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第五章 第6話「邪淫の爪」

「義姉さん。ちょっと聞いたんだけど、輝沢りりんってアイドルをツブすんだって?」

 牧原理恵子はスマホから聞こえてきた声に顔をしかめた。夫の兄弟の末っ子、雅道まさみちだった。

 牧原理恵子の甥であることを利用して高校生のころから女性に手を出してはもめ事を起こし、俳優になってからも2度不倫騒動を起こして離婚されていた。何か起こるたびに、理恵子や夫が駆けずり回ってもみ消しているのだ。

妃奈ひなから聞いたの?」

 雅道が理恵子の付き人の一人に手を出していることは知っていた。この話が漏れるとしたらマネージャーか付き人だが、たぶん付き人の妃奈が喋ったのだろう。あとで締め上げておかなくてはいけない。

「いやぁ……どこかから聞こえてきたんだよ。ねえそれ、僕にやらせてよ」

「だめよ!」

 ただの小娘になった輝沢りりんをペットにでもするつもりなのだろう。雅道は若い娘好みで、いつ未成年者に手を出して逮捕されるか。理恵子はいつも胃がちぎれるほど心配していた。

 輝沢りりんは高校生ぐらいにしか見えないが、19歳だから青少年保護法にはひっかからない。だが雅道がオモチャにして妊娠でもさせたら、また大きな面倒を抱えこむ。

 もし雅道が既婚者であれば不倫騒動で輝沢りりんにもダメージだが、雅道は浮気を理由に離婚されているのでただの芸能人交際ネタになってしまう。それではりりんにとってたいしてダメージにならないだろう。

「大丈夫。輝沢りりんに直接何かするほどバカじゃないよ」

 おかしなパーティーに引きずりこんで、酒でも飲ませるつもりなのかも知れない。

 りりんには致命的なスキャンダルにはなるが、あのだらしない女好きがそれだけで終わるだろうか。この件について理恵子のマネージャーからはまだ何の報告もない。

「輝沢りりんに手を付けたらダメだよ!」

 輝沢りりんは父親も誰だかわからない女だ。母子家庭で中学生まではろくに食べることもできない極貧家庭だったと自分で言っているくらいで、たとえ遊びだとしても甥の相手には全くふさわしくない。

 きつく念を押したが、それでも理恵子は不安だった。雅道がどうやら違法薬物に手を出しているらしいと聞かされていたのだ。家宅捜索でもされたら何が出てくるかわかったものではない。手にしたままのスマホで電話をかけた。

「あたしだよ。雅道が輝沢りりんってアイドルにちょっかい出そうとしている。雅道が面倒なこと始めないように目を離さないでおいて」

 理恵子は雅道のマネージャーに釘を刺しておいた。今のところ取れる手段はこれしかない。


「さてと……」

 初台のマンションで雅道はスマホを置いてソファに横になり、大型ディスプレイに見入った。そこには3年前の楡坂にれざか46、輝沢りりんが所属していた選抜チームの映像が映っていた。クラブチッタのライブ公演で、『悲しいインビテーション』のヒットで楡坂の人気が急上昇した頃だった。

「小っちゃくて、可愛いよね」

 『ちんちくりりん』とあだ名されていたほど、メンバーの中でりりんは頭半分以上小さい。だが小ささを補うように大きく動くので、ステージではひときわ目立っている。

 雅道はスマホを取り上げ、しばらく考えてから誰かにかけた。

「トシぃ? ちょっと来てくんない? 頼みたいことあるんだ。あんま時間ないからさ……女の子ひとり、引っ張ってほしいんだ。うん……手はあった方がいいね。うん。じゃ」

 一時間もしないうちにチャイムが鳴った。

「有藤ってやつだったら入れてやって」

 お手伝いさんに案内されてきた3人はだらんとしたハイストリート系の恰好で、それなりに金がかかっているのは何となくわかる。なのに何かガサガサした気配を漂わせているのが雅道には苦手だった。

「輝沢りりんって知ってる?」

 雅道が、大型ディスプレイの中で跳ね踊るりりんを顎で指しながら言った。

「ガキじゃん」

 一人が薄笑いを浮かべながら言った。

「あれは3年前のだからね、今はこんな」

 数日前にバラエティのゲストで出演していたりりんがストップモーションで映された。アイドルの衣装ではない今のほうが、何となく幼さが際立っているような気がする。

「トシ、この子のタレント生命ぶった切って。明日、立川の西三丁目公園ダンジョンってところでロケやるんだって。その帰りにでも引っ張って、酒でも飲ませちゃってよ」

「いくら?」

 トシと呼ばれた有藤が言った。

「一本」

「三本。どーせ後でここ連れてこいってンだろ?」

「元アイドルだけど、今はザコタレだよ。二本だ」

「まあ、いいだろ。明日、何時?」

「たぶん人が少ない朝から始めるはずだよ。今から行って場所を確認した方がいい」

「ガキの使いじゃねーんだぞ」

「頼むよ」

 雅道は、手に持っていた雑誌社の封筒をトシに押し付けた。封筒の厚みを確かめると、トシはそれを無造作にジャンパーの中に押し込んだ。

「行くぞ」


 御崎エリカは京王線初台駅の南口を出て、歩いて5分ほどのとあるマンションの近くで足を止めた。

 SNSで決められた合図を送る。情報漏れの危険性が高いラインではなく、データが保存されないシグナルというSNSだった。

 数分してやって来た女性の捜査官から状況説明と申し送りを受けて、エリカは受け持ちの位置に付く。

 違法薬物使用現場の内偵だが、普通はこんなに時間と人手は割かない。家の中にあると確定できたら捜査令状を取って家宅捜索に踏み切ってしまう。

 この件でそれができないのは相手が芸能人であることと、容疑者の部屋に人の出入りが多いからだ。張り込み以外にも必要な捜査員が多く、エリカまで応援に引っ張り出されることになった。

「マルHe(被疑者)ザイ(在宅中)ナカ、ダン三本(3人連れの男が中にいる)」

「了解」

 申し送りを聞いた直後に、そのマンションから男性3人が出てきた。

「今3本。ナカイチ」

 マンションの入り口を張っている捜査官から全員にメッセージが送られた。派手なジャンパーに毛糸の帽子、ジャージのような素材のパンツ。見た目に素行が悪そうな男たちだった。その3人のうち一人は昨日も来たと言う意味だった。

「引っ張り?」

 エリカがメッセージを送る、「尾行しますか?」の意味だ。現状ではエリカが一番動きやすい位置にいる。

 指示を待つ間、エリカは数歩移動して3人の姿を視界に捉え続けた。『行って』とリーダー役の女性捜査員が手で指示したのを見て、エリカは速足で3人の尾行を開始した。


 俺との約束は午後2時だったのに、りりんが工房にやって来たのは3時半を回っていた。

「ごめんなさい!」

 りりんが90度に体を折って頭を下げた。

「収録、押しちゃって……」

 予定の時間をオーバーしてしまったと言うことらしい。

「今から入ったら……エリア13でも出てこれるの、7時過ぎるぞ」

「どーしても。今日のうちに確かめておきたいんです」

 それはこのあいだりりんに聞かされていた。明日はニュースバラエティのロケがあって、りりんがリポーターを連れてこの西三丁目公園ダンジョンの中を案内するのだ。俺は万が一の危険に備えて、カメラに映らないようについていくことになっている。

 りりんは、前に日影沢ダンジョンでやった「スライム溶かし」の声がここでもできるのかを確かめたいと言う。あまり気は進まないが、そば6人前を出前してくれたのでつき合ってやるしかなかった。

 でも考えてみたら輝沢りりんが手打ちしたそばを食べた人間なんて、家族以外では俺だけかも知れない。

「できるだけ、サッと行ってサッと出てくる」

「あ、すいません。着替えさせてください」

 道理でキレイすぎる格好だと思った。俺は『上下ジーユー』に着替えたりりんを後ろに乗せて、自転車で西三丁目公園ダンジョンに向かった。

「ねえ、りりん……」

 背中にくっついているりりんの体温を感じて、俺は鼓動が速くなっていた。

「はい」

「いや……いい……」

「何ですか? 言うの途中でやめないでくださいよー」

 恥ずかしくて言えなくなってしまった。お昼の差し入れ持ってきてくれて、こうして自転車の後ろに乗ってくれて。いったい俺とりりんはどんな関係になるのか。

「ねえ!」

「いてっ!」

 背中をつねられた。

「いや……こんな、様子、見られたら。俺と、りりんって……何だと思われる……かな?」

 いきなり『ぴたっ』とりりんが俺の耳元に顔をくっつけてきた。

「きっとみんな『カ・レ・シ』だって、思いますよぉー」

 耳の穴に息がかかるほどの至近距離でりりんが言う。

「えっ……それは……」

「イヤですかぁ?」

「いや……あ、あ……イヤじゃなく……」

「どっち?」

「うわ! うわ!」

「きゃーっ!」

 動揺して自転車がよろけた。

「今からかい? どこまで?」

 やっぱり、入り口で杉村のおっちゃんに訊かれた。

「13……かな」

「ああ? それじゃ、出てきたとき俺はもういないぞ」

「出たらメール入れます」

 りりんが笑顔サービスで杉村のおっちゃんに手を振る。エリカにすら愛想を崩さないおっちゃんが、笑って手を振り返している。これもりりんのスキルなのだろうか?


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