都営新宿線の九段下駅を出て、御崎エリカは一ツ橋の方向へ少し歩いた。皇居のお堀が見える千代田区役所の建物、九段の第3合同庁舎に入る。受付で用紙に氏名と電話番号、そして訪問先に印を付けなくてはならない。
エリカが丸をつけたのは『関東甲信厚生局』だった。入館バッジを貰ってエレベーターで17階に上がり、受付の内線電話で到着を伝えた。
「御崎エリカと申します。水谷主任に定例報告で参りました」
『受話器を置いてそこでお待ちください』
数年前まで自分がいた、窓から首都高速道路が見える机。今は誰が使っているのだろう。すぐに主任の水谷がやってきて、手で合図してエリカと一緒に会議室に入った。
「立川市の
一通り報告書に目を通すと、水谷主任がエリカに聞いた。
「誰も現場に近づくこともできません。お寺なのに、それ自体が異常なことです」
エリカが言うと、水谷主任は書類越しに難しい表情でエリカを見た。
「確かに異常であることは間違いない……でもそれだけでは踏み込むわけには行かないよ」
「まあそうでしょうね……なので、正面からじゃなく裏から行こうと思ってます」
「裏?」
「不自然に閉鎖されているお寺の霊園にはダンジョンがあります。パックがあるとしたら恐らくそこです」
『パック』とはダンジョンマッシュルームを栽培する容器を指しているのだが、ダンジョンマッシュルームそのものをパックと呼ぶこともある。
「ダンジョンを通って……どこから?」
「西3丁目公園ダンジョン。方向から考えて、高琳寺と繋がっている可能性が高いです」
エリカがそう言うと、水谷主任はまた難しい表情になった。
「それは……まだ確認されてはいないだろう?」
「西3丁目公園のエリア13、あそこの縦穴は稲荷山古墳の横に繋がっていました。あそこは高琳寺との中間点です」
「どうやって確認する?」
「もちろん、私が行きます」
エリカの答えに、水谷主任は両手で額を押さえてため息をついた。
「いくら非常勤だからと言っても、それは危険すぎて許可できない」
エリカは捜査の過程で麻薬組織に顔を知られてしまい、捜査官としての活動に支障が出ることになってしまった。一番重要な隠密捜査ができなくなったのだ。
そんな事情でエリカは現在『特別捜査官』という、異例の非常勤職員として捜査に関わっている。正規の捜査官のように拳銃や手錠は持てないが、それ以外は捜査官とほとんど変わらない業務だ。
「西3丁目からはフリーですから、入って行ってビンゴだったら事後報告するまでですよ。危険を気にしていたら、ここの業務は務まらないんじゃありません?」
水谷主任が小さく呻って、エリカが提出した書類をまとめて立ち上がった。
「ちょっと……10階の喫茶の前で待っていてくれないか?」
10階は千代田区役所の食堂で、そこの喫茶コーナーでエリカは水谷主任と「非公式」な話しをすることになった。
「本庁が、ダンジョンの捜索にいい顔をしない」
水谷主任が声をひそめて言った。
「なんで?」
局の中ではないので、エリカの言葉は遠慮がない。
「人手は取られるのに上がりが少ないからだな。たぶん」
以前にエリア13でダンジョンマッシュルーム栽培の摘発を行ったときには総勢30人と車両4台を動員したが、押収できたのは空容器だけだったのだ。
「末端を締めつけて売りを減らせば、手間がかかる栽培なんかやらなくなる。そんな考えだ」
違法薬物販売を潰した方法だが、主にダンジョンマッシュルームの摘発を専門にしている『ダン専』のエリカとしては承服しがたい話しだった。
「元栓止めないでバケツで水漏れ受けてるようなモノじゃない」
そのうち受けきれなくなってあふれ出すだろう。
「まだ栽培のポイントが少ないと思ってるんだ」
確かにダンジョンでの違法キノコ栽培は摘発数が少ない。だがそれは、捜査がもの凄く困難な上に半端なく危険だからなのだ。
「探し出せ。でも危険は冒すな?」
「そんな言い方しないでくれ」
水谷主任は本心から困ったような声で言って、コーヒーに砂糖を2杯入れてかき混ぜた。
「お砂糖好きは相変わらずね」
「ブラックは胃にくる」
エリカはため息をついて脚を組んだ。だが今日はパンツスーツなので、水谷に脚を見せつけることはできない。それに、もし見せつけたらたぶん水谷が勘違いして面倒なことになる。
「主任、ご結婚は?」
「まだだよ。君もか?」
「おかげさまで、優雅な独身生活を満喫しています」
エリカは指輪もない左手をひらひらさせて見せた。そしてすぐ、微妙すぎる質問と受け答えをしてしまったことを後悔した。
「引退は考えてないの?」
やはり水谷は食いついてきてしまった。
「引退して、そのあと何をしろと?」
「もっと安全な仕事に就くとか、家庭を築くとか……普通の生活もいいじゃないか」
「刺激のない生活なんて、ひと月も経たないで発狂するわ」
そう言ってから、エリカはつい数日前に死を覚悟したことを思い出した。確かに今の生活は刺激的すぎる。
「せめて特別捜査官じゃなく、一般職に移るとかさ……」
エリカはブラックコーヒーのカップを持ったまま、喫茶室の天井を見上げてため息をついた。
「まだ……あたしを局の中に置くこと諦めてないの?」
「今度、横浜分室に移動になる。恐らくまたここへ戻るだろうけど」
「戻って来たら役付き? それはおめでとう」
「今のうちに
エリカは天井に視線を向けたまま、
「戻すも何も、そもそも縒ってないでしょ? あたしたち」
エリカとしては水谷に対して同僚としての関係以上の特別な感情は持っていなかった。以前から水谷の一方的な想いでしかない。
「ああ……それじゃ、これから本格的に縒りを作って行こう」
エリカは力が抜けて、カップを落とすところだった。
「何なのよ、縒りを作るって……意味わかんない」
こんな場所でなければ大きな声で詰るところだ。好意を寄せてくれるのはいいのだが、水谷は男女のことに徹底的に不器用なのだ。
「まあ……それはともかく」
決まりが悪くなったのか、水谷は小さく咳払いして座り直した。
「今は本庁が乗り気じゃない、できたら他の支援に回ってくれないか?」
張り込みや尾行、操作の基本だが気が遠くなるような根気がいる仕事だ。エリカはため息をついてカップを置いた。
「高琳寺のことは協力をお願いしているところもあるので、すぐに手放すわけにはいかないの。片がついたら相談には乗るわ」
特別捜査官は『公務員扱い』で、公務員に対する辞令のような強制力がある指示は受けない。極端な話し、嫌なら辞めても何も不利益にはならないのだ。
俺はスライムに埋もれた人間を見下ろしていた。エリカとりりんがまるで水の底にいるように、スライムの海の下に横たわっている。
「くそ……」
俺のスキルではどうにもできない。二人をガラスに閉じ込めてしまうだけだ。
「どうしたら……」
意を決してハンマーを放り出して、腕をスライムの中に突っ込んだ。ヌルヌルとした冷たい感触に背中がぞっとする。エリカの腕に指が届いたけど、ヌルッと滑ってつかめない。
「くそぉー!」
両腕をスライムの中に押し込んでエリカとりりんをつかもうとした。でもヌルッと滑るたびに、二人の体はもっと深くスライムの中に沈み込んでしまう。
「だから言っただろ」
親父がやってきて、ハンマーを使ってスライムをかき分けてエリカとりりんを掘り出した。そして両肩にエリカとりりんの死体を担いで、どこかへ持って行こうとする。
「まてよ、親父。どこへ持って行くんだ」
「融かしてガラスにする」
「やめろー!」
そこで俺は目が覚めた。
「くそっ……」
びっしょり寝汗をかいていた。エリカと一緒にスライムの
「そう言えば……しばらく、自分で危ない目に遭ってなかったな」
エリカをはじめ何人もの人間を危機から助け出してきたけど、自分が死にそうな目に遭ったのはずっとなかったことだ。
午前2時、
『圭太さん、お誕生日おめでとうございます!』
そうだった、今日で俺は17歳になったのだ。しばらくの間はりりんと2歳違いだ。ちょっと考えて、『ありがとう』のスタンプだけを返しておいた。
「17歳……か……」
去年までは、ガタイが良いことを除けば何の取り柄もない高校生だった。普通に学校へ行って帰って、たまに家の仕事を手伝うぐらい。恐ろしく普通な生活だった。
それが今は、なり行きとは言え工房でスライムガラスを作ってダンジョンで悪人をやっつけて人を救助。年上の美人と組んでダンジョン探査をしてアイドルの女の子にメールをもらって……。
「悪く……ないのかな?」
そう悲観するような暮らしじゃないような気がした。親父の保険金が入ったから工房を手放すなんて最悪の事態は避けられたし、俺が高校に復学しても大丈夫なようだ。
すっかり目が覚めて眠れなくなってしまったので、1階に下りて工房の灯りを点けた。
「でも……学校は、退屈かも知れないな……」
高校を卒業する普通の人生は放り投げて、ダンジョンガラスの職人になるか。でも今の俺には親父ほどの腕はない、耳かきに半分くらいの粉末金属をガラスに溶かして赤や青のガラスを作るのだ。
手書きのメモが残っているけど俺はまだやったことがない。ぼんやりと工房の窓に映る照明の反射を眺めていると、不意に思いついた。
「スライムガラスで、ランプのシェードとかできないかな……」
これまで作っていたのは部屋の装飾に使う、5ミリから10ミリもある丈夫な板だった。これを2ミリぐらいの厚さで作れば、切ったり溶かしたり加工ができるかも知れない。
見た目は普通のガラスなのに、透して見る景色がウネウネ歪むのが面白いと言われた。吹きガラスはできないがステンドグラスのランプシェードにしたら、やはり光がウネウネ気持ち悪く動くかも知れない。
職人の端くれとして、建築材料よりは工芸品を作りたい。親父がやろうとしてできなかったことだ。