「やめて、お姉ちゃん! もうすぐハンターが来るから行かないで!」
二十一世紀初頭、クリスマスもほど近い雪の日。
関東の地方都市にある、聖紺碧女神教団の支部教会の玄関先で、女子高生の
「もう待てないッ、アレが街に出たらおしまいなのよ!」
弓槻の姉、
「待ってお姉ちゃん! お姉ちゃんじゃ殺されちゃうよ!」
薙沙には、そんなこと分かっていた。
自分はただの異界獣監視人で、戦闘の素人。
アレが己の手に負える相手じゃないと。
監視カメラに映る不鮮明な画像から分かったのは、その異界獣=バケモノは、体高約二メートル、体長約四メートルという、教団の基準でもかなりの大物だということだけだ。そんな巨大なバケモノが街に放たれれば人は為す術もなく、残らず虐殺されるだろう。アレを倒せるのは、バケモノ退治のエキスパート、「聖紺碧女神教団」の異界獣ハンターだけなのだ。
(でも、せめてハンターが到着するまでなら――。大丈夫。私ならやれる。お父さん、お母さん。どうか天国から見守ってください)
ドアの前で妹やシスターたちが、しきりに薙沙を説得している。だが最早彼女には、己を遮る声は、雑音としか感じられなかった。
薙沙は彼女たちの足元に向け、決意を込めた銃弾を撃ち込んだ。
「そこを通しなさい! これは私の使命なのよ!」
妹と教会のシスターたちが一瞬怯む。そしてゆっくりと薙沙に道を空けた。
――ごめんなさい。
薙沙は、涙で顔をぐしゃぐしゃにした妹に一瞬微笑を見せると、再び厳しい表情で粉雪の降る、夕方の街へと駆け出した。
背後から何度も彼女を呼び止める声がする。しかし彼女は振り返ることなく、日の暮れかかる灰色の街を必死に走った。あの大物の出現したゲートのある林へ。
◇
教会から飛び出した薙沙が町外れの高い塀に囲まれた教団私有地に到着した頃には、辺りは大分暗くなっていた。
汗だくになった彼女の、顔にかかる濡れた髪がひどく冷たい。
「アレ」のサイズなら、その気になればこんな塀を越えるのは簡単だろう。そう思いながらかじかむ手で監視カメラの情報を手元の端末で調べると、幸いなことに今のところ目当ての異界獣は私有地の外に出た気配はなく、中をうろうろと歩き回っている様子だった。
薙沙は端末を仕舞うと、門にはしごをかけて敷地の中に入った。
(どんどん暗くなってる。これではあれを見つけにくくなってしまう……)
懐中電灯で足元を照らし、雪交じりの枯れ葉を踏みながら、彼女は鬱蒼とした雑木林の奥に向かっていった。敷地の中程まで来た彼女は、何かを見つけると、ヒッと短い悲鳴を上げ、恐怖に凍り付いた。
それは、土を抉るように刻みつけられた、異形の足跡だった。薙沙は銃を右手に、懐中電灯を左手に、勇気を振り絞って先へ先へと足を進めた。
「あ……」
白樺の木の向こうでガサリと物音がした。
枯れ葉を踏んだような音だった。
鼓動はますます早くなり、喉が締め付けられる。
いくら冷たい空気を吸い込んでも吸い込んでも、薙沙の胸は苦しさで満ちていた。
薙沙はなるべく音を立てないよう、ゆっくりと進んだ。
『xxxx……』
背後から女性の声がする。
誰かが教会から薙沙を追って来たのだろう。
「はやく見つけなくちゃ」
薙沙は声を無視して、木々の間を小走りで進んだ。
――とにかく急いで見つけよう。もう、時間がない。
『ズドンッ』
そばで何か重いものが落ちた。建物は遠く、周囲には木の他に何もない。
「ッ!」
薙沙は心臓が肋骨を突き破り、胸から飛び出しそうに感じた。
引き返さなかったのは、薙沙の強い意志ゆえだろう。
――見たくない。本当はそんなの見たくない。でも――
懐中電灯を恐る恐る前に突き出す。
その明かりの先には太い昆虫のような足があった。
「ウソ……でしょ?」
ゆっくりと明かりを上に動かすと、暗がりの中にアレの姿が浮かび上がった。
いや、アレがこんな形だなんて、彼女は今初めて知ったのだ。
アレ、即ち駆除対象の異界獣は、腕が何本も生えたカマキリのような生物だった。
『クケケケケケケケ……』目の前の生物が奇怪な声を上げる。
鳥でもなく、は虫類でもない、聞き覚えのない声だった。
薙沙を恐怖から守っていた強い使命感と勇気は、一瞬で失せてしまった。
異界獣は全部の鎌を高く、大きく、威嚇するように掲げた。
――逃げたい。今すぐ逃げたい。でも、ここで逃げたらみんなが。街が……。
薙沙は妹の顔を思い浮かべ、最後の勇気を振り絞った。
「あ、あああ、当たれえぇッ!」
彼女は拳銃を異界獣に向けて発砲した。夕闇に青白いマズルフラッシュが瞬く。
(どういう、こと?)
銃弾は確かに異界獣の体に当たった。だが、奴はかすり傷ひとつ負っていない。
『クケ……』異界獣は小首を傾げた。
「な、なんで? どうして? 教団の特殊弾なのよ? どうしてよッ!」
薙沙は半狂乱で銃を乱射した。だが、薙沙の攻撃などお構いなしに、異界獣はゆっくりと近づいてきた。
『お姉ちゃん!』
「え!?」
妹の声に薙沙は振り向いた。
その瞬間、薙沙の視界が宙に舞った。
高く高く上がって、それから回転しながらゆっくり落下し、雪の上に着地した。
――アレはどこ?
しかし、彼女の目に映ったのは、自分の足だった。
――どう……して?
「お姉ちゃん! イヤアアアアアアアアアアアアアァァァ!」
弓槻の声。
弓槻だ。
その後から……あれは。
――あれは、天使だわ。
光る翼が見える。
そう、天使。
天使が、来て、くれ、た。
てん・し……が。
よか・った。
よ・か・っ・た…………………………