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【2】お前の復讐は俺の復讐

 揃いの黒装束で夕方の街を歩いていると、仇討ちに出かけたはずなのに、なんだかコスプレデートみたいだ。

 黒いのが二匹。

 しかもハデなデザイン。どうしようもなく死ぬほど目立つ。

 これがハロウィンの時期ならまだマシだったんだけどな。

 周囲の視線がけっこう痛い。

 俺は慣れてるけど、弓槻はだんだん恥ずかしさで顔が真っ赤になってきた。

「お前……その服、勢いで着てきたろ」

「……」うつむく弓槻。

「世間様からは、どういう風に見えるか、考えなかったろ」

「……」

「原宿やイベント会場でもないのに、そんなハデでゴスな格好してたら、目立つに決まってんじゃんか。俺だって人通りの多い場所じゃあ、コートの中身があんまり見えないように気を遣ってるっつーのに……」

「……」

 弓槻の拳がぷるぷると震えだした。ヤ、ヤバイ。また怒らせちまった。

「でも、似合ってるよ。その……悪くない」

「え? そ、そう?」

 立ち止まり、ひらりとベールを翻して、白い息を吐きながら俺の方をじっと見る弓槻。

 ――ドキリとした。

 冗談抜きで似合ってるから、そんな顔で見られたら……俺……

 胸がいっぱいで、コクコクと頷くしか出来なかった。

 俺は前言を撤回する。

 シスターでも、アリな場合もある。

 つまり今は、アリだ。

 ……いるんだな。シスター装束が似合う女って。

 きっと、こいつの造り物臭い整った顔のせいなんだろうな……。

「いこ」

 ようようそれだけを言うと、俺は弓槻の手を取って、とある場所へと歩いていった。

 俺等の向かう先は、街を見下ろす丘の上。

 今は使われていないドライブインの、広い駐車場だ。

 俺はそこで、ヤツを仕留める。

 グラブをはめた手を、ぎゅっぎゅ、と握り込む。

 握力は、ほぼ回復した。――今夜なら、いける。


 無言で歩いていくと、人影はまばらになり、家々の明かりも少なくなり、街は眼下に落ちていく。

 すれ違う車は街へと向かい、追い抜く車はなかった。

 ドライブインのある丘へ通じるルートに入ると、もう車すら通らなくなっていた。

 ドライブインそのものも営業してないし民家もないし、幹線道路からも大きく外れていて、丘のその先は山へと続いているから、なおさら用事のある人間なんかいない。こんなへんぴな場所に作ったりするから、ドライブインが潰れるんだよ。

「ねえねえ、そんな勝手ことしていいの?」

 俺が丘の上へと続く道をバリケード封鎖していると、弓槻が言った。

 封鎖には、日常的に道路工事や崖の工事をしてるのか、バリケードや工事の標識類が路肩にまとめて置いてあるのを勝手に拝借した。

「なるべく一般の人に迷惑かけたくないんでね」

 そう言うと、弓槻は、ふうん、とあまり腑に落ちてない顔で言った。

 丘から降りてくる方は、一応出口だけ開けてある。丘の裏側を封鎖するのは、現状では難しいけど、元から車がいないから無視する方向で。

 丘の上を目指して二人で、寒くて暗くて静かな道を歩いていると、何だか逃避行でもしている気分になる。靴が合っていないのか歩道の路面が粗いせいなのか、時折弓槻が蹴躓くので、俺は彼女の手をしっかり握って歩いた。

 心なしか弓槻が嬉しそうに見えるけど、本気で狩りに行くって自覚あるんだろうか?

 まさか、俺とのクリスマスデートに浮かれてる、とか?

 いやいや、それはないよ。


 頂上に辿り着くと、ドライブインは黒い塊と化していた。

 現在店の営業は行われていないけど、防犯とかケモノ除けのために街灯だけは点けられている。古いペンキ描きの看板が、物悲しげに見えた。

「ちょっと怖い……」

 一緒に建物を見上げていた弓槻がぽつりと言った。

「そうだね。肝試しで廃墟に行く連中って結構いるみたいだけどな。心霊関係のサイトとかで、そういうのよく見るよ」

「そんなバカ、ケモノに食われればいいのよ」

「う、うん」

 まさかそんな台詞が弓槻の口から出てくるとは。

 DQNはお嫌いらしい。

 駐車場には、走り屋が練習に使っているらしく黒いタイヤの跡があちこち付いている。でも夜になればそんな汚れは気にならない。

 デートに使うには余りにも味気ないけど、でもここがいい。

 本当は、今夜までに奴を仕留めたかったんだけどな。

 そしたら、シスターには悪いが、彼女とゆっくりどこかでディナーでも楽しんでいられたのに。

 俺は駐車場の奥、鉄柵があり街が一望出来る場所へと弓槻を招き入れた。

「……ここなの? カマキリがいるのって」

「それよりほら」

 そう言って、俺は街に中心地のイルミネーションが一段と輝いている辺りを指さした。

「わあ……」

 弓槻は、海紘ちゃんの家でイルミネーションを見た時のように、感嘆の声を上げた。

「綺麗だな……」

 あの光が、街の人たちをケモノから護っているんだ。

 そう続けようとして、俺は口をつぐんだ。

 つい余計なことを口走ってしまうのは、本当に悪いクセだ。

 今夜は風もなく、イブを過ごすにはいい日和だ。

 誰もおらず、静かだ。

 たまに鳥の声が聞こえる。

 空はもう群青色になって、一番星が輝いている。

 このまま天候が崩れなければ、満点の星空が楽しめるだろう。

 彼女と一つ毛布にくるまって、暖かい飲み物でも飲みながら夜景を眺める。

 ――なんてデートも楽しいだろうな。でも今夜はそういう趣向じゃないんだ。

 今日のミッションはあくまでも「プレゼント」を渡し、仲直りすること。……のはずだったけど、急遽予定変更になった。

 まあ、仲直りはもう出来てそうなんだけど。

「一曲、吹いてもいいか?」

 俺は懐から獣奏笛リリコーンを取り出した。

「綺麗な笛。今日はハーモニカじゃないのね。触ってもいい?」

「いいよ」

 俺は獣奏笛を彼女に手渡した。

「これ、ケモノの角で出来てるんだ。本部の開発部の人が、歌うことを禁じられた俺のために作ってくれたんだ」

「え? どうして禁じられてるの?」

「魔を、呼ぶから」

 弓槻は一瞬、息をのんだ。

「……そう。歌えないなんて、さみしいね」

「だからだよ。……いいか?」

 俺は手のひらを差し出した。

「うん」

 弓槻は少し寂しげな顔で、俺に獣奏笛を手渡した。

 俺はゆっくりと獣奏笛を口元に当て、冷え切った空気を胸いっぱい吸い込んだ。


 ――緊張。覚悟。そして、博打。


 一音一音確かめるように、俺はゲートの詩を奏で始めた。

 テトラマンティスを呼び寄せる、あの音を。


 俺は弓槻の目の前でヤツを仕留め、その首を弓槻への贈り物にしようと思った。

 カマキリが音を聞きつけても、必ず来るかどうか分からない。

 もうこの世界にはいないかもしれない。

 でも、賭けてみたんだ。どこかにいるはずのヤツに届けと祈りながら。


「不思議な曲ね」

 吹き終えると弓槻が言った。

「曲、と言えるようなもんじゃないけどな。こないだ裏庭で宝田さんと話してたこと、覚えてるか? ゲートの詩のこと」

「ん……、今のがそうなの?」

「ああ、そうだ。それと……」

 俺は、懐から昼間渡せなかった包みを取り出した。

 ずっと入れていたから、生暖かくなってしまっているのはご愛敬だ。

「弓槻……あの、これ」

 俺は恐る恐る差し出した。

「……私に?」

「他に誰がいるんだよ」

「あり……がと」

 弓槻は俺の手から、クリスマスプレゼントを受け取った。

 すごく嬉しそうな顔をしている。俺はすこしほっとした。

「こちらこそ、受け取ってくれてありがとう。……開けてみて」

「うん」

 弓槻は手袋をはめた手で、ぎこちなくリボンを解き、包みを開けた。

「えっと……海紘ちゃんに選ぶの手伝ってもらった。お前の趣味とかわかんないし」

 俺は頭をかきながら、そう言った。

「そう……」声が震えている。

「ん?」

 弓槻の様子がおかしい。一体何が……

「そうやってあんたも海紘も……人の中に土足で入り込んで……。何なのよこれは」

「え……」

 弓槻は、本気で泣いて、怒っていた。

 ひどく顔をゆがめ、歯を食いしばっていた。


 これは……お姉さんの葬儀のときの、俺をスコップで殴った時と同じ顔だ。


 少しづつ俺から遠ざかっていく。


 後に。後に。


 ――そうか。やっぱり。


 わずかだけど、イヤな予感はしていたんだ。


 海紘ちゃんセレクトの、天使の羽をモチーフにしたシルバーペンダントは、逆効果だったのだ。

 彼女のチョイスを店頭で見た俺は微妙に不安には思ったが、もともと弓槻当人も羽モチーフの髪留めを使っていたし、弓槻と付き合いの長い彼女が自信満々にオススメしてくれたので、購入を決定した次第だ。

 でも、弓槻は俺からそんなものを、もらいたくはなかったんだ。

「どうして? どうしてなの? なんで私をそんなに苦しめるの? お姉ちゃんを奪ってもまだ、私から何を奪いたいの? お姉ちゃんや私を裏切ったくせに!」

 ……本格的にこれは、やっちまったようだ……。

「ああ……俺が悪かった……昼間、ホントはお前に謝りたかった。でも……バカやってまたお前を怒らせちまった。

 海紘ちゃんから聞いて、己のやらかした事のひどさが分かったんだ。俺はお前を二度も裏切ったってことをな。……本当に済まなかった」

 俺は弓槻に深く頭を下げた。

「俺は、お前に許されなくてもいいが、償いはしたかった。でも、ヤツを倒す以外、その方法が分からなかった。海紘ちゃんのお父さんのように、お前を一生面倒見てもいいと本気で思ってたけど……それはお前が望んでいないんだろ?」

「……ひどいよ……」

「わかってる。だからこないだ言ったろ。スコップで殴りたければ殴れって。お前の気の済むようにしてくれていいんだぞ」

 弓槻は、肩を震わせながら俺を睨んだ。

「……なんで? あたし、あんたが償うって言ったから、一生懸命あんたを恨まないようにってがんばった」

「……え」

「でも、あんたはずっとあたしに、自分を恨め。憎め。怒りをぶつけろ。俺がお姉ちゃんを死なせた罪を忘れるなって言い続けてきた。どっちなのよ」

「…………」

「自分を棚に上げて、あんたを憎んだままでいられたら、ラクだった! あたしだって、あの日お姉ちゃんを止められなかったのに! あたしだって、悪かったのに!」

 弓槻の悲痛な叫びが、夜の駐車場にこだました。

「弓槻……俺、そんなつもりは……」

 俺は、とんでもない間違いを犯していたのか?

 でも、意味がよくわからない……。どういうことなんだ?

「どうしてあたしが部屋に籠もってたか知ってる? あんたを殺さないためよ! どうして銃の使い方を学び始めたか知ってる? この手でアイツを倒さなければ、あんたを一生憎み続けることになるからよ!」

「うそ……だろ……」

 悪かったとか済まなかったとか、もうそんな言葉でどうにか出来る状況は、とうに過ぎてしまったのかもしれない。

 なんで俺、弓槻をこんなに追い詰めちまったんだろう。

 大事な人だったはずなのに。

 俺、こいつを護ってやりたかったのに。

 ごめんよ、弓槻。

 護られていたのは、俺の方だったんだな。

「なのに! 何で何度も何度も、やめさせようとするのよ! それとも本当のことを言ったらあんたは止めなかった? 絶対止めたよね? あんたなら止めたに決まってる!」

「当たり前だろ! 止めなきゃお前が死ぬんだ! そんなの許せるかよ!」

「うるさい! うるさいうるさいうるさい! もういい! お前なんかああああああ!」

 弓槻の絶叫と同時に、俺は頬に鋭い痛みを感じた。

 ――彼女の撃った銃弾が頬をかすめたのだ。

 ぬるりとした生暖かいものが顎の先へと伝い、落ちていく。見なくても分かっている。それは俺の真っ青な血だ。

 激昂する弓槻とは真逆に、俺の心は冷静さを取り戻していった。

 気付くと心の中の警報がガンガン鳴っている。

 こいつが危ないと叫んでいる。

 いつヤツが来るか分からないのに、こんな所で発狂してる場合じゃないのに、

 何でお前ってやつは――。

「どこを狙っている。お前には手取り足取り、的の当て方を教えただろ?」

 俺は、射撃場で教えている時のように、厳しい口調で言った。

 弓槻はキッと俺を睨み、もう一発撃ってきた。

 弾は肩先に当たり、コートの下の軽装甲に弾かれて夕闇の中に消えていった。

 俺は、ゆっくりと弓槻に近づいた。

 弓槻は銃を真っ直ぐ構えて、また撃った。

 今度はどこにも当たらなかった。

「どうした。距離は近くなっているんだぞ。そんな腕でカマキリとやりあうつもりだったのか? 俺一人、満足に殺せないのに」

「ちきしょおおおおおお!」

 また一発。

 今度は腕に当たった。

 でも、また装甲に弾かれ俺を傷付けるには至らない。

「なんでよ……なんで倒れないの……なんで止まらないの……」

「当然だ。これは奴を仕留めるための鎧。お姉さんの無念を晴らすための鎧なんだ。甘ったれのお前なんかに、この俺が倒せるわけないだろ! ましてカマキリなんか!」

 俺は地面を蹴って一瞬で距離を詰め、悔しさで死にそうな顔の弓槻から、銃を奪った。

「あとで好きなだけ、弾倉が空になるまで丸腰の俺を撃たせてやる。だから――」

 俺は弓槻を抱き上げ、後に高く跳躍した。

 その瞬間、弓槻の立っていた場所に、大きな鎌が深く突き刺さった。

 着地した俺達の前に、ずっと探していたあいつが立っていた。

 五本腕の大カマキリ『テトラマンティス』が。

 ――俺達の仇が。

(ホントに来てくれたのか、カマキリ!)

 ヤツの失った腕は、第二関節から先が多少復元していたが、鎌はまだ失ったままだ。

「で、でたぁ……あああ……」

 獲物を目の当たりにし、弓槻はパニックを起こしてしまった。

 怖くて俺にしがみつき、足をじたばたさせている。

 ったく、何しに来たんだよ。お前は。

「だから、あいつを倒すまで、待っててくれないか」

 そう言って俺は、弓槻の唇を奪った。

「んんーっ、ん……」

 意表を突かれた弓槻は一瞬フリーズし、くたりと大人しくなった。

 彼女の唇をゆっくり味わうヒマもなく、俺はすぐに彼女を降ろした。

 そして弓槻からむしり取っった銃を連射して、カマキリに威嚇射撃を行った。

 わずかにひるみ、後ずさるカマキリ。

 だが、大した傷もついてはいないだろう。

 俺は、空になった銃を弓槻に投げて返した。

「さっきの笛は、こいつを呼ぶためのもんだったんだ。こいつの首を、お前へのクリスマスプレゼントにしようと思ってな!」

「バ、バババ、バカっ、何で先に言わないのよ!」

「いや、驚かそうと思って。それに仇討ちする気で出て来たんじゃないか?」

「な! も、もう!」

「自分で仇を討つんだろ。だったら、こいつを半殺しにするまでそこで待ってろ」

「え……で、でもぉ……」

 怯える弓槻。

「ったく、本番に弱い奴だなぁ。さっきの威勢はどこにいったんだ?」

 俺は再び弓槻を抱いて、バックステップでさらにカマキリから距離を置いた。

「じゃ、危ないから駐車場の外に逃げてろ。とどめ刺すとき呼んでやるから。な?」

 俺はカマキリを睨んだまま、弓槻を地面に下ろした。

「う、うう……置いて行かないで」

 往生際悪く、俺のコートを掴んでいる。

「早く! 死にたいのか!」

「は、はい!」

 弓槻は転びそうになりながら、駐車場の外にバタバタ駆け出して行った。

 一瞬、カマキリの視線が弓槻を追っていったが、俺はすかさずヤツに追跡用信号弾を撃ち込んだ。

 万一逃げられても大丈夫なようにな。

 ヤツは体にくっついた異物を取り除こうと、鎌を不器用にこすりつけている。

「……ったくもう。お前の相手は俺だぞ」

 俺は周囲の気配を軽く伺った。

 今はこいつ以外ほとんどいない。

 だってここは、本来駆除済みのエリアなのだから。

「さて、待たせたな。テトラマンティス、いや今はペンタマンティスか? 俺、お前のこと随分探したんだぞ。なあ、どこで寝てたんだい?」

 発信器を外すのを諦めたのか、キシキシと鎌と鎌を擦り合わせ俺を睨むカマキリ野郎。

「ふん、余裕じゃないか。しかし、さっさと来てくれたおかげで俺は弓槻に蜂の巣にされずに済んだよ」

 俺は両の腰から高周波ブレードを抜いた。

 カチリとスイッチを入れると、かすかな振動が手のひらに伝わる。

 が、それも最初のうちだけだ。

 振動はトップスピードへと加速していく。

 俺は、ヒュンヒュン、と軽く音をたてて、双剣をくるりと振り回した。

「踊ろうぜ。今夜はクリスマスイブだ」

 キシャアアアア――――ッ、と声なんだか分からないような奇声を発し、カマキリは鎌を大きく振り上げた。威嚇のつもりなのか。

「……じゃ、行くぞ」

 俺は息を止め、アスファルトを蹴った。

 ヤツとの距離を瞬時に詰める。


(まず、二本!)

 ヴンッ――――

 渾身の二刀流斬撃を頭上から打ち下ろした。


 ――だが。


 次の瞬間、さしたる手応えもなくスッパリ切り落とされ――――るはずだった奴のいまいましい大鎌はX字にクロスし、がっしと高周波ブレードを難なく受け止めた。

 自慢の双剣が空しく唸りを上げる。

「はあああ?! ウソ、だろッ」

 驚く間もなく、残りの鎌が予備動作モーションを開始した。

 ヤバイ、このまま輪切りにされる!

 奴の腹を蹴って間合いを取ろうとした瞬間、別の鎌が頭上から振り下ろされ、切っ先は俺の胸の装甲をガリッと軽くえぐった。


 俺はのけぞって、そのままバク宙。


 着地。


 そして姿勢を低くして双剣を構えなおした。

「マジかよ……」

 まったく油断もスキもない。

 俺は背中にイヤな汗をかいた。確かにこいつは大物だ。

 俺のハイテクブレードを食らっても、奴の鎌はほんの少し刃こぼれした程度でまだまだ健在だった。

 この得物じゃアイツの鎌と互角程度なのか?

(それとも、他の部位なら……)

 カマキリが急に、クカカカカカ……と奇怪な声で鳴き出した。

 この世のどんな生物とも違う、ひどく不気味な鳴き声だ。

 ――コイツ、俺をあざ笑っているのか?

 不快感で判断能力が一瞬鈍ったその時、奴は俺に飛びかかってきた。


 右。


 左。


 上段上段。


 下段下段。



 鎌が連続で、横薙ぎに飛んで来る。

 力強い鎌さばきに、空気も裂かれる。

 かまいたちを映像化したら、もしかしてこんな風なのだろうか。

 テトラマンティスが、文字通り容赦なくガンガン打ち込んでくる鎌を、俺は二本の剣で受け流すのがやっとだった。

 ときどき受け流しそこねた鎌に、コートが引き裂かれ、スーツに傷が刻まれる。その程度で済んでいるんだから大した防具だ。

 まったく開発部様々だぜ。

 生き残れたら、彼女たちにケーキでも送るしかねえな。

「クソ、なんて力だよ! メチャクチャだ!」

 スーツのパワーアシストがなかったら、今ごろ剣はとっくに明後日の方向に弾き飛ばされて、俺はナマス切りになっている。防戦一方じゃ、こっちが不利だ。

 最初に対戦した時は、まともに鎌を受けたことがなかったから、こんなバカぢからだとは思わなかった。ただ切れ味がいいだけの鎌だと思っていた。

 少し考えれば分かることだった。これだけの体格差から繰り出される攻撃が、軽いわけがないんだ。しかも相手は昆虫タイプ。同サイズのほ乳類より格段に強い。

 しかし、五回、十回と奴の斬撃を受けたり流したりしているうちに、なんとなく規則性があることに気付いた。連続で薙いで来る時に一定のリズムと角度がある。だが、そんなことが分かったところで、そのスキをつく暇が俺にはない。

『ガスッ』

 ブーツの踵が、駐車場の車止めに引っかかった。

「うっ……マズイ」

 いつのまにか俺は、駐車場の端まで追い詰められていたんだ。

 背後には、高い鋼板で囲われたドライブインがある。

 いま客がいなくてホントによかった。

『ブン……ッ』

 奴の鎌が大きく空を切る。

 俺とのチャンバラにイラつき始めたのか、それとも疲れてきたのか、カマキリの攻撃がだんだん大振りになってきた。

 もう後がない。

 数十㌢先はもう金属の壁だ。

 汗が首筋を伝う。

 俺は、高く掲げた大鎌が振り下ろされる瞬間、横にブッ飛んでゴロゴロと無様に受け身を取った。

 その脇でバッサリと切り裂かれた仮囲いの鋼板が、大きく斜めの空間を作った。

 斬られて内側に落ちた上側の鋼板が、ガランガランと大きく音を立てる。

「喰らえ!」

 俺は、ヤツが大振りをしたその一瞬のスキに、ぷっくりとした横腹目がけて徹甲弾をブチ込んだ。

 こいつを込めた教団自慢の多目的ハンドガンは、鍛え方の足りない奴には扱えないデカブツだ。

 ドン、ドン、とヒットした感触を得る。だが――

「へぁああ? 何でだよ! クソッタレッ!」


『クケケケケケケ……』


 例の薄気味悪い鳴き声。余裕カマしてやがる。

 おかしい。確かに当たりはしたが、あまり効いてない。

 場所が悪いのだろうか?

 おまけに、奴は頭に血が昇ってるせいか、怯む気配もない。

 俺は舌打ちしながら、その場から壁に沿ってダッシュした。


『バンバンバンバンバンッ』


 背後で鋼板を叩くようなデカい音がする。

 それと同時に、空を切る音、ドシドシという重い足音が高速で迫っている。

(マジかよ!)

 現在ウルトラものすごく想像したくない状況なのは間違いない。

 だが、何が起こっているのか俺には明確に分かる。

 俺を血眼になって追いかけてきたカマキリが、半狂乱で鎌を振り回し仮囲いを猛烈な勢いでザクザク斬りまくっているんだ。

 うっかり立ち止まれば俺の首が胴から離れちまう。

 あたりが一段と明るくなってきた。

 道路脇の街灯の下に近づいていたんだ。

「せぁッ!」

 俺は素早く銃をホルダに戻し、電磁ウィップを電柱の上に向かってしならせた。

 ぴしり、という手応えを感じると同時に強くスナップさせると、俺の体はフワリと宙に浮いた。

 このままてっぺんに登って隣の街灯に飛び移ろう。

 俺が上昇途中でウイップを解き、手元に引き寄せようとしたその時、金属製の電柱がグラリと傾いた。

(なッ!?)

 俺は落ちかかる街灯を蹴り、出来るだけ遠くに飛び降りた。

 着地とほぼ同時に、轟音と共に崩れる街灯。ガラス製のカバーや水銀灯が砕け散っり、アスファルトに散乱する。

 竹のようにスッパリと断ち斬られた金属製の電柱は、ガランゴロンと大きな音を立てて道路の上を転がった。


『パパパァァッ!』


 急に前方から強い光を浴びて、一瞬目が眩んだ。

 と、同時にけたたましく鳴らされるクラクションで我に帰る。

 咄嗟に横に飛び退くと同時に、車は俺の横を走り抜けて行った。

「車!? 何で!?」

 トラックの荷台後部には、見覚えのある産廃業者の名前が。

 ――道路は封鎖してきたのに、勝手に入ってきたのか! あのクソッタレめ!


『キシャアアアアアアアア――――――ッ!』


 どこを見ているのか、と喝を入れるかのような奴の雄叫びが側で聞こえた。

 俺は本能で声とは逆の方へとび退いた。そして奴を見た。

 奴は全ての鎌を大きく振り上げて、いまだ何かの排気音のような雄叫びを上げている。これを、怒り、と表現してよいのかどうか俺には分からない。

「腹がガラ空きだぜ! クソ野郎!」

 俺はまた徹甲弾を三発撃ち込んだ。今度は奴の喉元に――――

「どうだ!?」

 異界獣用特殊徹甲弾が淡い光を放ちながら、奴のやわらかそうな喉に吸い込まれていく。

 ……と、その瞬間、銃創からどす黒い体液がゴボゴボと噴き出してきた。

 そして、奴の耳障りな奇声は、うがいをしているような、えらく濁った音へと変わった。

 少なくとも、これで俺への戦意は明らかに喪失している。

「効いた……のか?」

 奴の足元がフラリ、と揺らぐと、他者を傷付けるしか能のない己の鎌の付け根で、止めどなく体液の溢れ出す喉元を、賢明に押さえようとしている。

 人間で言うと、手首や手の甲だろうか。

 だが、そんな行為に意味などなかった。

 コールタールのような体液は、いまだ漏れ続けている。

 俺はこの機を逃さなかった。

 腰の得物をすらりと抜き放ち、奴の懐に飛び込んだ。

 苦しみ悶える奴の目に、俺は映ってはいない。

 得物のグリップに仕込まれたスイッチを押し込み、出力を最大に上げる。

 暴れる刃を力で押さえ込みながら、俺は足下から頭上へと振り上げた。

「往生しな」

 得物から伝わる振動が、俺の手首を痛めつける。

 だがそんな事はどうでもいい。


 刃を狙った通りの軌跡に誘い込む。


 五つの関節を一瞬で両断――


 俺を苦しめ、薙沙さんを殺したあの大鎌が、バラバラとヤツの腕から落ちていく。

 カマキリ野郎は己の身に何が起こったのか、すぐには理解出来なかった。

 急に軽くなった体がバランスを取れずに、仰向けに倒れそうになっていた。

 手応えはあった。

 俺はニヤリと笑った。

 ――どうだ、俺の勝ちだ。

 ……ん?

 一枚だけ、鎌が切り落とされずに残り、皮一枚で腕からぶらりと下がっている。

 全てを完全に切り離すには至らなかったが、最早使い物にはならないだろう。

「自慢の鎌を失い、貴様はどう抵抗する気だ? 懺悔なら、聞かねえぞ」

 俺は地面に転がった鎌を蹴り飛ばした。回転しながら、カランカランと冷たいアスファルトの上を滑っていく。

 結局こいつが硬いのは、実質この鎌と背中や側面の甲殻部分くらいだったんだ。

 のど元や横腹、関節部分はしっかり破壊出来るのだから。

 一番最初に奴と戦った時、俺は銃で奴の関節をピンポイント射撃した。

 だって武器が飛び道具しかなかったのだから。

 林の中は足場が多く、俺はうまいこと奴の背後に接近することが出来た。

 そして奴の首根っ子に取り付き、大振りのナイフで奴のもげかかった腕を半ば引きちぎるように切り離した。

 ――その代償として俺は、左腕をバッサリやられたわけなんだが。

「さあ! 弓槻、こっちに来い! お前の本懐を遂げさせてやる!」

 そう言って俺は、無様に地面を這いつくばっているテトラマンティスのケツを踏みつけて、本物のカマキリのように細長い、奴の首へと処刑人の如く刃を当てた。

「多島君!」

 近くに隠れていた弓槻が、ハイヒールを鳴らして駆け寄ってきた。ズタボロになったカマキリを見て、不快感を露わにしている。

「最初の共同作業が異界獣への入刀だなんて最悪だが、俺で構わないか?」

「え? あ、うん。もう、紛らわしい言い方しないでよ」

「約束したろ。一緒に仇を討つって」

「……うん」

「じゃあ、俺の横に立って、柄に手を添えて、一緒にこの――」

 そう言いかけたとき、裏の山の方から地響きや衝撃波とともに轟音が聞こえた。


『ドドォォ――――――ンッ!』


「きゃあああッ!」

「な、何だ?!」

 俺が音の方向を見ると、裏山の林が燃え、黒煙がもうもうと上がっていた。化学物質が燃焼したと思しき、ひどい悪臭が風に乗って漂ってきた。

 あんな場所で何かが爆発したようだ。

 ――まさか、あれは教団の私有地、不法投棄されまくってた場所じゃないか!

 次の瞬間、俺は猛烈な悪寒と息苦しさと目眩に襲われた。

 生まれてこのかた味わったことのない、激しい邪気の発生を感じた俺は、思わずその場に嘔吐した。

「多島君っ、大丈夫?」

「むり……ぽい。ダメかも」

 意識が保てない……

「ちょっと! しっかりして!」

 一拍遅れて、人には聞こえぬ強いノイズのようなものが耳をつんざき、毛穴という毛穴から何かが侵入してくるような酷い不快感が襲ってきた。

「ぅぎゃあああッ」

 俺は苦痛のあまり、頭を抱えてアスファルトの上でのたうち回った。

 傍らで弓槻が何度も俺の名を呼んでいるが、今にも内蔵を吐き出しそうで答えてやることが出来ない。

 数十秒後なのか数分後なのか、感覚的には随分と長い時間が経った気がする。

 あの強いノイズが通り過ぎると一旦は苦しみが収まった。

 そして、間髪入れずに街の方からも次々と爆発音が聞こえた。

「な……んなん……だ……」

 俺はふらつきながら、剣を杖に起き上がった。

 吐き気は収まったが、今度は割れるように頭が痛い。街の方から悪寒の塊の存在を感じた俺は、とにかく手すりの所まで行って街を見なければ、と思った。

「大丈夫? 立てる?」

「済まない……あっちに……」

 俺は、弓槻に肩を借りて駐車場の端の手すりまでやって来た。すると、そこに信じられない光景を目撃した。

「………………あ……ああ……ああああああああ、なんてこった……」

「なに……これ」

 それは、有り体に言えば『美しい』光景だった。

 街のあちこちから、七色に輝く光の柱が幾本も立っていたのだ。螺旋階段のようにねじれながら。恐らく、市内にある全てのゲートから吹き出した災厄だ。

 ところどころ柱の足元が赤く光っているのは、きっと爆発によって火災が発生しているのだろう……。

 これは、突風や水柱など問題にもならないほどの、大災厄だった。なぜなら――

「溢れて……来る。奴らが…………」

 文字通り、地獄の釜が開いてしまったのだ。

「溢れる? 奴ら? ――まさか、異界獣が街に? どうなっちゃうの?」

 弓槻の声は震えていた。

「ああ。このままじゃ……街中がケモノで埋め尽くされて、みんな、死ぬ」

「な、なんとかできないの? ねえ!」

「この街のケモノを俺と吉富組の連中で片付けるのに、どれくらいかかったと思ってるんだ。それにしたって、大量発生って数でもなかったんだぞ」

 おおかた始末した筈なんだ。この街の異界獣を。

 だが確かに俺の感覚は、全てのゲートから大量のケモノが吹き出している、と告げた。

 ――どうすればいいんだ。もう、手がつけられない…………

 絶望で目の前が真っ暗になった俺は、背後におぞましい気配を感じて振り返った。

「で、でかい……柱!?」

 そこには、ひときわ大きな光の柱がそそり立っていた。

 他の光の柱より、もっと毒々しい色合いの柱。

 極彩色の光がヘビのように、太い光の柱の回りに巻き付いていた。

 柱の場所は、一番最初の爆発が起こった、裏山のゲートだ。

 その時俺の中で、なにかがカチリ、とパーツのはまる感触があった。

 半年前に始まるゲートへの化学薬品大量投棄、さっきの産廃業者のトラック、裏山の投棄に使われたゲート……。

 きっとあのトラックが、ゲートで何か大変な事をやらかしたんだ。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け……)

 俺は大きく深呼吸をした。

 ここで俺が、うろたえたり大騒ぎをしたところで、このとんでもない事態を収拾しなくちゃなんないのは自分たち自身なんだ。

 きっと何か方法はある。でも一番最初にしなくちゃいけないのは、――落ち着くことだ。そう、シスターベロニカに教わった。

 あまりの異常事態にすっかりカマキリのことを忘れていた俺は、路肩にほったらかしにした死に体のヤツのことをやっと思い出した。

 とにかく、さっさと息の根を止めて、裏山のゲートに向かわなければ。頭痛も少し弱くなってきている。

 その時、駐車場に一台の車がスキール音を立てて滑り込んできた。

「待たせたな少年! 大丈夫か?」

 4WDの車にハコ乗りした宝田さんが、車から飛び降りて、俺に駆け寄った。吉富さんは運転席、他の連中も一緒だ。

「どうしてここに?」

「弓槻ちゃんが俺を呼んだんだ。お前がカマキリとやりあった末に、道路でのたうち回ってるから助けてくれってな。その様子じゃ大丈夫そうだな」と宝田さん。

「済みません。弓槻もありがとな」

 そう言うと、弓槻は恥ずかしそうにうつむいた。

「にしても、何なんだこの有様は」

「ヤバいです」

「見りゃわかんだろボケ! どうヤバいか聞いてんだよ少年!」

「……もう、この街はダメかもしれない……」

「というと?」

 運転席の窓を開けて、吉富さんが訊ねた。

「この街にある全てのゲートから、大量の異界獣が吹き出しています。最早、汚染度はレベル八……いや、十になるのは時間の問題かと……」

 そう言うと、弓槻を除くその場の全員が凍り付いた。

「レベル八……だって? まるでゾンビ映画じゃねえか。最早街ごと焼き払わないとダメなレベルだな……」と宝田さんが言った。

 街中にケモノが溢れ出して、手がつけられない状態になって、もう逃げるしか、焼くしかないって状態は……。

 そうだろうな。

 宝田さんの言うとおり、ゾンビ映画だ。

「焼き払うってどういうこと!?」

 弓槻が悲壮な声を上げた。

「教団の衛星からミサイルを落として、街ごと異界獣を焼き尽くすんだ」と宝田さん。

「そんな……」

「宝田さん、下はどうなってました?」と俺は訊ねた。

「ひでえよ。ここに登ってくるまでに、十匹くらいは轢き潰して来たぜ。さて勝利君、俺達は何をすりゃあいいんだ? ……つってもこの人数で出来ることなんざぁ、限られてるだろうけどな」

 ヤバいと分かってるのに、宝田さんはニヤリと笑った。

「うちのシスターは?」

「丁度彼女が風呂に入ってたんで、他のシスターに伝えて、そのまま出て来たんだ。湯冷めさせても悪いし、負傷してるわけじゃないから拾ってすぐ戻ればいいと思ってな」

「それじゃ、なんで他の人まで来たんですか……」

「お前が倒したカマキリを見物に、だよ。どこだ?」

「はあ……」こんな時なのに、なんて連中だ。「あの……こっちです」

 俺は半殺しにしたカマキリのところに皆を連れていった。

「おやあ?」と宝田さん。

「え……。なんで……」

 瀕死のカマキリがいなくなっていた。

「いないぞ。逃げたのか?」

 そう言って、吉富さんが路面を調べている。

「そんな……どこにいったんだ? ほとんど虫の息だったのに……」

「体液を擦り付けながら、どこぞに這っていったのかと思うと、途中から途切れているようだ。飛ぶなり跳ねるなりして、移動してしまったんだろう」

 吉富さんが言った。

 地面を見ても奴の血痕はコールタールのように黒く、昼間でもなければ判別は難しい。匂いを辿ろうにも、街全体にケモノが溢れている今では、さすがの俺でも手段がない。

「……あ! 発信器を付けたんだった」

「よし、車に戻るぞ」

 吉富さんが皆に言って、車の所まで駆け戻った。

 ぎゅう詰めになりながら、車内のモニターを全員で覗き込むと、カマキリは想像どおり裏山に向かって移動していた。

「やっぱり……。沸いてきた連中を喰らって体を再生する気なのか……」

「まだ生きているのは分かったが、どのみちこの街はいずれ焼き払われる。さっさと市民を避難させて、ここからずらかるぞ」

 と吉富さん。

「避難経路は東西に二本づつある橋ですね。これを押さえられるとヤバイな」

 モニタを指さしながら宝田さんが言った。

 どこかに電話をしていた亀田さんが僕らに言った。

「今、教会に連絡したところ、勝利君の言ったとおり街中に異界獣が溢れかえっているので、早速警察が来ている模様です。シスターベロニカが指示を出して、武器庫から警察に緊急用の武装と橋の破壊用のランチャーを配布しているそうです。勝利君の意見も伝えたところ、最終段階のプランを実行すべきとシスターも判断されましたので、本部に連絡次第、衛星からの爆撃準備が始まります。……街の方はさすがにひどいようですね。港でも船を出す出さないでパニックが発生しています。我々も教会に戻って準備をしましょう」

「分かった。彼女を残してきたのはラッキーだったようだな。橋を落とせばやつらは外には出られん。最悪、三割程度の市民は犠牲になるだろうがな。……さて、教団にはいくらボーナスを請求すりゃあいいんだろうなあ」

 と吉富さんはひげ跡の残る青い顎を撫でながら、渋い顔で言った。

「雇われの身とはいえ、さすがに同胞を見捨てるのは忍びない。教団がわざわざ日本人ばかりを狙ってリクルートしていたのは、こういう事態を想定してのことなんだろう。イヤな連中だよ。ったく」

 呆れながら宝田さんが言った。

 ほかの連中も苦笑いしているけど、みんな自分らだけ逃げる気はないようだ。

 最後に頼れるのは愛国心だとはっきり分かる。

「くそッ……」俺は拳を握った。まさか、こんな顛末になるなんて。

 ――事実上の敗北だ。

 街を根こそぎ焼き払うというのは、我が教団が異界獣に敗北したことを意味する。

 衛星からの攻撃で更地にしてもゲートそのものは消滅しない。

 結局、街一つを失ったぶん、我々の負けなんだ。

 海紘ちゃんの両親が護りたかった店も、薙沙さんの護りたかった街も、弓槻の生まれ故郷の風景も思い出も、何もかもが無くなってしまう。俺達のやってきたことが全部、ムダになってしまうんだ。

 でも、ヤツだけは。せめてヤツを仕留めないことには、俺も弓槻も先に進めない。

「ようし、戻るぞ!」

 吉富さんが運転席に座り、シートベルトを締めた。

 俺は独り、車から降りた。

「すいません、俺はちょっと用事がありますので、先に行って下さい」

「……まさか、カマキリを追いかける気なの?」

 弓槻が不安そうな顔で言った。

「もういいよ……。死んじゃったら、何にもならないじゃない。一緒に逃げようよ、多島君」

「お前は本当にそれでいいのか? 済ませられるのか? 一生後悔しないのか?」

「そんなんわかってるわよ! しないわけないじゃない! でも……」

「おいおいおいおい、寝言言ってんじゃねえよ! 市民だって全員助かるかどうかって時に何言ってんだ! さっさと乗れ!」

 宝田さんが言った。

「俺を誰だと思ってんです? 天使ですよ」

「バカヤロウ! お前なんかただのガキじゃねえか! 腕を落とされた程度で泣きべそかいてた小僧だろうが! 用事なんかいいから、復讐なんかいいから早く来い! お前が死んだら弓槻ちゃんはホントに一人になるんだぞ! それでもいいのか勝利ッ!」

 宝田さんが必死に俺を呼ぶ。

 呼んでくれた。

 だけど俺は、静かに首を振った。

 うっすらと笑みを浮かべて。

「やめろ宝田。奴には仕事があるって言ってるだろ。俺達は俺達の仕事をするまでだ」

 吉富さんはそう言うと、じゃあな、と手を上げて車を出した。

「まって、車止めて! 多島君! 多島君!」


 弓槻が窓から顔を出して俺を呼んでいる。


 俺は車が見えなくなるまで見送った。


 弓槻はずっと泣きながらわめいてた。


 宝田さんも、ずっと俺を見たままハコ乗りしていた。


「落ちるぞ、おっさん……」俺は呟いた。

 車を見送ると、俺は弓槻が落としていったネックレスを拾い、中身を箱に戻して包みを可能な限り直した。

 もう一度、あいつに手渡せるかどうか分からないけど。

 そして、裏山のゲートから吹き出す、一番大きな光の柱に向かって走った。

 走りながら、俺はぼんやりと弓槻の事を考えていた。

 もしかしたらもう逢えないかな、とか。

 いきなりキスしたこと怒ってるかな、とか。

 あんなことになるなら、やっぱり自分で選べば良かった。

 そして、OKかどうかだけを海紘ちゃんにジャッジしてもらえば良かったんだ。

 でも、それでは弓槻の本心は分からず終いだったことになる。

 本当はどっちが良かったんだろう?


 ただ願う事は、弓槻の無事。

 ただ望む事は、あの勝負の決着をつけることだ。

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