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3:うっかり吸血事案

 隊長・副隊長用に設けられた執務室の中に、しばらく紙をめくる音とペンの動く音だけが響いた。

 ファリエは今、執務室の手前に置かれた副隊長の机を借りて報告書作成を手伝っている。書類へ熱中する内、ほぼ無意識の内に制服のジャケットを脱いで、シャツの袖もめくりあげていた。


 二列の金ボタンが縫い付けられた黒地のジャケットは、頑丈な生地で作られているので実戦では重宝する。だがその反面、事務作業中は厚手の生地と大きなボタンが邪魔になるのだ。


 ちろりと視線を向かいへ持ち上げると、ティーゲルも同じくシャツ姿になっている。

 そして苦手意識が拭えないのか、彼は相変わらず苦悶くもんの表情で机にかじりついている。たしか七つほど年上のはずなのだが、なんだが勉強嫌いの子供を見守っているような、微笑ましい気分になる。ファリエはほんのりと目を細めた。


 たしかに一晩で、三ヶ月分の案件をまとめるのは無理難題というものだ。

 しかし総務部から発行された依頼書をよくよく読めば、彼らが必要としているのは「各部隊の案件解決率ならびに、解決に要した日数」という情報であった。


 故にファリエは、詳細な追加報告については切り捨てることを選んだ。

 ティーゲルにも案件の最新状況と、解決済みの場合は対応期間のみを抜き出すよう進言したのだ。数字だけでは分かりづらい部分のみ、備考という形で追記することにした。


 一ヶ月前から地道に報告書を作ったであろう、他部隊と比べれば随分と質素な報告書になるかもしれないが、出さないよりよほどマシだ。

 総務部にも慈悲があると信じ、どうか賞与が減額しないことを祈ろう――何卒、お願いいたします。


 悲壮感を全身にまとっていた彼も、彼女の提案で少しばかり息を吹き返した。

 とはいえやはり事務作業は不慣れらしく、ファリエが直近二ヶ月分をまとめ、彼は一ヶ月分をまとめるという配分にした。

 それがたしか、二時間ほど前のこと。


 ふと壁の時計を見れば、時刻は二十時半を少し過ぎたところであった。

 ずっと同じ体勢で書き物をしていたため、肩と背中が強張っている。ファリエはペンを置き、軽く伸びをした。


 次いで自分の作った報告書を見返す。

 二ヶ月分の案件は、ほぼほぼまとめ終わっている。元の報告書とぱらぱら見比べるが、書き間違いもないようだ。


「……あ」

 しかし途中で、手が止まった。元の報告書側に、奇妙な箇所を見つけてしまったのだ。

 とある傷害事件に関する報告書だが、発生場所が不明瞭ふめいりょうだった。

 当初は市街地北部の某飲食店裏とあるのに、次のページでは港近くの公園になっている。どちらか書き間違えたのだろう。

 作成者名を見ると、お向かいの席でうなりながらペンを走らせている、上司その人であった。


(隊長って書類作りも、読み返すのも苦手なのかな)

 多分そうだろうな、という確信めいたものも覚えた。あくまでも印象でしかないが、過去は振り返らなさそうなタイプに見える。


 今回の追加報告に直接関係する情報ではないが、気付いてしまった以上、確認するべきだろう。

 ティーゲルの苦悶の表情にためらってしまうものの、ファリエは息を吸ってそっと立ち上がった。その時に軽いめまいも覚える。


「あの、隊長……少しだけ大丈夫でしょうか?」

 頭を振ってめまいを追い払い、おずおずと彼に声をかけた。

「……うん? どうした?」

 短い沈黙の末、ティーゲルがペンを置いて顔を上げてくれた。ホッとして、ファリエも近づき、彼に報告書を差し出す。

「ここなんですが、傷害事件の起きた場所が違っちゃっていまして……一応修正しておいた方がいいかな、と思うのですが。どちらが正しいでしょうか?」


 書類を受け取り、ファリエの指し示す箇所を読んで、ティーゲルはただでさえボサボサになっている髪をかいた。一度、くくり直した方がいいのでは。

「あー……すまない。完全に俺の書き間違いだな」

 キリリと太い眉をたれさせて下唇を噛み、しょんぼりうなだれる。指摘したことに罪悪感を覚え、ファリエは慌てて首を振った。


「い、いえ、今までどなたも気付いていませんし、大丈夫ですよ!」

「俺が言えた立場ではないが、どいつの目も節穴ということだな……しかし、どこで起きたんだったか」

 報告書を膝に乗せ、腕を組んだティーゲルは険しい顔で記憶を掘り返す。

 その間、ファリエは落ち着かない気持ちで隣に立ち、彼の回答を待った。


 待っている間、つい彼の横顔を盗み見る。

 大きな猫目で眼力があるため、怖いとも評されがちだが、ファリエは目の保養になる容姿だと思っている。鼻も高く、唇は薄くて形もいい。

 有能な武官でもあるので、体格も引き締まっていて立派だ。ボタンを開けたシャツから覗く首も太い――と、視線をぼんやりそこへ移した時に、突然ファリエの飢餓感が蘇る。


 叫びだしたいぐらい、全身が血を求めていた。一気に心拍数が上がってじわり、と両手に汗がにじむ。

 生き血を渇望かつぼうする体は、今まで気にも留めていなかった彼の体温や、かすかに漂う汗と石鹸の香りにすら飢えを刺激されてしまった。


「ああ、そうだ。これは公園の方が正しいな。すまない、すぐに書きなお――ファリエ嬢ッ?」

 本能に突き動かされるまま、記憶を引っ張り出して嬉しそうに振り向いた彼へ、背後から抱き着く。そして無防備な首筋へ探るように唇を這わせた後、噛みついた。彼女の脳内にあるのは、血を吸いたいという原始的な欲求だけだ。


「っあ……」

 鋭く伸びた牙が皮膚を突き破る瞬間、ティーゲルが発したうめき声にすら、食欲がくすぐられる。そのまま味わうように、彼の血をゆっくりと吸い上げた。

 頑健がんけんな彼の血液は、とても美味しかった。熟したブドウのような甘さを感じ、うっとりとする。

「おいしい……」

 首筋から唇を離し、陶然とうぜんと呟いた。そして名残惜しさで最後にもう一度首筋を舐めると、びくりとティーゲルの体が跳ねる。


 が、空腹が満たされたことで、ファリエの本能が理性に押さえつけられた。幸せいっぱいのとろけ顔が、たちまち青ざめて強張る。全身もガクガク震えだした。


 彼女が飛びのいたことで、ティーゲルも噛まれた首筋を押さえつつ恐る恐る振り返った。

「ファリエ嬢、今のは……?」

「ヒィッ!」

 襲った側だというのに、情けない悲鳴を上げて飛び上がる。その反応に、ティーゲルも目を瞬いた。


 困惑しきった視線にすら怯え、目を白黒させながら、ファリエはじりじりと後退する。

「わっ、わたっ、わたし……あのっ、え、あっ、お腹、すいて、あの……ごめんなさい!」

 裏返りまくった声で、ほぼ意味不明な弁解をした後、つんのめりながら部屋を飛び出た。自席に置いていたカバンだけをひっつかみ、そのまま自警団本部から逃げ出す。


 後に残されたティーゲルはポカン、と大口を開けて固まっていた。

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