「今日はどこに行こうか、
神崎は車のドアを開け、愛しの麗ちゃんこと恋人の
「有人さんに任せるよ~」
「わかった」
彼は麗の頭をぽんぽんすると、軽いキスをした。今生の彼女とのファーストキスは、訪問当日に済ませている。
◇
車は、神崎が彼女のためにわざわざ購入した、静音性の高い外車のセダンだった。もちろん、彼女とのドライブデートで楽しい語らいをするためである。
彼女と出会えたなら、いろんな場所に連れて行こう――百五十年前、この国に初めてやって来たときからずっと思っていたのに……。
痛ましいことに、何年も入院生活をしている麗は、観光はおろか、都内ですらほとんど出歩いたことがないという。彼女がこんなことになっているなら、海外をふらついたり諦めたりせず、足元をずっと探し続けていれば良かったのだ。
まったく、自分はなんてクソッタレ野郎だ、と神崎は自分を責めた。
神崎は帰国後、麗の転院を速やかに進めるべく、自社系列の総合病院を手配済みだったが、あいにく彼女の父親が出張中のため、東京に戻って来る週末まで会合の予定がずれ込んでしまった。彼女の母親には、あらゆる手段を提供できることを約束した――臓器移植も。
その間、麗の検査がある日を除き、神崎は彼女とドライブを楽しむ日々が続いた。
ここ数日の神崎は、麗専属の観光ガイドを務めていた。はとバスのガイドよろしく、東京スカイツリー、レインボーブリッジ、浅草、国技館、台場だのと、都内の名所を案内した。
稀に仕事で、海外VIPのお忍び旅行の警護をすることがあり、その際に観光地を巡った経験が今さら役立つとは、神崎は思いも寄らなかった。
自分の傍らで無邪気に喜ぶ彼女を見ていると、今までの血を吐くような苦しさと、空白の時間を忘れることが出来た。
やはり、自分はこのために生きているのだと、神崎は素直に感じられたし、喉元過ぎれば……じゃないが、結構自分は現金な奴だなぁ、と思った。
◇
この日もどこか観光に連れていこうと、病院の駐車場で神崎はカーナビと相談をしていた。とりあえず、おおざっぱに「道を星から聞いた」ので、今日のコースを設定して、病院の駐車場からゆっくりと車道に出た。
「今日は、麗のお願いなんでも聞いてくれるんだよね? 有人さん」
どういうわけか、昨日いつのまにやら約束をさせられていた。もっとも、金銭的に済むことであれば、自分の財力でほとんどの願いは叶えられるはずだから、と神崎はあまり心配はしていなかった。
「病気に響かない程度なら、何だって。……で、どんなお願い?」
強い日差しに目を細めつつ、ハンドルを持つ右手の人差し指は、カーラジオから流れる音楽に合わせて拍子を打っている。なんだか自分と境遇の似た歌詞だなどと思いつつ。
「あのね」
「うん」
「あのね?」
「なんだい?」
「私を女にして欲しい」
「!!」
いきなり衝撃的な発言をされたので、神崎は思わず変な方向にハンドルを切ってしまった。慌てて車の方向を立て直す。
「ちょ、危ないじゃないか急に変な事言って。後続車がいなかったから良かったけど、買ったばかりでエアバッグ作動させることになってたよ?」
「うう……変じゃないよ」
麗は大真面目な顔で、バックミラー越しに神崎の顔を見た。神崎は横目で麗の真剣な表情を見て、彼女が『覚悟完了』である事を悟った。
過去、何度も彼女の夫であった自分が、その都度彼女の最初の相手となれるのは気持ちとしては至極当たり前で悦びだった。逆に、稀に誰かのお手つきだった場合には、独占欲の強い彼は、しばらくヘコんでいることもあった。だからといって彼女への愛情が変わるわけではなかったが。
「んー……。俺だって男ですから、そういうのはイヤじゃないし、お願いを叶えるのにやぶさかではないけれど……。でも、理由が知りたいよ。ホントの」
しかし、今回ばかりは事情が大幅に違っていた。互いに恋い焦がれる上で求め合うのではなく、彼女には別の意図が隠れている。納得のいかない『お願い』は、いくら恋人とはいえ、イヤと言うときは言う。
またヘンなことを言われても困るので、神崎は車を路肩に停車させた。
「やっぱ言わないとダメ?」
冗談めかして麗が言った。無邪気な麗相手に、神崎も子供っぽく返す。
「ダーメ」
「そっか。あのね」
「うん」
「――処女のまま死にたくない」
彼女の声のトーンから、明るい色が消えていた。
「え……それって……」
余命宣告はされていないはずだったが、やはり彼女は己の死期を悟っていたのだ。
「知ってるよ? 私、もうじき死んじゃうんだって」
下の句に、『だからなに?』と続けそうな口ぶりだった。
「そんなことない。きっとよくなる」
――そうだ。そのために自分は帰ってきたんだ。
あの病院に入院している限りは、死ぬまでの時間をほんの少し遅らせるだけだが、うちの系列病院に入れて、万策を尽くせば、必ず助かる。
いや、助けてみせる。だから――。
「有人さんだって、お母さんから聞かされてるんでしょ? 昨日、お母さんが泣いてるの見たもん」
「それは…………ああ、そうだよ。余命のことは知ってる……」
「じゃあ、いいでしょ? お願いきいてくれるんじゃなかったの?」
「でも……」
そもそも、冥土の土産に抱いてくれなんて縁起でもない。さらにいえば、心臓を患う彼女と性行為をすること自体、心配なのだ。
「私には時間がないの」
「麗!」
「どうせ短い命なら、できるだけしたいこと、何でもしたいの!」
「――ッ」
麗は、シフトレバーに軽く置いた神崎の左腕にしがみついてきた。今朝、病院の洗髪台で髪を洗ってやったときの、シャンプーの香りが漂ってくる。
「でも……なあ……」神崎はぽつりと呟くと、車を始動させた。
気まずい空気が二人の会話を押し殺す。そのまま小一時間ほど都内を無言で走らせていた神崎だった。
◇
国道246号線の青山付近を走行中、彼女が「喉が渇いた」というので車を駐め、オープンカフェで休憩することにした。
神崎一人なら絶対に入らないような小洒落た店だ。外は暑いので、店内に入りたかったのだが、彼女がオープンカフェを体験したい、と駄々をこねるので、仕方なくテラスに席を取る。
「ねぇ、有人さん。もうじき向こうに戻っちゃうんだよね」
グラスの氷をストローでカラカラ鳴らしながら、つまらなそうに麗が言った。店名をプリントした四角いコルクのコースターには、結露した水滴が作ったしみが出来上がっていた。
「仕事ほっぽり出して帰国しちゃったからね。戻ったら仕事山積みかも」
う~ん、とおおげさに頭を抱えて、おどけてみせた。
うかつに麗の気持ちを落とすことは、彼女の生きる気力を削ぎかねない。しかし、こんなメンヘラ男が誰かの精神衛生について神経を遣うのは、皮肉にも程があると思った。
「いっちゃやだ……」
彼女の言葉が致命傷スレスレに突き刺さる。
麗の前の、濃緑色のテーブルクロスの上に、数カ所新しい染みが出来る。グラスから落ちた水滴とは、別の滴が作った染みが。
神崎は、膝の上でハンカチを握りしめる麗の手に、そっと己の手を重ねた。
「俺だって、行きたくないよ。……でもね、俺が帰らなければ、迷惑のかかる人が向こうにはたくさんいるんだ」
諭すように、静かに言った。
いくら彼女のためとはいえ、自分にもそれなりの責任がある。誰かに引き継ぐにしても、とにかく向こうに戻らないことには話が始まらない。
「いつ帰ってくるの?」
麗は啜り泣きを始めてしまった。周囲の客からの白い目が痛い。
「はっきりとは言えないけど……、でも、なるべく早く後任を探して、日本で暮らせるようにするから、もう少しだけ待っててくれないか?」
「私は待ってるけど……病気が待ってくれるかわかんないよ」
そう言って、麗は両手で顔を覆い、肩を震わせてか細い声で泣き出した。その声に身を切られるような思いがして、神崎は唇を噛んだ。
「いかないで……」啜り泣きに混じって、悲痛な訴えが漏れる。
行きたくないのは山々だ。自分だって泣きたい。だけど。
なんとか聞き分けてもらえないものだろうか。神崎は苦悩した。
最大の問題は、麗当人があまりにも自分に依存してしまっていることだった。
普段は無邪気に振る舞ってはいるが、やはり刻々と迫る死への不安や恐怖がない訳はなかったのだ。それは正に、彼女のことを考えないようにするために、局地に積極的に身を置く己と同じだった。
ここで自分から切り離したら、過保護でか弱い彼女の心は、すぐに折れてしまうだろう。分かり切っていることなのに、有頂天になって見落としていた、自分のバカさ加減がたまらなかった。
――麗が死を見ないように、考えないように、わざと無邪気に振る舞っていただけだったとは……。何故そんなカンタンな事に、気が付かなかったんだ……。
そんなことなら、毎日ベタベタして甘えさせる前に、強引にでも転院の話を進めて、死の恐怖から解放してやるべきだったのだ。
とにかく『自分はもうすぐ死ぬ』という彼女の思い自体を覆さないことには、彼女を置いて日本を出ることは自殺行為だ。
とにかく今は時間稼ぎをしなければ。
泣きべそをかく麗を連れて、車へと戻った。彼女が泣き止むまで小一時間ほど待って、彼が口を開いた。――神崎は覚悟を決めた。
「麗、さっき言ってた君のお願い、叶えるよ」
「え?」
期待していなかった彼の答えを聞いて、麗が顔を上げた。
「そのかわり、少しだけ向こうに帰らせてくれないか。必ずすぐ戻るから」
彼女はちょっとむくれていたが、しばらく思案して口を開いた。
「……だったらいいよ。まってる」
卑怯な時間稼ぎだと思った。自らをエサに、少しでも生に執着してくれればと思った。彼女の前世の記憶があれば、どんなに楽か、とも思った。
だが、今ここにある物だけが、彼女と自分を、未来へと導く。
――使えるものは、何だって使ってやる。自分自身だって利用する。これまで自分はそうやって戦場で勝利を掴んできたのだ。勝てない戦神に何の価値があるというのか。
神崎は車のエンジンを掛けると、現在宿泊している都心の高級ホテルへと向かった。
「有人さん」
「なんだい?」
「ああいう所って、カラオケとかゲームとかスロットとかいろいろあるんでしょ?」
「ん? 君は何を言ってるんだい? 俺、本気で分からないんだけど」
「そっか外国にずっといるから知らないんだ~」
「へ?」
麗の話を聞いてみると、どうやらラブホテルのことを言っているらしい。神崎は困ってしまった。宿泊先は東京でもトップクラスのホテルだが、残念ながら部屋には麗が喜びそうな娯楽設備はない。
どうしたものか――
「なるほど、そういう場所かあ……。麗は普通のとこじゃなくて、そういう楽しそうなとこがいいのかな?」
「うん。だって普通のとこなんて、病院と同じじゃない。やだよ」
殺風景なホテルでは病院を想起させられてしまう、と言われたら予定を変更するしかない。信号待ちをしていた神崎は、ウインカーを点けた。その先は歓楽街だ。
「そうか……なるほど。で、一応聞くけど、どういうことするか分かってる?」
「知ってるよ。AVで見たもん」
「え、……AVぃ? そ、そういうの、女の子も見るの?」
「知らないの? 遅れてるなぁ。今は女の子向けのAVっていうのもあるんだよ?」
「そ、そうなんですか……最近の女子は進んでるんですね……」
「有人さんだって、AVくらい見るでしょ?」
「俺はさ……、正直あんまり好きじゃないんだよ。なんていうか、見えなくてもいい所が見えちゃうんだ。余計な事が気になると、そういう気分が冷めて、オカズにするどころじゃなくなっちゃって……」
ムダに観察眼が鋭いことが仇になっていた。
「やさしいね。じゃ、何をオカズにしてるの?」
「えーっと……。そうだなぁ。自由に妄想出来るから、小説の方が好きかな……って、何言わせるんだよ?」
「有人さんは、官能小説をオカズにする、とメモメモ」
麗は携帯を取り出して、ニヤニヤしながら何かを打ち込んでいる。
「ちょっ! なにメモってるの? ヤメてー! 人の性癖メモるのヤメて!」
◇
麗のリクエストに応えて、神崎は青山から最寄りのホテル街・渋谷円山町にやって来た。渋谷界隈は道が狭く、神崎の車では少々窮屈な思いをすることになった。わずかに傾斜のついたホテルの入り口では、車体の腹をこするのではとヒヤヒヤした。
大きい車だと、日本の道路は神経を遣う。内心、あまり運転したくないなあと思ったものの、今後は麗のために車を運転する機会が増えるだろうから、同居したなら扱い易い日本車にするべきだろうか。
――などと数秒思案したが、ここで麗のご機嫌を損ねてはならぬ、と脳内会議の議題を頭から放り出した。
フロントで、なるべく面白そうな部屋を選んでカギを受け取る。面白そう、というのは設備が充実しているという意味だ。間接照明で室内を照らした二十畳ほどの部屋に入ると、麗のテンションが一気に上がった。彼女の原動力は、好奇心そのものなのだろうか?
「わーいっ、ねぇねぇカラオケなんかあるよ! あ、こっちは自販機だ~」
他にも、ダーツやミニシアターなど、細かい備品が盛りだくさんの部屋だ。麗は面白がって見て回っている。設備はゴージャスだが、内装は至って落ち着いている。
「俺は別に、ヘンなことしないで、麗とカラオケだけして帰ったっていいんだけど?」
「あー、そういうの『契約不履行』っていうんだよ! だめだよ~」
「契約不履行ね。はいはい」
(君にそれを言われるのが、一番つらいんだけど。つい数日前まで、俺はその不履行を本気でしようとしていたのだから……)
上着を脱ごうとして、ふと銃の場所を探す。彼女には見せたくない、そういう気持ちから、本来それがあるべき場所に触れる。しかし、そこには何もない。
――当たり前だ。ここは日本だ。出国する前に、置いてきたはずだ。
頭を左右に二、三度振り、ハンガーに上着を掛ける。
神崎があれこれいらぬ心配をしている最中、彼にお願いをした当人は、すっかりアミューズメント施設にでも来たような気分で、あちこち物色しまくっていた。
彼女がひとしきり設備を楽しんだところで声をかけた。
「麗、そろそろこっちおいで」
革張りのソファに腰掛け、自分の隣をぽんぽん、と叩く。
「はーい」
トコトコと素足でやってきて、神崎の隣の空間にちょこん、と座った。彼女のお願いそのものが、『冥土の土産』的な性格を持っている以上、正直あまり気は進まない。しかし、ここは名誉だと思って、真心込めてご奉仕することに決定。
「AVでどんなの見てたか知らないけど……不肖、努めて紳士的な対応をさせて頂く所存ではありますので……」
ゆっくりと肩を抱いて麗の体を引き寄せる。
「もう、前置きはいいから……」
麗は半分夢見心地な顔で、身を委ねてきた。
「前置きしないと、一瞬で狼になっちゃうから言ってるの。俺がどんだけ女断ちしてると思ってんだ……」
世の中の
神崎は、そんな恨み言を頭の外へ必死に追い出しながら、麗の柔らかい唇に、砂漠の風で少しカサついた自分の唇を重ねた。
◇
休憩じゃない休憩を終え、親密度のパラメータの上がった二人は、なんとなく都内を車でうろうろしていた。微妙な達成感で気分がフワフワしていた神崎は、正直なところ、密室に二人でいられれば、もうどうでもよかったのだ。
カーステレオからは「浪漫飛行」が流れていた。
トランク一つぶら下げて世界中どこの戦場にでも行く自分には、とても合っているような気がした。
だが、フワフワ気分だったのは、神崎だけだったのかもしれない。ラブホテルの魔法は、案外すぐに解けてしまっていた。ドライブを再開して二時間ほどで、麗の様子がおかしくなった。
「どうしたの? 麗、気分悪い? それとも……痛い?」
「気分は大丈夫。痛い……のは、ちょっとだから大丈夫……」
麗の表情がどうにも暗くて気になってしまう。
神崎は車を路肩に停めた。
「じゃあ、何?」
「やっぱり……独りで待つのがこわい」
「麗……」
彼女は両の手で顔を覆った。小さな肩が震えている。
「待つけど、約束したから待つけど……でも間に合わなかったら……」
神崎は歯噛みした。
一度抱いた程度では、麗の死への恐怖に克つことは叶わなかったのだ。
「大丈夫、俺が死なせやしない」
彼女の髪を撫でながら、神崎は静かに語りかけた。
「気休めでもなんでもなく、本心からそう思っている」
麗はゆっくりと、顔を覆った手を下ろした。
血の気の薄い彼女の頬は涙で濡れていた。
「無理だよ……」
麗の目は絶望に彩られていた。恐らく、これが彼女の本心なのだろう。誰にも見せなかった心の内を、その瞳は悲しげに物語っていた。
「心臓移植する人はみんな、アメリカに行くっていうでしょ。日本にいてもドナーなんて見つかるわけないし……だから……やっぱ無理だよぉ……」
神崎は、涙でぐしゃぐしゃになった麗の顔を、ハンカチで拭いてやった。お世話されることに慣れている彼女は、おとなしく神崎のされるがままになっている。
未定の話を前提として聞かせるのは避けたかったが、このまま彼女の気持ちが崩れてしまえば元も子もない。
万一転院の話がまとまらなかった場合、いざとなれば無理にでも向こうの病院に連れて行く。たとえ誘拐犯扱いされたとしても、彼女が死ぬよりマシだ。
「聞いて、麗。――確かに、今の病院にいても、寿命をいくばくか延ばすことしか出来ない。でもね、病院を移れば治せるんだ」
「……え?」
一瞬、何を言われているのかわからず、麗は何度か目を瞬かせた。
神崎はシートベルトを外すと彼女にぐっと身を寄せた。そして、彼女の手を取り、両手で握った。
「俺、本当は君を救うために、日本に帰ってきたんだ」
「ほん、と……?」
麗の長い睫毛が、唇が、震えた。
「助かるの? ……私」
「ああ」
彼女の目を真っ直ぐ見て、大きく頷いた。
「でもこの話は、君のお父さんが出張から戻ってきてから話そうと思っていたんだ。黙っていて、悪かった……」
「……ホントに治るの? 私」
信じられないという様子で、麗は恋人を見上げている。
「もちろん。でも、まだ誰にも言わないでね。話がややこしくなるから」
舌っ足らずな麗から、余計な情報を親の耳に入れたくはなかった。
「うん……」
麗は微妙に腑に落ちない顔をしながら頷いた。それでも今は神崎に任せるしかない、ということだけは十分わかっている。
「有人さん……」
「ん?」
「私、有人さんのことを、自分が死ぬまでの短い時間、思い残すことのないようにって神様から使わされた、やさしい死神だと思ってた。でも本当は、私を助けに来てくれた勇者様だったんだね……きっと、そうだよね?」
言葉のおわりの方は悲鳴にも似て、神崎の胸をえぐった。
麗の顔が切なげに歪んだ。そしてまた、大粒の涙をぽろぽろと零しはじめた。
今度の涙は絶望の涙ではなく、希望の涙だった。全てを諦め、投げ出していた自分が救われるなど、夢にも思わなかったから。
ああ、と神崎は大きくうなづいた。
死なせてなるものか。百年以上も待ち続けた愛しい人を、ここで失うわけにはいかないのだ。自分は、少なくとも彼女にとっての死神ではない。
「俺が君を必ず護る。だから『どうせすぐ死ぬ』とか二度と言わないでくれ。いいね?」
静かだが、強い意志を感じさせる口調で語りかけた。
「……うん、もう、言わない……もう言わないよ、有人さん……」
彼女の目が、全力で『助けて』と叫んでいた。
今まで一度も求めたことのない『救い』を、彼女は初めて心から求めていた。
「もう大丈夫だから」
安心させたくて、一番いい笑顔を作って彼女に応えた。
「やっと、おうちに、帰れるんだね、……私」
「そうだよ。前に言ってたよね。家に帰るのが夢だって。俺が必ず叶えるから」
「じゃ、有人さん、私をおうちに連れて帰ってくれるって、約束して」
麗は青白い小指を突き出して、ゆびきりの催促をしている。
「約束する。君を必ず家に連れて帰るよ」
神崎は、麗の白くか細い小指に、自分の小指を絡ませて約束した。
――そう、『ステュクスの流れ』に誓って。