午前11時少し前、大きな銀色のワンボックスがやってくるのが見えた。それが西三丁目公園の横で止まって、助手席から女性が一人降りて走ってくる。どうやら東京MPテレビが到着したようだ。
俺は体に変な力を入れないように、そろそろとパイプ椅子から立ち上がった。
「腰か?」
俺のそんな様子を見て杉村のおっちゃんが聞く。おっちゃんには家で階段を踏み外したと話してある。蹴られたのは腹と胸で、顔は無事なのが幸いだった。
「一番痛いの、背中」
「おはようございまーす! 空吹さんですかー?」
走ってきた女性が大きな声で言った。ワンボックスに案内されてスライドドアが開くと、最初に目に入ったのはりりんの顔だった。
「おはようございまーす。今日はよろしくお願いしまーす!」
りりんがにこやかにそう言って、ちょっと頭を下げた。でもその目は気遣うように俺を伺っている。
「おはようございます。東京MPテレビ、アナウンサーの塩原です。今日はよろしくお願いいたします。こちら、案内をお願いしている輝沢りりんさんです」
「あ。よろしく、お願いします」
俺は、まるで初めて会ったかのようにぎこちなくりりんに挨拶した。ワンボックスは近くの駐車場に移動して、そこで昼食を食べながら打合せ。『ロケ弁』と言うのだろうか、崎陽軒のシュウマイ弁当だった。
『こちら牧原容疑者、本名安田雅道容疑者が留置されている代々木警察署です。槇原容疑者は薬物の使用を認めているとのことで、明日にでも検察庁に身柄を送検される見込みです』
『牧原』の名前で俺は箸が止まってしまった。車内のモニターではワイドショーのニュースが流れていた。
『牧原雅道薬物所持で逮捕』と派手なテロップが出ている。
『牧原の伯母さんがなぁ、お前ら片付けろって言ったんだ』
ゆうべ、ダンジョンの中で有藤さんが言った言葉を思い出した。この事件はゆうべの出来事と関係あるのだろうか。たぶん、あるのだろう。
「うち、牧原雅道出てるレギュラーあったっけ?」
「ないですね……でもこれ、牧原理恵子さんも煽りくらいますねー。そっちの方が絶対やばい」
撮影のスタッフさんたちが話しているのを、俺は上の空で聞いていた。前の席にいるりりんからメッセージ。
『昨日のことと関係あるのかな?』
りりんも同じ疑問を感じているのだろう。
『あの3人がクスリ持ってたんじゃないかな?』
完全な想像だけど、たぶん誰もがそう考えるだろう。
『皆様にはたいへんご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ございません。責任を痛感しております』
その、牧原理恵子さんの記者会見も流れた。槇原敬之が逮捕されたことと、ゆうべりりんが攫われそうになって俺が蹴られたことにどんな関係があるのだろうか。
気が付くと、シートの隙間からりりんが俺を見ていた。目が合うとりりんが小さく頷いた。何だかわからないけど、俺も小さく頷き返した。
エリカが目を覚ましたのは午後2時過ぎで、帰ってきてそのままベッドに倒れこんだのでひどい有様だった。シャワーを浴びてから、昨日のガサ入れがどうなったのかテレビを点けてみた。
ワイドショーはどこも『牧原雅道薬物使用で逮捕』の文字が並んでいる。どうやら牧原雅道は薬物まみれだったようだ。そのうえ半グレグループとの関係までが明るみに出てしまったのでは、もうタレントとしての生命は終わりだろう。
街頭のインタビューでは女性たちが悲鳴を上げていたが、エリカは別にファンでもないから何とも思わなかった。
「どーんーなぁー、言ぉー葉ぁがぁ、あなたに、伝わーる……」
つい歌って、エリカは口を閉じて渋い顔になった、これはりりんがよく口ずさんでいる歌だった。
『りりんに対抗意識燃やしてどーすんの?』
自分をたしなめながらアイスコーヒーを飲んで、局から何か指示が来ていないかメールをチェックした。
何も指示は来ていないが、昨日から今朝にかけての行動詳細報告を早めに出しておかなくてはならない。
「それにしても……」
エリカは不機嫌そうにつぶやいた。いつの間に圭太と輝沢りりんはあんな関係になったのだろう。
他人を守るために自分を投げ出すなんて、簡単にできることじゃない。普通の女の子であれば、あんな場面では震え上がって身動きもできなくなるはずだった。
『あたしだったら……どうしただろう?』
あまり意味のあることではないが、どうしてもそんな考えが球の中を通り過ぎる。
「離れて……やっぱりツブテ打って、それで片付けるか」
どう考えてもりりんのような行動はとれない。あれでは、下手をすれば二人とも犠牲になるだけかも知れないのだ。
「若さかな……」
それとも純粋さ、あるいは経験不足か。どうであれ、りりんがやったことはとても最善とは言えない行動だった。
幸い有藤が出てきてくれたから良かったものの、あのときエリカは3人をツブテで倒す覚悟を決めていたのだ。一人を一発で倒すためには頭を狙うしかなく、最悪死なせてしまう危険も承知していた。
しばらく無意味な考えにふけってから、エリカはため息をついて立ち上がった。狭いキッチンに行って冷凍のクロワッサンを出してレンジに入れ、冷蔵庫をあさって真空パックのハムとチーズを取り出した。
解凍した熱いクロワッサンに切れ目を入れて、ハムとチーズを挟み込んだ。
「荒んでるなぁ……」
ここ数日片づけをする時間もなく、荒れ放題になっている部屋の中を見回してエリカはつぶやいた。流しにはビールやチューハイの空き缶がたまり、クリーニングに出さなくてはならない衣服がベッドの脇に積みあがっている。
そのうち母親が様子を見に来て、雷を落とされることは間違いない。
「早く嫁に行けって言われたってさ……」
関東厚生局に脈ありな男性がいるにはいるが、彼と結婚しようものならエリカは絶対家庭に縛り付けられる。今でもエリカの意向などおかまいなしで、勝手に好意を押し付けてくるのだ。
そんなことを考えていると、当の水谷主任からメールが来ていた。
『至急に相談したい件あり。できるだけ早く来庁されたし』
早くもあの3人の口から重大な何かが飛び出して来たのかもしれない。もしかすると牧原雅道かも知れない。
「今日の夕方か明日なら」
そう返信するとすぐに『明日の午前10時』と返ってきた。よほど急を要することなのだろう。
それと同じ頃に、新宿西口にあるマンガ喫茶では、牧原雅道の元マネージャーである有藤肇が同じようにワイドショーの画面を眺めていた。
「身から出たサビってやつだよ。いろいろ依存のボンボンが……」
たぶん芸能関係の記者も有藤を探してコメントを取ろうとしているだろう。だが有藤は牧原雅道の私生活には関わっていないし、初台のマンションには数えるほどしか入ったことがない。辞職しているし話すことなど何もないので、面倒だから身を隠しているのだ。
「まあ放っといてもこうなっただろうけど……りりんに手を出そうとしたせいで、二人とも盛大な自爆になったねぇ。まあ、天罰だ」
留守電とメールであふれかえっているスマホの画面を眺めて、有藤はふとひとつの番号に目を留めた。いろいろ協力関係にあった牧原理恵子のマネージャーだ。
「もしもーし。鳥井さん? 有藤ですけど」
たぶん理恵子の命令で探しているのだろうが、全く連絡をつけられないでいると理恵子に鬼当たりされる。それでは気の毒なので、一度だけ連絡をつけてしてやることにした。
『ああ……有藤くん。君、上手いこと逃げたねぇ』
弱々しい声だった。四方八方から責め立てられているのだろう。
「お疲れ様です。暴風まっただ中ですか?」
『いや、僕も圏外になったよ。今しがた半狂乱になった理恵子さんにクビを言い渡されたんだ。もう誰も信用できなくなってる。理恵子さん、当面活動自粛だな』
ほとぼりが冷めるまで首を引っ込めているつもりなのだろう。これで輝沢りりんは安全になったわけだが、有藤はまだ腹の虫が治まらなかった。
「鳥井さん。俺、理恵子さんからね。ボンボンが輝沢りりんに手を出そうとしてるから気をつけろって言われたんだよね。これ……何か裏があるの?」
鳥井のため息が聞こえた。
『ああ……大ありだよ。次のDQコミュニケーションのCM、理恵子さんじゃなくて輝沢りりんが起用される予定なんだ』
「ほおー。なるほどねぇ……」
有藤の頭の中で、ごちゃごちゃしていたパズルの断片が一瞬でぴたりと納まった。
しかし超有名どころの牧原理恵子からタレントとしては『その他』レベルの輝沢りりんに替えるとは、DQは何を狙っているのだろうか。
「すると、コトの起こりは伯母さんで。手を下そうとしたのがボンボン?」
『彼に直接指示したわけじゃないだろうけどね。雅道のマンションには理恵子さんの付き人の女の子が入り浸ってたし、その子が漏らしたんじゃないかな? ボンは、女は若いほどいいって趣味だろ?』
「まあね……実はね。ボンのマンションをマトリが張ってるの気がついてたんだ、りりんの件を口頭で伝えようとしたら雰囲気がおかしかったんでね。見てたらボンにまとわりついてる半グレが3人出てきて、マトリに尾行されたんで俺もついて行ってみた」
『おいおい……それヤバイよ』
「あれじゃもう手遅れで、ボンに警告するより逮捕された方が良いって思ったんでね。やることもないから、それで。その3人がね、立川にあるダンジョンに入って、そこにいた輝沢りりんを襲った」
『えっ! それで、どうなった?』
「輝沢りりんを
『良かった……これ以上余計なトラブルは嫌だよ。止めてくれてありがとう』
半グレの三人は、牧原雅道に暴行を加えた理由を自供するだろう。意志の弱い雅道は、輝沢りりんを拉致するよう三人に依頼したことを認めるかも知れない。
だがたぶん検察は、そんなささいなことは公表しないだろう。それでは一番責任が重い『伯母さん』に対する罰がぜんぜん足りない。
有藤は、牧原理恵子に致命傷を喰らわせてやらないことには気が済まなかった。
「鳥井さん、これからどうするの?」
有藤の頭の中で、様々な計画が動き始めていた。
『失業保険貰いながら少し休養して……僕は役者を志望していたけど諦めて、劇場の舞台スタッフをやる気でいたんだ。芸能界はもう嫌だからどこかの劇場に入れないかやってみるよ。君は?』
「何も考えていない、なんとかなるさでここまで来たんだ。もう芸能界には関わりたくないけどね……ねえ、DQがらみのネタ。リークしていい?」
『まあ……ボンボンに漏れて半グレに喋ったんじゃ、もうどれだけ拡散したか知れたものじゃないな。僕の名を出さないならかまわないよ』
「ありがとうございます。輝沢りりんを潰そうとしたのは許せないんで。俺、
ビールでも頼んで祝杯を上げたいところだが、これからやることを考えると酒気帯びでいるのは避けたかった。
「こーゆうのは、話題が熱いうちに使わないとね」
有藤はちょっと考えて、知っている週刊誌の記者にメールを送った。
『牧原雅道と牧原理恵子の件、もう一枚裏の事情があるのだが。興味あるか?』
「りりんちゃんには迷惑なことになるかも知れないけど……まあ彼女は100パーセント被害者だからな」