輝沢りりんの実家は、高尾山ケーブルカーの清滝駅近くにある『蟹沢屋』というそば屋を営んでいる。だからりりんの本名は『
週に一度、忙しい土日のどちらかは店を手伝うことになっていて。客席からレジから洗い物まで、手が足りないところは何でもやらされる。
そのうち『そば打ち』もやることになるだろうとりりんは思っていた。まかないのそばを打ってOKをもらったのだから、いずれ調理方の仕事も任されるかも知れない。
りりんは実家を手伝うために、
ケーブルカーの駅に面した『そば打ち実演コーナー』はここ数年使っていなかったのだが、どうやらまた始めるらしい。『りりんのそば打ち』と宣伝すればそれなりの客は見に来るだろう、店で食べてくれるかどうかまではわからないが。
洗い物をやっている間に仕事用のスマホに着信があったが、かけ直すことができたのは2時間後に大急ぎでまかないかき込んでからだった。
「あ。お世話になってます、輝沢りりんです」
相手が誰であろうが、こっちのスマホにかかってくる電話は仕事の関係しかない。どうしても仕事をもらう低姿勢になってしまう。
『あー。折り返しありがとうございますー、東京MPテレビADの来島と申しますー』
東京のローカルテレビ局だった。
『お電話させていただいたのは、先週にちょっとスケジュール確認させていただいた件で。来週の18日って、まだ大丈夫ですか?』
りりんはあわててプライベート用のスマホを取り出してカレンダーを開いた。電話をもらったことはもう忘れていたが、確かに『東京MPなに?』とメモしてある。
「あっ……はい、開けてあります。この、一日でいいんですよね?」
『ありがとうございますー! 帯でやってる「まいにち!よじごじ!」のコーナーで東京話題のおっかけ隊というのがあるのですけど、今度都内のダンジョンを取り上げるんです。それで、輝沢さんにリポーターの案内をお願いできたらと思いましてー』
「はあ?」
プライベートでダンジョンに潜るタレントなんて、りりん以外には『ダンジョニスト』を名乗っている芸人くらいしかいない。その人は割と芸歴も長いしそこそこ知名度があるからギャラもそれなりで、東京ローカルでは予算的に厳しいのだろう。
りりんのギャラは出演1本10万円行くか行かないかで、在京のタレントとしては最低レベルだ。地方の局に呼ばれるとギャラと交通費が同じくらいだったりすることもある。りりんは芸能事務所に所属していないので、それがまるまる手取りになるだけまだ良い方だ。
そんな事情は別として、次の日にりりんは皇居のお堀を見下ろす東京MPテレビまで打ち合わせに行くことになった。
応接室でも会議室でもない制作局の片隅にあるテーブルで、りりんは番組のディレクターとリポーターに会った。りりんにとっては、これが普通の扱われ方だった。
「輝沢さんのユーチューブが最近話題になっていてダンジョン探検が注目されているので、ぜひ番組でも取り上げてみたいと企画会議に上がって来ましてね。それでお話を聞きたかったんです」
ヒゲのディレクターは愛想良くそう言ったが。ダンジョンのことを何も知らないのだろうと、りりんは気が重くなった。それにまだ企画会議で
「ダンジョンは……あたしがやったみたいに。ダーッて走る抜けることができるのと、気をつけていないと死ぬかも知れないところもあります」
「そんなに、危険なんですか?」
リポーターの女性が言った。りりんよりいくつか年上だろうけど、そんなに離れていない感じだ。大学を卒業して、入社一年か二年目のまだ若手と言うところだろうか。
「私が走ったダンジョンでは……今はほとんどモンスター出ませんけど、何年か前までは入ったきりで出てこない人が何人もいたそうです」
りりんが言うと、ディレクターとリポーターが顔を見合わせた。
「田垣部長は、そんなこと言ってなかったよね?」
「地中迷路の探検だっておしゃってましたし……事故のこと、知らないんじゃないですか?」
二人とも一気に不安そうな表情になった。やっぱりダンジョンについて何も知らないようだ。
「今は、どうなの?」
ヒゲの中をごしごし掻きながらディレクターが聞いた。
「立川の西3丁目公園ダンジョンは、エリア13までならほとんどモンスター出ません」
「輝沢さんが走ったのも、そこ?」
「はい」
二人はまた顔を見合わせた。
「じゃ……そこのことだけ見て言ってるんだ」
「尺(放送時間)、どれだけですか?」
りりんが聞くと、ディレクターは進行表をめくった。
「コーナー全体が10分で、中のVTR5分。輝沢さんには生でスタジオにも出てもらう予定」
5分でどれだけの内容を伝えられるのか、りりんはちょっとだけ頭の中で画を描いた。
「入って……何もなしで出てきても、面白くないですよね?」
「あまり危険じゃないモンスターと遭遇ぐらいは欲しいね」
「えー? それは恐いですー」
笑いながらリポーターが言った。でも特大のダンゴムシなんか見たら気絶するかも知れない。
「エリア13の先まで潜れば、何かには会うと思いますけど。保証はできません」
スライムは、うっかりすると見落としてしまうような地味なモンスターだ。でも実際には人間を呑み込んで消化してしまう危険な敵だ。日影沢のダンジョンでスライムを破壊したあのスキルがもう一度できるかどうか、りりんはぜんぜん自信がなかった。
「それに、出会ったら危険なモンスターもいます。スイーパーって言う、モンスターを退治できるガイドがいた方が安心です」
「それは……どこに頼めばいいの?」
「私が連絡先知ってます」
打ち合わせを終えたりりんが帰って行くと、ディレクターのところに芸能プロダクションの営業担当が寄ってきた。
「栗林さん、さっき来てたの。輝沢りりんですよね? 何に出るんです?」
「ああ。よじごじのおっかけ隊で、今度ダンジョン取り上げるの。彼女ほら、ユーチューブでダンジョン入ってるじゃない。塩原ちゃんがリポーターで、りりんちゃんにガイドやってもらう予定」
「え? それ、いつ?」
「明日の定例で決まるけど、GO出たら来週18日」
営業として担当する局のディレクターとは親密な関係を作っているので、つい彼らも口が軽くなる。
「ロケ、どこで?」
「なに。あんたのとこの誰かねじ込む気? そんな予算ないよ」
「いやー。単にダンジョンっての、一度ナマで見て見たいって思って」
「りりんちゃんのお奨めは立川の西3丁目公園ダンジョンだって。時間的には厳しくても、安全性とか考えたらそこしかないって」
「へぇー」
芸能プロの営業担当は、すぐにそれをメールで送った。送った先は、りりんにDQコミュニケーションのCMを横取りされそうな女優『牧原 理江子』のマネージャーだった。
高尾山口にある実家のそば屋はわかっていたが、さすがにそこでりりんに手を出すことは不可能だった。
それにレギュラー出演を持っていないりりんは、いつどこの局に現れるか知る方法がなかったのだ。各局に常駐している営業にアンテナを張らせる以外に手段がなかった。
マネージャーは、すぐに牧原理江子に注進した。
「東京MPの、よじごじ?」
ドラマの撮影で戦国女将の格好をした理江子は不機嫌そうに言った。
「そんな番組までダンジョンに食いつくの? 穴の何が面白いのよ」
重量がある戦装束をがちゃがちゃ鳴らしながら理江子はスツールに腰を下ろし、付き人が差し出したアイスティーをストローで飲んだ。手甲つきの手袋をはめていては、ろくに物もつかめないのだ。
「場所と時間がわかったんだから、あとは任せるよ。局アナも事件に巻き込んじゃえば、もう輝沢りりん使おうってとこなくなるでしょ」
そう言って理江子は戦国の女将軍らしく不適な笑みを浮かべた。