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【4】千年前の吟遊詩人

 以前彼がこの国を訪れたときには、天にはただ鳥と雲が舞うのみで、人間はラクダの背に揺られて運ばれるものだった。


 その頃の彼は、楽器を携え、行く先々で『吟遊詩人アーシェク』と呼ばれ、敬われていた。


 だが今の彼は、武器を携え、行く先々で『死の商人マーチャントオブデス』と呼ばれ、蔑まれている。



     ◇◇◇



 三月中旬 夕刻。

 神崎がこの小国に到着して数日後、彼はGBI社の代表として大統領府で開かれるパーティに招かれていた。政府有力者の誕生パーティなのだが、神崎はその人物のことは全く知らなかった。しかし、国のトップを相手に、自分はこれから営業をしなければならない立場だ。神崎は、顔見せも兼ねて、渋々参加した。


 大統領府は、かつての王家が使用していた古い王宮を改造したもので、この国で一番立派で豪奢な石造りの建物だった。王宮の内部には、政権が変わった現在でも王国時代の調度品や数多くの装飾品がそのまま残されており、かつての王宮の栄華を思い起こさせる。

 神崎は、このような歴史的な建造物が戦火を免れていることに、奇跡を感じずにはいられなかった。


 会場内には、最近就任した新大統領を始め、大臣や部族長たち、近隣国の王族や大臣、更に今後大使館を置くと思しき大国の外交関係者――文官というよりは、明らかにエージェントと思しき白人連中などがひしめき合っていた。

 その中には日本の外交筋の人間も数名いたが、時折神崎に向けて強い侮蔑ぶべつの視線を送ってくることに彼は気づいていた。恐らく、この戦争屋風情ふぜいが、とでも連中は思っているのだろう。自分たちが代行を頼んでおきながら、その態度は何なんだ、と不愉快極まりなかった。


 神崎は以前、兄の怜央れおに、NYにある親会社のパーティに無理矢理連れて行かれたことを思い出していた。それは彼の強いトラウマ、パーティ嫌いの原因になっている。

 政界、財界、その他各業界の魑魅魍魎ちみもうりょうの集まるおぞましきものだったが、怜央は涼しい顔で怪物共に笑顔を振りまき、握手を交わしながら場内を回遊していたものだ。

 少しでも目を掛けてもらおうと、兄だけでなく、弟の自分にも擦り寄ってくる奴が後を絶たず、神崎は身の毛もよだつ思いをしたのをよく覚えている。

 一体どういうつもりで、兄が自分を魍魎どもの中に放り込んだのか、神崎は正直想像したくもなかった。パーティというものに、そんな忌々しい記憶しかなかった神崎は、極力宴席を避けて通ってきた。君子危うきに近寄らず、というわけだ。


 神崎は、めぼしい料理をかき集めて、そそくさと腹に詰め込んだ。どうせ宿舎に戻ったところで晩飯にありつけはしないだろう、と思ったからだ。

 軍人という職業柄、食えるときに食っておけ、というのは鉄則ではあったが、おかげで東京に帰っても早食いのクセが治らず友人に苦言を呈されることも多かった。

 今宵は地元の料理が食べられるかと期待していたのだが、海外からの来賓も多いためか、平凡なパーティ料理ばかりで心底ガッカリしていた。

 本来大統領府には顔見せに来たはずだが、兄のように振る舞える自信がなかった。どうせあんな風に出来ないのなら、気疲れするだけソンだから、おとなしくしていよう、そう思っていた。

 とりあえず腹もふくれてひと息ついた彼は、食休みとばかりに壁にもたれ、虚ろな目で来賓を眺めていた。ほとんど口もつけないワイングラスを手にしていたのは、手ぶらでは給仕に何度も声をかけられて鬱陶しいからだった。

 そのとき、ふと壁にかかった九弦の弦楽器が目に入った。中央アジアの楽器、サズだった。細く長いネックを持ち、胴は半分に割ったいちじくのような形をしている。古くより、西アジアから中央アジアの人々の間で広く使われていた楽器で、吟遊詩人によって広められたと言われている。

 この宴会場にあるサズは全体に美しい装飾が施してあり、まるで美術品のようだった。彼が近寄ってよく見ると、この壁にほとんど置物として飾られていたのだろう、長い間誰にも奏でられることなく、若干埃をかぶっている。

(ああ……これは…………)

 彼は懐かしさのあまり、壁に掛けられたままのサズに、つい手を伸ばしてしまった。――そっと、花にでも触れるかの如く。その時彼は、永く恋い焦がれた愛人にでも会ったかのような、愛しさと懐かしさの混じった顔をしていた。それを一人の老人がじっと見ていた。

「ご興味がおありかな? 日本のお若いの」

 大臣の一人が彼に声をかけてきた。がっちりとした体躯に豪奢な民族衣装を纏い、日に焼け深い皺を刻んだ顔に髭をたくわえた老人だった。

 突然声をかけられた神崎は、バツが悪そうに慌てて伸ばした手を引っ込めた。

「ああ、……済みません。勝手に触ったりして……」

「日本の方でもこんな物に興味を持たれるのですな」

 老人は、壁からサズを外した。

「ええ……まぁ」

「良かったら弾いてみますか? ……と、これは」

 サズの胴に積もった埃に気づいた大臣は、ハンカチを取り出してそれを払い落とし笑顔で差し出した。

「さ、遠慮なく」

「……いいの、ですか?」

 神崎は、胸の中を見透かされた気もしたが、微かによぎる不安は、それを奏でられるという喜びの前にかき消えていった。

「では……」

 グラスを近くのテーブルの上に置き、震える手で老大臣からサズを受け取った彼は、懐かしさからそれを抱き締めてしまった。

(ああ……、もうどれほど触っていなかったろう……千年?)

 老人は、目を細めながら彼を見守っていた。

 すぐに気を取り直した彼は弦に挟まったピックを抜き、バラン……と弦を軽くはじいた。弦の音に、近くにいた数人の客が振り返った。それには見向きもせず、左手で若干チューニングを合わせ、不安を払うように、息を深く吸い込んだ。

 神崎の脇の下には今、空のホルスターがぶら下がっている。宴会場に入る前、受付に銃を預けていたのだ。演奏中は動きづらいので上着を脱ぎたかったのだが、このような場所で無粋な物を見せることもなかろうと、上着を着たままサズを弾くことにした。そして伊達眼鏡も外し、ワイシャツのポケットに差し込んだ。

 宴の中心には、いつの間にか老大臣が異国の青年のために椅子を据えていた。宴の客も何かの余興か、と椅子の周囲に集まってきた。


 神崎は老大臣の手招きで椅子の前に立ち、周囲に一礼をして優雅に座った。足を組み、サズの胴を太股の上に載せる。かつて何百回も何千回もやった段取りを、流れるように。

「皆様、どうぞ一曲お付き合いを……」

 彼は九つの弦を複雑に掻き鳴らし、いにしえの曲を奏で始めた。遠い時代にキャラバンと旅をしながら、何度も奏でた、方々で謳った調べ。それは千年以上も昔に弾いたきりだったが、体は覚えていた。かつて『彼女フラウ』を伴って、この王宮にやってきたことも。

(今になって、ここで再び吟じるとは……皮肉だな)

 かつて吟遊詩人だった彼の手から紡ぎ出される調べに、場内が水を打ったように静かになった。彼は九弦全てを自在に操り、緻密なモザイク画のように複雑な拍子のメロディを奏で、川の流れの如く朗々とうたを謳う。

 かつてこの王宮で謳われた、吟遊詩人たちの類い希なる技巧から紡ぎ出される、失われし珠玉の楽曲そのものだった。

 それもそのはず。

 彼は本物の吟遊詩人・・・・だったのだから。

 そして彼の透明感のある歌声は、宴会場の隅々まで響き渡り、来賓たちの耳を通して体に染み込んでいった。それは彼の声が澄んでいたからなのか、人ならぬ者の声故か、謳う彼自身にも分からなかった。

「おお…………アーシェクよ……」

 老大臣が呟いた。

 砂漠の民の言葉で、吟遊詩人アーシェクという意味だった。地元の長老達の中には、涙を流している者もいた。

 民族音楽に興味のなさそうな白人のエージェントや日本の役人たちでさえ、彼の紡ぎ出すペルシャ絨毯のように緻密な調べと、澄んだ歌声に真剣に聞き入っていた。


 一曲謳い終えた神崎は、満足げな顔で立ち上がると、来賓に深々と礼をした。同時に場内から拍手喝采が起こった。白人たちは「ブラボー」と叫び、老人たちからは「アーシュクよ!」「アーシェクがおいでになった」と賞賛の声があがっていた。その後、日本の外交官たちが地元の来賓たちから「日本では吟遊詩人を育成しているのか?」と、質問攻めにあっていた。

 しかし、当のアーシェク本人は。

(日本にいる吟遊詩人は、皆ゲームの中に住んでいるのさ……)

 などと自嘲していた。実際、彼がゲームの中で吟遊詩人をプレイしたことは少なくなかったのだ。主に支援役として。

 思いの外、来賓に演奏が「ウケ」てしまったせいで、この後困ったことにならなければいいが、と神崎はいささか心配になってきた。実際、今まで空気扱いだった神崎は、いきなり地元の有力者や政府関係者の人気者になっており、さきほどのプロモーションの効果は絶大だったと分かる。

 いつの間にかこの国における立ち位置が当人の預かり知らぬ所で、VIPに限りなく近い位置にまで持ち上げられていた事に、神崎自身、全く気づいていなかった。それほどまでに、彼等の民族の間では、吟遊詩人=アーシェクという存在は偉大だった。神崎当人の認識では「大昔の話」だとばかり思っていたようだが。

(面倒事になる前に、退散するか……)

 チヤホヤしてくる老人たちをいなしつつ、ネックをハンカチで拭いて、サズを壁に戻そうと席を立ったとき、さっきの老大臣が声をかけてきた。日焼けした顔が喜びに輝き、畏敬の念の籠もった眼差しを、真っ直ぐ神崎に向けている。

「どうして貴方は、こんな古い言葉や詩をご存じなのですか? アーシェクよ」

「昔の友人が教えてくれました」

 少し照れながら、それだけ答えた。本当のことなど、言っても信じる者などいない。確かに自分はかつて、この国で本当に『アーシェク』と呼ばれていたなんて。

「我々から失われかけている文化です。生きているうちに聞けて本当に良かった。ありがとう。ありがとう」

 老人は彼の手を両手で握り、目に涙を浮かべて感謝の意を表した。

「喜んで頂けて、なによりです」

 神崎は、はにかみながら言った。

 話している二人の前に一人の男性が歩み寄り、神崎に声を掛けた。中年、というよりも壮年といった方が相応しく活力に満ちている。スーツを着てはいるが、確かにこの国の男性のようだ。

 そういえば、さっき演壇で挨拶をしていた――。


「素晴らしい詩だった。……君の名は?」

 彼は楽器を小脇に抱え、その男性――新大統領にうやうやしく礼をした。

「GBI社の神崎です。今後ともお見知りおきを」

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