一八六七年 早春
男が一人、小舟を見送っていた。
亡者の国への渡し船、過去幾度も見送った。
男の佇む河辺には草一本生えてはおらず、ただ骨を砕き敷き詰めたように白い砂利だけが広がっている。河辺は左右どこまでも果てしなく続き、岸の彼方は灰色に濁って霞み、渡し守の他に彼我がどれほど離れているのか伺い知ることは出来なかった。
日暮れも夜明けもない、薄曇りのこの場所に風はなく、重く湿度を含んだ空気が辺り一面に満ち、雨の前触れを思わせる埃っぽい川砂の匂いと、それが唯一の生命を感じさせる少し生臭い水の匂いが混ざり合って、その場に居る者に纏わり付いていた。
――気を抜けば、河面に絡め取られてしまいそうな。
陰鬱として、真綿でゆっくりと潰されるような、ここは、
男の年の頃は二十五、六。
濡れた鴉の羽のような長めの黒髪と切れ長の目に、澄み切った深淵、或いは黒曜石の玉のごとき瞳を持っていた。
彼の顔は諦念に覆い尽くされ、悲しみはその下深く折り重なるよう沈んでいた。
――何層も、何十層も、何百層も。何千層も。
どんよりとした空を映した灰色の河面に、ただ
古い木製の渡し船の客は、女が一人。
背を丸め、膝を抱え、俯きながら座っている。
長い髪を垂らし、その顔は伺い知ることが出来なかった。
――それは、男の妻だった。
何かの気配を感じたのだろうか。女はちら、と岸辺を振り返った。
が、生者である夫に気付くことは出来ず、再び俯いた。
――その女は、亡者だった。
櫓の音とともに遠くなる小舟を、男は唇を噛んで黙って見送った。
小舟が霧に隠れ、見えなくなるまで立っていた。
見えなくなっても、ずっと立っていた。
男は霧の彼方に向かって呟いた。
「ずっと君を待っている……フラウ」
男は、妻と暮らした日々を、一つ一つ思い出していた。
男はどのくらいそこにいたのだろうか。
丸一日?
丸一週間?
それとも、たったの一時間だったのだろうか?
そもそもこの河原には、最初から時間など存在したのだろうか?
男には時間の感覚がなかった。
男が気づいた時には向こう岸から、いつのまにやら渡し守が戻って来ていた。不思議と砂利を踏む音は聞こえない。
「なんだ旦那、まだいたのかい?」
ボロを纏った渡し守が、男に向かって親しげに声をかける。
「分かっているだろう? お前の帰りを待っていたんだ。……ほら」
と男は渡し守に新聞紙で雑に包んだ土産を手渡した。
フランス語で書かれた紙面には、華々しく幾度目かのパリ万博の記事が踊っている。西暦一八六七年、大日本帝国が出展した最初の国際博覧会だった。
渡し守は、節くれ立つ汚れた手で、その包みを当然のように受け取ると、彫りの深い皺だらけの顔を子供のようにほころばせた。
「いつも済まないねぇ、旦那」
ニヤニヤ笑いながら渡し守は言った。彼は、こうして男から包みを受け取るのが
「済まないなんて、毛程も思っていない癖に……」
男は吐き捨てるように言うと、さらに言葉を続けた。「それで……何時なんだ?」
渡し守は早速紙包みを開き、チョコレートを摘まみつつ、男に答えた。
「そうさな……、次は一世紀だな。場所は……東洋の、日本という国でさぁ」
「百年……、か。それが長いのか短いのか……」
男は、口の端だけで笑った。
「旦那、これで何千回目でしたっけ? ……いい加減おやめになったらどうでさぁ」
口をもごもごさせながら、渡し守が更に続けた。
「たかだか数十年、女と一緒に暮らすためだけに、毎度毎度、何百年も待つなんてぇことは……」
全く同じ台詞を、渡し守は幾度男に向かって投げただろうか。
男は、俯きながら呟いた。
「でも……それが一万二千年前に交わした、
生き続ける限り、何時までも、何度でも待っている。そう、男は約束した。
何度冥府に行っても、何度でも必ず舞い戻ってくる。そう、女は約束した。
かつて男は眼前の冥府の川の一つ、ステュクスに誓いを立てた。
オケアノスが神の一柱、ステュクスに誓う約束は、決して違えることを許されない。たとえそれが神であっても。
男はその場に座り込んだ。
やっと自分が疲れていることに気づいたのだ。
「でも旦那、それってもう『呪い』なんじゃねぇのかい?」
男は、はっとして顔を上げた。
「呪い……。そう、かもしれない。でも……俺は…………」
「旦那、儂にゃぁ、あんたの魂が擦り切れてるのが見えるよ」
「わかってる。でも、仕方ないじゃないか……この流れに誓ったのだから」
そう答える男の声は、掠れて霧の中に散っていった。
それは、人でもなく、亡者でもない、
ここは、