「あ、繋がった」
「も、もしもし。アルです。いや、――神崎有人です。初めまして」
『あ……もしもし、かけさせちゃってごめんなさい……フラウです……』
その名を他人の、女性の口から聞くと、胸がぎゅっと辛くなる。
電話口から聞こえるその声は、鈴を転がしたような、可愛らしい声だった。背後で、ゲームのBGMがかすかに聞こえてくる。
「キミは無理に本名を名乗らなくてもいい。PC名だけで、かまわないから」
『ううん、私だけ名乗らないなんておかしいし。
(うらら、か。かわいい名前だな……)
「麗さん、か。いい名前だね」
『アルさんて、ほんとに「アル」なんだ。まんまだね。うふふ』
屈託なく笑う様は、ゲームの中の彼女とまったく同じだった。彼女も、口に出すことをそのまま打ち込んでいたのか――。
「まぁ、名前とか考えるのめんどくさいでしょ。だから。……それはそうと、その……」
『めんどくさいですか? 私のこと構うの』
「えっ……。そんな、どストレートに」
『聞きたいことを、そのまま聞いた方が誤解ないでしょ?』
「……イヤなら、毎日毎日構ってなんかいないよ」
たしかに、普段の彼女は裏表がなく、物言いが直球なことが多い。多少は分かっていたものの、こういうデリケートな話題の際は扱いに困ってしまう。
『こういうこと言われると、うれしいけど困るの?』
「いや……あ……うぅ……」
『やっぱホントは迷惑なんだ』
「えっ……、あ、そういう意味じゃなくて……。ああ、参ったな……ごめん、迷惑じゃないけど困ってる」
すっかり麗にイニシアチブを取られ、しどろもどろになってしまった。しかし、相手が女の子で本当に良かった、と彼は心から思っていた。
『同じなんですね』
そう言うと、麗はくすくすと笑った。
「な、なにが?」
『あっちでも、こっちでも、アルさんは同じ人なんだなって』
「あ……あはっはははははっ……、俺も、今全く同じこと考えてた」
一気に力が抜けた。無論問題は何も解決してはいないのだが。
『表裏ある人キライだから、そのまま言っちゃうんだと思う、私』
「そっか。ところで今、病院、なんだよね。ケガ? 病気?」
少し精神的余裕が出来たところで、彼女の様子をうかがってみた。
『中学上がる前くらいから、ずっと病気で。いま二十歳だから……、八年くらいかな』
「……そんなに長く……」
神崎は思わず歯噛みをしていた。
『いつか、おうちに帰りたい。それが私の夢』
「そっか……。とりあえず、こっち一旦ログアウトするよ。電話は切らないからね」
『うん』
神崎は手早くログアウト作業を行い、ノートパソコンを使って携帯の番号から契約者情報とGPSの位置情報を取得した。
位置情報を東京・新宿のマップに乗せる……。
確かに、入院施設のある病院だ。
(ん? ここは……もしかして)
契約者は、こちらも間違いなく「
次いで、病院の入院患者情報を照会する。
こちらにも、間違いなく同じ名前がある。循環器科入院。
(……ということは、もしかして彼女は心臓の疾患なのか……。クソッタレめ! 今はここまでくらいしか分からない。後で東京の菊池にでも調査を依頼するか……)
病院に何年も閉じ込められて、仮想空間でしか自由を味わえないのか。
そう思うと麗が気の毒でならなかった。
いくら『心が不自由な方が、耐えられない』と言われても。
「麗さん、聞いてくれ」
『うん』
彼はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……俺」
『うん』
実際に言おうとすると緊張が走る。
……やはり、言えない。
身勝手に恋人代わりにしていたなんて、気持ちの悪いことを言えるわけがない。
だが――言うべきだ。
「実は、何年も待っている恋人がいるんだ。でも、いつ戻ってくるのかもわからない。もう……来ないかもしれない」
本音としては、今のままでいたい。
しかし、もう潮時なのかもしれない。
でも今彼女を悲しませるような事を言えば、病気が悪化するかも……。
『そう……なんだ。じゃ、……戻ってくるまで……とか?』
(ダメだ、こんなの……彼女が不憫すぎる)
自分は、顔が見えないのをいいことに、麗を相手に恋人ごっこをしていただけなのだ。しかし、虚構の上塗りのようなマネをこれ以上続けるのも本意ではない。
『それなら……いい?』
彼女の声音が、自分の同意を乞うているのが痛いほど分かる。
「……麗さん、本当の事を言うよ。俺は、君を恋人の身代わりにして、自分を慰めていた卑怯ものなんだ。だから……君に好いてもらう資格などない……」
神崎は、ベッドの上で海老のように背を丸め、肩を震わせた。
空いている方の手で口をふさいだ。 ――電話口に、嗚咽が漏れそうだったから。
『やさしいんだね、有人さんて』
「……優……しい?」
『それに、正直』
麗の思いがけない言葉に、彼は戸惑った。
「……そうかな。だって、今まで隠れて君を慰みモノにしていた男なんだぞ?」
『私だって同じだし』
「え?」
『勝手に彼氏だってことにして、一緒にいたんだもん。有人さんと同じだよ』
「…………でも、俺の方が罪は重いよ。他人の代わりにしてたんだから」
『じゃ、お互い、勝手に一緒にいたり、代わりにすればいいじゃない。ね?』
(確かに、確かにそれはWIN WINではあるが……しかし……)
『だめ……なの?』
今まで子供っぽかった麗の声音が、急にトーンがひとつ低くなった。
だめじゃない。
だめなんかじゃない。
自分だって、このまま麗のことを好きになりたい。
だが、卑怯者の自分が許せない。
『彼女』を裏切る後ろめたさ、麗を『彼女』の身代わりにした罪――。
病気の娘を捕まえて無邪気に恋ができるほど、純粋でもなんでもない、自分勝手で薄汚い男なのだ。
なのに、いまは喉から手が出るほど、麗が欲しかった。
誰でもいいから心を寄せる対象が欲しかった。欲しくなってしまったのだ。
そして、気付いたら、通りすがりの冒険者には戻れなくなっていた。
――――もう、一人は嫌だ……助けて
「俺……で、いいのか? 本当に」
『おせっかいやきなんでしょ?』
「え? ま、まあ……」
『だったら、もうすこしの間だけ、おせっかい焼いてよ、有人さん』
麗の言葉に背中を押された気がした。
「ふう、……分かりましたよ。落ちてた猫を拾ったのは、確かに俺自身だ。君の気が済むまで面倒見ましょ」
『やったあ。ホントは面倒見たいくせに。素直じゃないんだから』
「な! 俺は……や、あ、あの……一応責任というか……」
『なによ、はっきり言ってよ有人さん』
「いや、そうなような、違うような……」
『も~めんどくさい人』ぼそりと麗は言った。
「あーもう、そうだよ! 俺はめんどくさい男だよ。面倒見たいよ。滅茶苦茶キミの面倒を見たいんだよ俺は! くそっ、後でめんどくさいとか嫌だとか言っても知らないからな! けっこう粘着なんだぞ、ほ、ホントにマジで知らないからな!」
くす、くすくすくす……と、麗の笑い声。
『おじさんみたい』
「な! お、おおおおじさんって! そんなにおじさんじゃないモン! じゃー今から自撮り送るからな!」
『じゃーわたしもー』
結局、互いの写真を交換して、気づけば日本では空が白んでくるまで話し込んでいた。
二十歳だという彼女は、年よりもずっと幼く見えた。
写真は、病院のテラスで看護師の女性と撮ったもののようだった。入院中なせいか、肩より少し長めの髪を、左右で分けて先から二十㎝ほどの所をゴムで結んでいた。色気のない髪型だと彼は思った。笑顔は可愛らしかったが、やはり病気のためか痩せていて血色が悪かった。
『彼女』の面影を彼女に見たが、そう思い込みたい気持ちが見せる幻だと、彼は自分に言い聞かせた。これは気のせいだと。精神が現実を歪ませることなど、いくらでも見てきたからだ。
『やっば、起床時間だ。検温に来ちゃう!』
気づけば午前三時、日本時間で七時だった。病室を看護師が回って、入院患者の体温を測っているのだろう。日本の病院では習慣のように毎朝検温をしているが、さほど体温の記録が必要とも思えない科でも検温をしている。患者にとっても、看護師にとっても負担なだけだろう、と神崎は、小さくため息をついた。
「え、もうそんな時間なの? ああ~~、日本帰りたいなぁ」
『お休みいつ?』
「うーん……こっち来たばっかりだからなぁ。すぐには取れるかなぁ。でも、俺、こんなに日本に帰りたいって思ったことないよ」
神崎は、本気で休暇を取りたいと思っていた。
『そうなの?』
「でも、帰りたいってのとも、ちょっと違うのかな……」
『じゃ、なに?』
「恥ずかしいから言いたくない」
『聞きたい』
「しょうがないなぁ…………。キミに逢いたい、から」
悪気はないものの、結局神崎は麗の手中にまんまと落ちた形になった。
でも、彼はそれでもいいと思っていた。
いいかげん、悩むのにも疲れていたからだ。
『彼女』を待つのは、もうやめよう。
待たせるお前が悪いんだ、そう思うことにしよう。
◇
『お前から電話してくるなんて、珍しいな、有人』
神崎はその朝、事務室から東京支社にいる菊池に電話をかけた。それは、あくまでも私用の電話だった。
「ちょっとお願いがあるんです。東京で調べて欲しい人が」
『私用でか?』
「そうです。経費は、ギャラからでも差し引いておいて下さい」
『お前は滅多に頼み事をするような奴じゃないだろう。――相手はどこのVIPなんだ?』
VIPと言えなくもない。少なくとも彼にとっては。
「ある病院の入院患者です。その人物の病状、病歴、入院中のデータをお願いしたい」
『病人……? もしかして、それが昔お前の言っていた『白猫』って奴なのか?』
「あくまでも、可能性があるだけです。まだ……、確証は、ありませんが……」
(そういうことにしておくか……)
『分かった。そっちは俺に全部任せろ』
「……ありがとうございます、菊池さん」
『二十四時間以内にレポートを送ろう。そいつは、何処の誰だ?』
――いいんだ。
キミが君でなくとも。
もう、待つのは諦めたんだ。……だから。ごめん。
また……今度。次、こそは見つける、から。
だから……許してくれ。