい?」

 首をひねったファリエの「はい?」は「どういう意味ですか?」の意図があったのだが、彼は額面通り「いいよ!」の意味で受け取ったらしく。


 軽く息を吸って

「ありがとう! どうかもう一度、俺の血を吸ってくれ!」

熱烈に、こうのたもうた。


 勢いに押されてのけぞりつつ、ファリエはある仮定にたどり着く。

(どうしよう……吸血したら、ティーゲルさんが馬鹿になっちゃった……わたし、変な病原菌持ってるのかな……?)

 職場へ自首する前に、医療機関に行くべきだったのか、とまた震えた。

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