結局俺は、朝まで眠れなかった。
まんじりと出来ない、って表現はときどき聞くけど、こういうのがそれだと実感した。
◇
前の晩、パトカーに送られて教会に着くと、身の丈二メートルの大女、シスターベロニカがドアの前で待っていた。
俺の顔を見るなり「やっぱりな」とだけ言うと、その逞しい腕でぎゅっと抱き締めてくれた。何がやっぱりだったのか、俺にはよくわからない。
正確には、「どれ」が「やっぱり」だったのか、だけど。
普段スーパークールな彼女が、俺のことをどう思ってるのか正直よく知らない。
でも、俺のことはよくわかってるっぽい。
なんか不公平な話だ。
俺としては、師匠であり、実質的な育ての親でもある彼女のことを、一応は母親だと思っている。まあ向こうも息子として愛してくれてるのだけど。
とにかく俺は、ちょっと筋肉質なママのおっぱいに顔をうずめて、――啜り泣いた。
俺が落ち着くと、シスターは俺を軽々と姫だっこし、ドアを蹴り開けて土足のまま食堂に歩いていった。
「べつに蹴らなくてもいいじゃん……つか靴脱げ」
「その方が早い」
やれやれだ。あとでシスター長さんに怒られても知らないぞ。
……で、やっぱり怒られた。タムラさんに。
二人とも靴を脱がされて、シスターはモップかけの刑。
俺はタムラさんにココアを入れてもらった。
ひどい顔してるわね、ってタムラさんが言ってたけど、何がどうひどかったのか俺にはわからない。
正確に言えば、「殴られた跡」なのか「表情」だったのか、だけど。
食堂でココアを飲んでいたら、どうして俺は吉富さんたちについて行こうとしたのか疑問に思った。
別にただ小物を狩るなら一人でもあの通り可能だったんだ。
じゃあ何故なのか。
……やっぱり、カマキリをどうにかしたいって気持ちが強かったせいで、でも今の俺には一人じゃムリだから、トチ狂った末に彼等にくっついて行こうとしたんじゃないか。
そう思えてきた。
迷惑かけるつもりなんか、これぽっちもなかったのに。
結局は、薙沙さんのためじゃなく、自分がつらい、悔しいから、むしゃくしゃした気持ちをどうにかしたくてついて行き、でも結果的にはたくさん迷惑をかけることになった。
「へこむわー……」
俺は食堂のテーブルに突っ伏した。
どうしようもなく俺はヘコんでいた。
正確に言えば薙沙さんの件でヘコんでいたところ、吉富組の件でさらに上積みした格好だ。
ダブルでヘコむ。
俺と弓槻のどっちがヘコんでいるのかヘコみ合戦をしたら、多分弓槻の方が勝つと思うけど、気持ち的には負けてない。
俺は死んだナマコのようにずっと食堂のテーブルに貼り付いていた。もうこのままテーブルと一体化してしまいたい気分だった。
◇
そんなこんなで、いつのまにか朝になっていた。
朝食の用意を始めた若いシスターたちが、俺を見るなり、「飲み屋で酔いつぶれたヨッパライみたーい」とか言って、俺を撮影しやがった。俺はやつらを片手でシッシと追い払うと、オッサンみたくヨッコラショと声を出して立ち上がった。
フル装備のまま食堂でウダウダしてた俺は、一旦自室に戻って重い武装を取っ払うことにした。片手が使えないのでひどく難儀するが、ベルト類は片手でパッチンと外せるものが多かったので、だいたい外すことが出来た。
ケガをしていなければ、さらに装備品には小型ウィンチとか安全帯、カギフック、投げナイフに閃光弾、発信器、ペイント弾、長尺のダガー等々が追加される。
あとは獲物の種類によって特殊兵装も持って行くことがある。
たとえば、カマキリことテトラマンティスがいるって初めから分かっていたら、斬撃用の防具 (刃物が通りにくい服とか鎖帷子みたいなやつ)とか、双剣とかトンファーとか、そういう手数を多く出せるような武器を持っていったはずだ。
あいつは素早いし体も硬いから、銃のような遠距離武器は効果が低い。ガチで殴り合わないとダメなタイプだから。なのに俺は、サブマシンガンとか拳銃とか持って行っちゃって、(というかそれしか手持ちがなかった)そりゃあボコボコにされても仕方ない。
一カ所の関節に銃弾を複数撃ち込み、そして決死の覚悟で懐に入り、ナイフで断ち落としたんだから、冷静に考えれば褒めてもらってもいい戦果だ。少なくとも吉富組の誰一人として、カマキリとサシの勝負が出来る奴はいないはずだから。
……なんて、ポジティブに考えようとすればするほど、俺はまたヘコんでしまう。
もうやだこの性格。
とりあえず、シスターベロニカの教え「ヘコんだ時には吐くまで食え」に従って、ゴムウエストのジャージに着替え、ガッツリ食う覚悟で食堂に戻った。
俺が食堂に戻って、「厨房シスターズの愛情入り十段パンケーキタワー」を粛々と攻略していると、頭の上から女の子の声が降ってきた。
「それ、一枚もらっていい?」
なんと、朝っぱらから食堂に顔を出した弓槻だった。よく分からないが弓槻までジャージに半纏姿だ。年末だから大掃除でもする気なのか。
「ヤダ。あっちでもらってきなよ。俺はこいつを命がけで攻略する使命を帯びているのだから」
「ナニソレ。んじゃいい」
弓槻は白いモフモフのついた水色のスリッパをペタペタさせながら、配膳カウンターの方に歩いていった。
あれ、なんで俺、イジワルしてんだ? ま、いっか。
『バンッ』
しばらくすると、けたたましい音をたてて、弓槻が俺の前に厨房シスターズの愛情入り十段パンケーキタワーを乗せたトレーを乱暴に置いた。
「なまいき」と弓槻。眉間にスジを作っている。
「は? 何の事???」
困惑する俺を無視し、弓槻はタワーのてっぺんから最下段まで、ズバッと一気にナイフを十字に入れ、豪快にメープルシロップをブッかけ、バターの欠片をガンガン乗っけた。バターが溶けるまでの間、弓槻はコーヒーメーカーにコーヒーを汲みに行き、ついでにスクランブルエッグとソーセージまで追加で持って来た。
「……なによ」
マグカップとおかずの皿を持った弓槻が、イラっとした顔で俺を見下ろして言った。
「やるな、弓槻」
俺は不敵に笑った。
「あんたに身の程を思い知らせてやるわよ」席につくなり弓槻が宣戦布告をしてきた。
んんん? これってバトルなのか?
弓槻のタワーではバターがほどよく溶け、メープルシロップの甘い香りと相まって、ひどく食欲をそそる香りを周囲に振りまいている。
俺は己のタワーから一枚づつ皿に取り、その都度シロップやバターを塗っていたけど、最初からああすればよかったと少々後悔した。
「それ、何枚目?」
弓槻が俺に尋ねた。
「あー……いまこっちの小皿に乗ってるので四枚目だけど」
「わかった」
何が分かったんだ? 弓槻よ。
弓槻はコーヒーを一口飲むと、タワーの最上段にフォークをブスリと突き立て、四分の一に切り分けられたパンケーキを二枚取っておもむろにかぶりついた。
うわあ……。
俺はその豪快な食いっぷりについ見入ってしまった。
バクバクと食らい、その二枚はあっという間に弓槻の胃の腑に収まった。
そして間髪入れずにまた、タワーの最上段にブスリ。
バクバク、ブスリ。
バクバク、ブスリ。
弓槻は見る間にタワーをガンガン攻略していった。
呆気にとられて眺めていると、
「いいの? 負けるわよ?」
と弓槻が挑発してきやがった。
お前の方こそクソ生意気だよ。
「お前が四枚分食うまで待っていてやっただけだ。見てろ」
もちろんウソですが。
俺は一旦コーヒーを注ぎ足しに行ってから、本腰を入れてタワーに挑むことにした。
俺と弓槻が大食いバトルをしているといつのまにかギャラリーが周囲に集まっていた。仕事明けの吉富組の連中までいて、あろうことか俺達で賭けをしていやがった。
不思議なことに、昨夜の件はもう気にしてないみたいだ。
「ちょ、なにやってるんですか!」
「俺はお前に賭けたんだから負けたら殺すぞ」と真顔で言う宝田さん。
「い、いくら賭けたんですか!」
「ナイショ。そんなことはいいから食え!」
ひええええ……
ふと向かいの弓槻を見ると、もうすぐ十枚完食しそうだ。
ここまで来たら負けてられるか。
テーブルの脇では、大きなアルミのバットを抱えた厨房担当のシスターが、銀色に光るトングをカチカチカチカチさせながら、わんこそばよろしくパンケーキの補充をしようと待ち構えている。
「これ勝利条件とかどうなってんの?」
俺はギャラリーに訊ねた。
「一皿十枚だから、何皿食えたか、じゃないのかな」
と吉富さん。ところで貴方は誰に賭けたんですか。
「先に二皿、つまり二十枚完食した方で」
と、バットを抱えたシスターが言った。
「じゃないとまた焼かないといけないし」
「弓槻ちゃん、いける?」
シスターの白い三角巾が斜めに差し込む朝日に光って眩しい。
「次、お願いします」
強い口調でおかわりを要求する弓槻。
戦う女の風情が漂う。
まだまだ余裕がありそうだ。
俺もまもなく完食したので、おかわりプリーズ。
同じく十枚乗せてもらった。
「なによ。ムリしなくていいのよ」
弓槻が挑発する。
「そっちこそデブになっても知らないぞ」
「あたし太らない体質だから」
「そういうの年いってから超デブになるんだぞ。知らないのか?」
「うるさいわね!」
デブって言ったらキレられた。
俺達は再び食うのに集中した。
味が同じだと飽きて食えなくなってくるから、俺はトッピングをヨーグルトに変更。弓槻もマネして、ママレードに変えた。
さすがに十五枚も食うと、いいかげん腹いっぱいになってくる。
ここから先は飲み物で流し込む戦法になりそうだ。
でかい口を叩いていた弓槻もそろそろ苦しそう。
「ま、負けない。多島にだけは負けない……」
うわごとのようにつぶやく弓槻。
もう何と戦ってんだよ。……って俺か。
ギャラリーの応援がエスカレートしてる。
金がかかってるもんだから、内容がどんどんえげつなくなったり、半ば罵声になったりしてる。
まったく、ひどい大人たちだ。
というか、吉富組の連中はひと仕事終えた後なのに、ずいぶん元気だよなー。
ま、連日連夜の作戦行動なんてどこの軍でもあるから、そんなに疲れてないんだろうな。軍隊なんて行ったことないから知らないけども。
「んんんぐぅぅっ」
弓槻がパンケーキを喉に詰まらせて、うめいている。
弓槻に賭けたと思しき連中が水を飲ませたり口を拭いてやったりと甲斐甲斐しく世話をしている。
むしろJKのお世話なんてご褒美とばかりにやたら嬉しそうな奴までいるぞ。
どいつもこいつも!
「負けるかああ!」
俺は気合いを入れ、皿に残った三枚のパンケーキを、一枚づつ手で二つ折りにして口の中にねじこんだ。
弓槻がモタついた今こそスパートをかける時だ!
何度も喉が詰まって呼吸困難に陥りそうになりながら、俺は涙目で二十枚のパンケーキを完食した。
「はい、そこまで!」タムラさんがコールした。「ショウ君の勝ち!」
宣言とともに、タムラさんが俺の手を掴んで上に掲げた。
テーブルの周りで、やったー! とか、畜生! とか、賭けをやってた連中のシャウトが飛び交う。
「ども……うぇぷ」
俺は咀嚼したパンケーキを戻しそうになり、慌てて口を押さえた。
「も――――っ!」
弓槻が悔しそうに、叫びながらテーブルを両の拳で叩く。
というか勝負を挑んで来たのはそっちじゃんか。ったくもう。
「お前、責任もって残りも食えよ、弓槻。食いものを粗末にしてはダメだ」
「ア、アンタに言われるまでもないわよ。フン」
強がる弓槻。
でも涙目になってるぞ。
あ、海老原さんは弓槻に賭けたのか、苦しそうな彼女の背中を撫でている。
さすがに俺もけっこう苦しいので、早々に自室に戻ることにした。
それにしてもこの騒ぎはなんだったんだ? 当事者の俺が一番わかんねぇ。