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【3】白猫(最終話)

『――俺は白猫を二度と手放さない』

 自分は、永久の時間を亘る、白猫のために生きる名も無き猫。



     ◇◇◇



 麗が気づくと、見知らぬ病室の中にいた。

 腕には点滴といろんなコードが取り付けられていた。僅かに頭を左右に動かして周囲を見ると、小さなモニターが幾つもあり、麗の現在のバイタルサインが表示されている。

(そういえば……)

 急に苦しくなって倒れたことを思い出した。

 この湯河原にある獅子之宮総合病院に転院してすぐのことだった。神崎と連絡がつかなくなり、そして――。

「お母さん……どこかな……」

 とにかく、状況が分からなかった。

 今、自分がどうなって、両親はどこで、そして……神崎はまだ戻らないのか。

 ふと、ドアを開けて誰かが入って来た。

 白衣を着ている男性。二十台後半くらい。

 見たことはないが、おそらくこの病院の先生なのだろう。長髪を束ねて腰まで垂らし、痩身長躯で切れ長の目も涼やかな知性溢れる男性だった。暖かみのある神崎とは真逆のクールな印象もあったが、メタルフレームの眼鏡の奥には、どこかで見たような色を感じた。

「失礼するよ」

 落ち着いた声で、その医師は優しく語りかけてきた。

「具合はどう?」

「悪くない、です。多分。あの、手術したんですか?」

「したよ。新しい心臓を入れてあげた。もう大丈夫だから」

 と、話しながら、男の視線は機械の画面を見つめている。

 麗は胸をまさぐりはじめた。

 手術をしたと聞いて、麗はある違和感に気が付いたのだ。

 ――本来存在するはずの違和感が、存在しない違和感を。

 胸を切り開き、縫合したはずなのに……

「もう、痛くないでしょう?」

 と言って医師はくすりと笑った。

「はあ……」

「傷ならないよ。過去のも含めて僕が全て綺麗に消したから」

 麗は目を見開いた。

 医師は小首を傾げながら、左手で右の肘を抱え、右の人差し指で尖った顎を支えている。

「あ、あの……」

「ん?」

「もしかして、有人さんのお兄さん……?」

 最初に見たときから、誰かに似ていると思っていた。

 空気が、目の奥の光が、似ている。

 伊達眼鏡をかけた神崎に。

「ご明察。私は兄の怜央だ。愚弟は今、処置室で疲れて寝ているよ。君のために、外国から寝ずに急いで飛んで帰ってきたからね」

 そう言って彼は、目の色を一瞬澱ませ、眉根を寄せた。

 麗は安堵の息を吐いた。

「そうですか……。起きたら呼んでもらえますか? あと私の親も……」

「その前に、君に言っておきたいことがある」

 怜央の口調が、急に厳しくなった。

「君はもう、死なない。――向こうしばらく、はね」

「いつ……死ぬんですか?」

「長くて十年。残念だが、体の方がそこまでしか保たないのだよ」と、顎に当てていた指で麗の胸をつついた。「愚弟やご両親には、まだ言っていないがね」

 彼の言葉には、逃れ得ないような強制力がこもっていた。それは、先送りされた「死刑宣告」のようなものだった。

 お手上げポーズでおどける、怜央の顔は笑っていなかった。

「でも、……あと十年は、有人さんと一緒にいられるんですよね」

「長いと思うかい?」

「はい。とても」

 玲央は長い髪をもてあそび、冷たく蔑んだ目で麗を見下ろしている。

 麗は、だんだんこの男のことが「こわい」と思い始めていた。

 彼の目が、触れれば切れそうな程冷たくなっていくのが分かる。

 この男こそ、死神だったのかもしれない、と麗は思った。

「だが、あいつにとってはとても短い、一瞬にも等しい時間だ」

 怜央は、ゆっくりと、でも何故か、少し苦しそうに言った。

「かわいそう……です、よね……やっぱり……」

 先のない自分には、彼を幸せにすることは出来ない――。

 彼に甘えて、彼を縛ってはいけないのかもしれない。

 でも……。

「今君は、弟を『かわいそう』と言ったね。――何故?」

 怜央の、髪をもてあそぶ手が微かに震えていた。

 僅かに肩が上下し、何かを押さえつけているのが伺えた。

「あまり一緒にいられないのに……私のわがままに付き合わせたら、かわいそうかな、って……」

『ドンッ!』

 鈍く大きな音が頭上に響いた。何かが強く壁にぶつかった音。

 怜央が思いっきり壁を殴ったのだ。

 強く打ち付けられた白い拳から血が滲んで、壁に赤い痕を残していた。

 彼の理知的な顔は、今や憎悪に満ちた形相に塗り替えられ、細い切れ長の目は、麗の顔を射貫くほど睨み付けていた。

 怜央の態度の急変と、全力で自分に向けられる憎悪に麗が震えていると、怜央は麗の枕元にドン、と乱暴に手を着き、麗の顔に鼻先が触れるほど顔を近づけた。

「本気で……そう思うのか?」

 と、低く呻く彼の声は、怒りで震えていた。

 でも、何故……?

 何故自分は、この男の逆鱗に触れてしまったのだろうか?

 恐怖で凍り付いた思考では、なに一つ明確な答えを出すことは出来そうにない。

「どうなんだ」怜央は低く、囁くように訊ねた。

「は……はい。……でも、できたら一緒にいたい……です。すこしでもいいから」

 麗の瞳からは、恐怖で涙がこぼれ落ちそうだった。

「たすけて……有人さん……」

 だが、救いを求める声は、小さく掠れて、届きはしなかった。

 怜央は急に体を起こし、腕組みをして大きくため息をついた。

 麗を見下ろす目は、ただの冷たい視線に戻っていた。

 まるで虫けらでも見るような、感情の籠もらない目だった。

「――それが、君の業なのだよ。麗君」

 …………業?

 自分を押さえつけていた、怜央の憎悪から一気に解放され、涙がぼろぼろと落ちた。

「……え? あの、よくわかりません……けど……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 布団にしがみつき、目の前の死神に、麗は何度も何度も謝った。

 怜央は、眼鏡を外して折り畳み、胸ポケットに差し込んだ。そして、

「もうこれ以上、私の愛する弟を、苦しめないで欲しいのだよ」

 と、冷たい笑みを作りながら麗の耳元で囁いた。

 裸眼の彼は、おぞましいほど妖艶な色を纏っていた。……悪魔のように。

「わ、別れてほしい、ということ、ですか……」

 怖くて、飲み込まれそうで、麗は布団の中に目だけ出してもぐりこんだ。

「いや、逆だ」

 怜央は目を細め、口の端を片方吊り上げて言った。

「もう二度と、別れないで欲しいのだ、業深き白猫よ……」

 そして、彼女の枕元にガラスの小瓶を置いた。



     ◇◇◇



 ――いつのまに俺は眠ってしまったのだろうか。

 時計を見ると、あれから丸一日は経っていたようだが。

 ここは……、恐らくクソ兄貴にテーザー銃で撃たれた後で運ばれた、院内の処置室だろう。消毒薬の匂いが漂っている。カーテンの向こうで物音がするが……。

 彼女は、麗はどこだ?


「あの……ちょっといいですか?」

 神崎有人は、処置室の中にいた看護師に、カーテン越しに声をかけた。

 麗の居場所を聞くと、同じ階にある病室だという。彼女の手術が成功したと聞いて安心した神崎は、早速逢いに行こうと起き上がった。

 すると、あれほど気分が悪かったのに体調は万全に回復し、銃創や首筋や太股の刺し傷の痛みも全て消えている。患部に手を当ててみると、自分で手当てした止血パッチやレイコに処置された包帯が全てなくなっていた。そういえば薄っすら兄が何かしてた気もする……。

「寝てる間、ご面倒をかけたみたいで……」

「よろしいのですよ有人様。お召し物は洗濯しておきました。ベッドの下にありますよ」

 言われて神崎が覗き込んでみると、着ていた戦闘服がカゴの中に畳んで入っていた。装備品を外してしまえば、無地の戦闘服はただの作業服と変わりはしない。麗には作業服で通すしかないだろう。銃やナイフなど、余計なものはカゴの中に置いていこう。

 神崎は患者服を脱ぎ、紺の戦闘服に着替えた。


 看護師に水を一杯もらい気を落ち着けてから、神崎は麗の元へ向かった。

 部屋で、彼女の親と顔を合わせるのがひどく気まずい。そりゃそうだろう。父親を銃で脅しつけて娘をよこせと怒鳴ったのだから当然だ。

 これまで色々ありすぎて、自分は頭がおかしくなっていたんだろう。あんな目に遭えば自分でなくともおかしくなってる。

 だが、どうしようもなかったのだ。

 そもそも自分以外に、あんな、あらゆる意味で曲芸飛行のような真似ができるんだろうか? 自負でもなんでもなく単純にそう思う。無論、出来ない方がいいに決まっている。できるから兄に余計な仕事を押しつけられるのだ。

 ――クソッタレ。

 うんざりするような思考が、ぐるぐると神崎の頭を走り回る。まるで運動会だ。


     ◇


 神崎は麗のいる病室の前までやってきて、立ちすくんでしまった。

 文字通り血反吐を吐きながら満身創痍で戦場から帰ってきた自分が。その身が扉に手を掛けることを逡巡させる。

「俺はやっと……お前に……でもどんな顔で会えば」

 そもそも自分が彼女を放置したのが原因で倒れてしまったのだから、相当恨まれていることだろう。

 名札、確かに『塩野義麗』とある。

 ――死人なら、名前はない。だから。

 彼は、意を決して、ドアをノックする。

 だが……。応答はない。

 初めて麗を見舞った時を思い出すが、今回はあんな嬉し恥ずかしなドキドキではない。恋人の両親に結婚の許しを乞うよりも、さらに状況が悪い、マイナス発進である。兄から、麗の父は懐柔済だと言われていたが、にわかには信じられなかった。

 様々な不安を抱えながら、神崎はドアを少しだけ開け、中を覗き込んだ。部屋には眠っている麗だけ、両親の姿はなかった。

 足音を立てないようにベッドに近づき、麗の寝顔を見た途端、神崎の双眸からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「よかった……生きてる」

 はー……と大きく息を吐き出した。

「ただいま。待たせて済まなかった……怒ってる、よね」

 ベッド脇で彼は啜り泣いた。

 麗は寝がえりを打ち、ぐるりと背中を向ける。

「……怒ってる」

「ごめん……」

「……さいてー」

「ほんとごめん……」

 麗は再度ぐるりと体を反転させると、目から上だけをふとんから出して、見つめあう。

「……なきむし」

「否定はしないけど……」鼻を啜りあげながら、拗ね顔で答える。

「……イケメンが台無し」

「ありがと。……ねえ、君にキスしていいかな?」

 小首を傾げ、切なげに麗を見る。

「……どうしよっかな」

「やっぱ怒ってるか……」神崎は力なく目を伏せる。

「怒ってるけど……ゆるす」

「ホントに?!」一瞬ぱぁっと明るい顔になったが――

「だって大変だったんでしょ? テロとか」

「――!」

 神崎は固まった。

「お兄さんがニュース見せてくれた。これに行ってたんだよって」

「――――そっか……。ウソついててごめん」

 麗が掛け布団をはねて、電動ベッドのスイッチを入れて上半身を起こした。

「ううん、こっちこそ、待たせてごめんなさい・・・・・・・・・・

「え……それって」

 神崎は背筋に冷たいものが流れた。

 悲しそうな笑顔で麗が見つめる。

「ん? あ、別に覚えてることとか特にないけど、えっと面影とか匂い……とか? はちょっと懐かしいなとか……えっと……あの……えへ……えっと」

 わたわたする彼女の前で、唖然とする神崎。

「あンのクソメガネ……麗になんてことを、――あ」

 ひとつヤバいことに後から気づいてしまった。普段意識していない事。

「――――き、君は……俺が人間じゃなくても、その……大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ。だって最初は死神だと思ってたもん」

「え…………そういえば……あれってマジだったのか……」

「うん」

「まあ……同じ魂と思えば、抵抗がないのも不思議ではないのか……」

 少し何かをブツブツ呟き、それからベッド脇に腰かけると、彼はしばらく黙り込んでしまった。

 疲れてるのだろうかと、しばらく神崎を放っておいた麗が手持ち無沙汰で、ベッドに突いた神崎の手に指の先でちょこんと触れる。神崎は、ためらうように指先を少し震わせると、麗の細い指をまとめて、そっと包み込むように掴んだ。身バレした直後の、いろんな恐れや迷いがいっぺんに降ってきた今の彼にとって、それが精いっぱいのスキンシップだった。


 ――小一時間ほどして、

「フラウ」

「ん? 私のPCの名前がどうかしたの?」

「俺と君が最初に逢ったときの、君の名前」

「そう、だったんだ……」

「だから、最初になんでその名前にしたの? って俺聞いたでしょ」

「あっ!」

「……そういうこと。同じ名前だったから君のこと、ずっと構ってた。百五十年戻って来ない君の代わりにしてた。その君に本名で、アルって呼ばれて、俺……ガマンできるわけないじゃないか」

 神崎は苦悶の表情で絞り出した。

「最初から……最初から俺は君が――」

 麗は両手で口を塞いだ。

「だけど……ああ、俺はなんてバカだったんだ! 麗が入院してた新宿のあの病院、俺の会社のすぐ近くだったんだよ!」

「うそ……」

 神崎の表情がさらに歪んでいく。

「十年前に東京支社が新宿××ビルに出来て、オフィスの窓からあの病院の屋上が見えてたんだ。駅からの通り道だった。つい最近だって、洗濯したシーツが見えてた。見えてたのに、そのまま中東に行っちまって。俺、もう君と会えないかと思って、バカみたいに海外をあちこち転々として、オフの時にはアキバのホテル暮らしで新宿にはたまに顔を出すだけで、こんな、こんな近くに、お、俺、君が入院した頃から、俺いたのに、何度も何度もあの病院の前を通っていたのに俺はッッッ!!」

 神崎は唸りながら、ガシャガシャと髪をかきむしった。

 大声を出す神崎に、麗が怯えて上半身だけ、じり……と後ずさった。


 麗が入院してからこちら、神崎は確かに彼女のそばにいた。運命はちゃんと二人を引き合わせようとのだ。しかし物理的な壁が二人を阻むので、今度はネットから迂回して――それでも神崎に気づかせるところまでは至らなかった。最後のラストワンマイルは、彼ら自身の手で辿り着くしかなかったのだ。


「バカだ俺はぁ……」

 ぐったりと項垂れる神崎の背後から、麗が彼の首に腕を回し、やさしく抱きしめた。ぐぅ……と苦しげに喉を鳴らす彼。

「ごめんね。私がずっと病院の中にいたから。もっとお散歩とかしてたら……会えたかもしれなかったのに……あのビルの前、しょっちゅうマルシェとかいろいろイベントやってたから、私がもっと出かけてたら……ごめんなさい」

 君は悪くないよ、と神崎は首を振った。

 神崎は両手をひざの上で組み、ぽつぽつと話し始めた。

「……一万二千年前、最初の君の今際いまわの際に約束をして以来、このことをずっと胸に秘めて生きてきた。……だから、この秘密を知ったのは今の君が最初なんだ」

「……だからお兄さんは、私にあんなに怒って……」

「あんまりにも君を失うのがつらくてさ、俺は……後先考えずにあんな約束をしちまった。またすぐ会えるのなら、と……」

 いまにも泣き出しそうな顔で彼はつづけた。

「君の死がどうしても受け入れられなくて……そのまま未来永劫生きていくのが恐ろしくて……その先にも別の地獄があると露程も思わずに」

 麗はかける言葉が見つからなかった。

「記憶も持ち越せないのに、こんなひどい話を教えて苦しめたくもなかった。現れそうな頃に狙いすまして待ち構えてたけど、毎回偶然出会ったフリして添い遂げた。それでもいいと。何度も。何度でも」

 神崎は、ぎり……と歯ぎしりをした。

「……なのに兄貴の奴……自分がこんな俺見るのがイヤだから、俺に断りもなく、君に秘密を教えたんだろ」

「有人さんが……かわいそすぎる」

「そう思われたくないから黙ってきたのに」

 彼は大きなため息をついた。

「一人で抱えて苦しまれるほうが私はイヤ」

 神崎は己の胸のあたりで組まれた麗の手を握った。

「でもね……最初に、心が折れた俺を救ってくれたのは君だったから、後悔はしていないよ」

 神崎は、フッと力の抜けた笑みを浮かべ、麗の指に口づけた。


 神崎は、すっかり吐き出して、彼女と今生初めて秘密を共有する関係になり、己を偽る苦しさからすこしだけ解放された。

 今までの彼女なら、こんな話を気味悪がって聞いてはもらえなかったかもしれないから、今の彼女が生まれるまで延々と待つ必要があったのだろう。とはいえ寿命の問題は厳然として残ってはいるが。

 いくら愛した女性だからといって、傷や秘密を抱えたまま共に過ごしたい奴なんていない。今までが、いびつだったのだ。

 神崎は、そのことに気づかされた。

 ――もう、あの苦しみに戻りたくない。


 麗は腕をほどいて彼の隣に座った。彼はすっと彼女の腰に腕を回して抱き寄せ、彼女の肩に頭を預けた。麗の体温を感じて、涙がこぼれそうになった。

「ところで有人さん」

「なんだい?」

「私の寿命、あと十年なんだって」

「――――え? えええええ!! だ、だってあいつが治療したんだろう?? どうして!」

 神崎は愕然とした。あと五十年は一緒にいられると思っていたのに。

「やっぱり短い?」

「当たり前だろう! そんな……やっと見つけたのに……」

 神崎はがっくりと肩を落とし、頭を抱えている。

 うろたえる神崎とは対照的に、麗は淡々と語った。

「移植はしたけど、体のほうがそれしかもたないんだって」

「ウソだろ……」

「お兄さんは、わたしに残った時間を教えてくれた。わたしは、それをとても長い時間だと思った。でもお兄さんは、『あいつにとっては、とても短い、一瞬にも等しい時間だ』って言ってた……たしかに、そうだよね」

 神崎は唇を噛んだ。

「わたしは、また貴方を苦しめる、悪い子だって……」

 麗は悲しそうにぽつりと言った。

「君は何も悪くない」

「待つのってすごく寂しくて、悲しいよね? イヤだよね?」

「……さすがに慣れた」

 神崎は昏く笑った。

「ウソ! 慣れてたら、ネトゲなんかやってない!」

「うっ……。それは…………えっと………………ごめん」

 図星だった。

 麗と自分は、あの世界で共に長時間過ごした仲だ。気を紛らわせるために仮想空間に入り浸っていたことくらい、彼女には、まるっとお見通しなのである。

「わたし、お兄さんに聞くまで知らなかった。ほんの一瞬のために、大事な人を何千年も苦しませ続けてたなんて……。そんな残酷なこと、私、耐えられない!」

 神崎は顔をそむけた。彼の感情はとっくにぐちゃぐちゃだった。

「でも俺……君と約束したから……待ってるって。ステュクスの流れに誓ったから……。だから……また待つよ、君が俺を忘れても」

 それは絶対に違えることは許されない神への誓い。

 胸を掻きむしるかのように、シャツの胸元をクシャっと鷲掴みにした。

 麗は彼のその手を掴んだ。

「有人!」

「は、はい」

 麗に急に気圧されて、縮みあがる神崎。

「最初の私だって、こんなことになるなんて思ってもいなかったはずだよ!」

「かもしれないけど……」苦しげに絞り出す。

「じゃあ、どうして今までの私に『同じ時を生きてくれ』って言えなかったの?!」

「……それは――――クソメガネに何を吹き込まれたんだ」

 神崎はベッド脇の、ガラスの花瓶に視線を投げた。黄色いバラが活けられている。真逆の意味の花言葉を持つ。そのアンビバレントを。

 少なくとも己の正義において、自分のわがままで『人間』に神族への『転化』を求めるということは、許されないと思っていた。

 それ故、今のいままで苦悩していたのだ。

 己の正義を貫いて、十年ぽっちを共に過ごすか。それとも――

「業や正義なんかどうでもいい! 有人は、ホントはどうしたいの?!」

「ぐ……」

 あらゆる障害を帳消しにできる唯一の方法が、強い痛みを伴って脳裏に浮かぶ。

「どうしたいの! ちゃんと言って! わたし有人の心が不自由なのはイヤ!!」

 ――心が不自由なのはイヤ。麗が心底嫌うこと。

 その言葉が神崎の心の殻を穿った。



  『俺は、白猫と、いつまでも一緒にいていいのか?

   あの「猫」でさえ、白猫に、

   ずっと一緒にいたいって言えなかったのに――』



「お……俺は君と……麗とずっと一緒に……いたい! 離れたくない! もう苦しいのはイヤだ!」

 神崎は心からの、一万二千年越しの望みを叫んだ。

「じゃあ、有人のお願い叶えてあげる!」

 麗は枕の下からガラスの小瓶を取り出すと、中身の黄金色の透明な液体を一気に飲み干した。

「おい! 今何を飲んだ!!」

 言わなくても彼には分かっていた。

 神崎は慌てて麗から小瓶を取り上げたが後の祭りだった。

「もう苦しまなくていいよ。私が選んだんだから……」

 そう言う麗の瞳が、紅くぼうっと光る。

 蝋白色の肌には血色が戻り、うるおいと張りが広がっていく。


 ――転化の妙薬ネクタル

 麗はこの瞬間、永遠の命を得た。玲央の作った神の薬で――


 ここにはいないはずなのに、一番最初の彼女の声が聞こえた。

『あなたの旅は、ここで終わるのよ、アル……』


 彼にとっての全ての憂いが、苦しみが、音を立てて崩れていった。

 渡し守との会話がふと脳裏をよぎる。

 そうか……これが、呪いが解けたってことなのか


 もう、君の死に悲しまなくていいのか

 もう、君を冥府に見送らなくていいのか

 もう、君のいない夜に泣かなくていいのか

 もう、君とのおもい出を呪わなくていいのか

 もう、君と苦しみの輪舞を踊らなくていいのか


 未来永劫、終わるとは思わなかった――――地獄が


 彼は万感の想いで麗を抱きしめた。

 胸いっぱいに麗の匂いを嗅ぎ、ゆっくり吐き出した。

 息と一緒に全ての苦しみが霧散した気がした。


「あなたの重荷、おろしてあげられて、よかった」

「ありがとう……フラウ


 麗を胸に抱きながら、神崎は天を仰いだ。

 喉から嗚咽が漏れ出し、やがて大きくなり、声を上げて泣いた。



     ◇◇◇



 十代半ば、互いの身の上を知った上での、神と人との無邪気な恋をしていた頃の気持ち。それを神崎有人、いやアルは思い出していた。

 胸を痛める呪いの記憶ではなく、甘酸っぱい青春の想い出として。

 ――まだ神と人が行き交う時代の。

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