地面も壁も天井も全部土のダンジョンってのには慣れていない。崩れてきそうで落ち着かないし、何よりものすごくカビくさい臭いがする。天井が崩れてきて生き埋めなんてことは考えたくもない。
「うわぁぁ……ちょっと、待ってくださーい」
りりんが情けない声を出した。
「なによ」
エリカが不機嫌そうな声で言う。
「メガネ。曇っちゃって、何も見えません」
土の中だから湿気が高いのだ。
「6、7、8、9……60」
俺は先頭で危険がないか目を凝らし、エリカが歩数を数える。
「止まれ」
壁から、まるで湧き水のようにスライムが這い出してきていた。全部出てくるのを待たずに叩いてガラス化させてしまう。このダンジョンでも俺のスキルは有効なようだ。
「わ! わ! わ!」
りりんが悲鳴を上げた。ここはまだ地表から5メートルから6メートル、浅いので木の根なんかがダンジョンの中に露出している。その木の根と土の隙間から大きな虫がボロボロこぼれ落ちてくる。
「もぉー! 土のダンジョンって嫌!」
さすがのエリカも、何かの幼虫みたいな大イモムシには悲鳴を上げた。
「行くぞ、何歩だ?」
「えーとね……」
「60でした」
「わかってるわよ!」
エリカとりりんの口ゲンカはもう無視を決め込むしかない、気が散るだけだ。今はまだ浅いからまだ厄介なモンスターが出てこないのが助かる。だが腕を左右いっぱいに広げられないほどの幅しかないのが困る、ハンマーを振う余裕がないのがちょっと嫌だった。
「120歩」
エリカが言った。ダンジョンサークルの女性が言った通り、少し先に分岐が見えている。サークルの4人はここを右に入ったのだ。
「何してるの?」
左右の入り口前で手をかざしているとりりんが聞いた。
「空気の流れ。どこか外に通じていれば風が通る。風がなかったら行き止まり……あ。こっち、風が来てる」
パーティーが入って行った右側だ。
「空気が流れなかったら酸欠になるよね?」
エリカが言った。
「それは……あるね」
空気が流れていると言うことは、この先は行き止まりではなく外に通じているのだ。丘の中腹から入ったので、反対側に抜けているのかも知れない。
「学生3人捕まえて、それでなにする気なんだ?」
「人質かな?」
「それだと……身代金要求とかしないと、意味ないわね」
「とっ捕まえて、聞いてみるしかないな」
右の通路に入る前に、念のため地面にペグを打ち込んで黄色い水糸を結びつけた。この先はどうなっているのかわからないのだ。土木工事で水平を取るために使う、細くて丈夫な水糸はガイドロープの代わりになる。270mのロールはりりんに持たせた。
聞いた通りに、分岐した先は下りになっている。サークルの一行はここから200歩で不審者に出くわしたのだ。
知らないダンジョンを、しかもダンジョンスターのガイドなしで歩くのは俺でも恐い。
「サークルの人たち、よくこんなところ入ったな……」
「常識スパイラルかな?」
りりんが意味不明なことを口走った。
「なにそれ?」
エリカが不審そうに聞き返す。
「あの……根拠ないのに、大丈夫って思い込んじゃって。それで逃げ遅れたりする……」
「やめて……それは、正常性バイアス!」
エリカが膝を崩しそうなって笑う。何だか一気に緊張感がなくなってしまった。
「もう! 笑わせるから、歩数忘れちゃったじゃないのよ!」
「分かれたところから、89歩です」
「ぼちぼち、そーっと行くか」
土壁ダンジョンは岩のダンジョンのように音は反響しにくいが、用心に越したことはない。歩数を数えるエリカの小声とりりんが持っている水糸のロールが回るかすかな音だけを背中で聞きながら、俺は足音を立てないように土の中を進む。
『止まれ』
160歩進んだところで、俺は手で合図した。話し声のようなものが聞こえる。低いぼそぼそした声で、何を話しているのかまではわからない。
「追いついたかな?」
エリカが囁き声で言った。
「たぶん」
接近を悟られないように、俺はエリカとりりんのライトを消させて自分のライトも手持ちの小さいのに替えた。
「だから……なんだよ……違うってば……」
若い男の声、サークルの学生か。それに答えているもう一人の声は聞き取れない。
「どーやる?」
エリカが俺の耳元で囁いた。俺は黙って首を傾げた、そこまで考えている余裕なんかなかったのだ。
「あたしが行って意表を突く、危ないようだったらツブテぶつける。あんたは頃合い見計らって入ってきて」
エリカはりりんを手招きして、二人で並んで先に進んで行く。俺は腰をかがめて二人の後ろに隠れてついて行った。奥の方にわずかな明かりが見えた。人影、立っている一人と座りこんでいる何人か。
「こんにちわー!」
エリカがわざとらしいほど大きな声で挨拶する。
「なんだ……あんたら……」
若くはない男の声。あまり力がなく、何か自信がなさそうだ。
「そこにいる学生さんたちを回収しにきたの。その人たちを帰さないと、ちょーっと面倒なことになるんですよー」
「オレは……なにも、してない」
「それじゃ、その学生さんたち帰してくれます?」
「だめだ……だめだ……」
「どうして?」
エリカがさりげなく右手を体の後ろに回して、どこからか取り出したパチンコ玉を指先に持ち直した。でもここの通路は狭いから、腕を延ばしてツブテを打つのは難しそうだ。ツブテの威力が足りなかったらどうなるか。
「だめだ……とにかく、だめだ……」
エリカとりりんのすき間から、少しだけ向こう側が見えた。50代かそこらの、汚れたジャンパーを着た普通のおっさんだ。武器も何も持っていない。大学生は3人もいるのに、どうしておとなしく座っているのか。
「この人、僕らが何かを見たと思い込んで……」
座っていた一人が立ち上がろうとした。
「うるさい! 動くな!」
学生の声を男が遮った。するとなぜかその大学生は言われたとおりに腰を下ろしてしまう。何かおかしい。
「あんたらは、帰れ」
「私たちが帰ったら、それでどうするの?」
エリカは辛抱強く説得を続けるつもりらしいが、男の返事はなかった。
「いまはまだ大学の中だけのトラブルだけど。その学生さんたち帰さないと、そのうち警察沙汰になるよ」
男が何か言った、でも言葉までは聞き取れなかった。エリカがツブテのパチンコ玉をぽとりと落とした、そしてなぜか一歩下がる。りりんもつられたように一歩後ろに下がる。
「ちょっとまて」
男の低い声。
「金髪の……お前は、そこにいろ」
エリカはそこで動きを止めて。りりんだけよろよろと後ろ向きに下がってきて、俺にぶつかって止まった。いったい、何が起こっているのだろう。
「ライトを消せ、名前は」
「自分……から、名乗りなさい……よ……」
エリカの反応がおかしい。
「何があった?」
りりんの背中を支えながら、俺は小声で聞いてみた。
「わかんない……何か……逆らえ、ない……の」
もしかすると、声で相手をコントロールするスキルなのか。だから大学生が3人いるのに何もできないのかも知れない。
「名前……は?」
男の声が気味悪い響きになった。俺まで何か体の中がじんわり重くなってきた、こんなスキルもあるのだ。
「御崎……エリ、カ……」
エリカが額のライトを消して、男に名乗った。
「よし……エリカ。服を脱げ」
「いやよ」
「逆らうな。エリカ、服を脱ぐんだ」
「やめて!」
りりんが一歩前に出て叫んだ。
「黙ってろこのガキ! 動くな!」
怒鳴りつけられて、りりんがそこで硬直した。俺まで体が動かなくなって、腕も上がらない。
「うう……」
腕を変にぎくしゃくと動かして、エリカがブルゾンを脱いでシャツのボタンを外し始めた。
「エリカ……」
出て行ってハンマーで男を吹っ飛ばしたいのに、俺はりりんの後ろに隠れて小声で囁くしかできない。ひどく格好が悪い。
「りりん……なにか、できないか?」
「なにかって……なに?」
りりんは前に、得意なのは歌うこととそば打ちだと言っていた。ダンジョンの中で見たパルクールの動きは外と変わりなかったから、あれはきっとスキルじゃない。だとしたらそば打ちか歌か、どっちかにスキルが発現しているかも知れない。
「りりん、歌って!」
歌に賭けるしかない。りりんの歌声に、何かの力があることを祈るしかない。
「なんで?」
「何でもいいから! エリカを助ける、なにかを、やるんだ!」
りりんが大きく息を吸う音がした。
「どんな……言葉が、あなたに……伝わるのかな……」
かすれた声でりりんが歌い始めた。
「多くの、時がすぎても……あなたは、そばで笑ってる」
りりんがのろのろと手を上げてマスクを取って、その声が大きくなった。そのとき、俺を縛っていた男の力が薄れてきた。
「疑うこともない、いつだって、少しの勇気があればー、未来を捕まえられる」
りりんが歌っていたのは、昔のアニメの主題歌じゃなかっただろうか。タイトルは思い出せないけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「歌やめろ! このガキ!」
「誰だって、恐くて動けないときも、それじゃ何も始まらない」
男の声を、りりんの歌声が圧倒していた。
「調子に、乗るなー!」
男がりりんに殴りかかろうとした。
「それは、てめえだー!」
俺は立ち上がって、りりんの横から飛び出しながらハンマーを突き出した。俺と同時に、エリカも男を蹴りつけていた。
「ぐはぁっ!」
蹴りと突きを同時にくらって、男は2メートルぐらい吹っ飛んだ。仰向けに倒れたまま、ぴくりとも動かない。
「あー! もう!」
エリカが脱いだシャツを拾い上げて着直した。
「溶かされたり切られたりよりはいいけどさ……りりん、今のなに?」
「わからないです。魔王様が、歌えって」
「りりんって……もしかして、輝沢りりん?」
大学生の一人がよろよろと立ち上がりながら言った。大学だから、アイドルのりりんを知っている人間は多いかも知れない。
「あ……いけね」
エリカが気付いたけどもう遅い。りりんがあわててマスクとメガネをかけた。
「ここから出たかったら、今のことは忘れなさい」
エリカが言うと、3人は一斉に頷いた。エリカとりりんを先頭にして、俺は男を引き立てるようにして一番後ろを歩いた。
入ってからちょうど1時間、ダンジョンから出ると歓声と拍手が起こった。土まみれの3人を大学の職員に引き渡したけど、問題は「おっさん」だった。いきなり大人数が待ち受けているところに連れ出されて、完全にキョドっている。
「なんだ……ここは?」
「お前がこっちの入口から出たり入ったりしたから、この騒ぎになったんだよ」
俺が答えると「おっさん」のうろたえ方は余計にひどくなった。
「帰る、俺は帰る」
「何であの3人引き留めたのか、説明してから帰れよ」
トイレ横まで降りてくると、もう学生たちに囲まれるような状態になった。よせばいいのに、学生たちがみんなスマホで撮影する。
「やめろ! おい、お前ら! なに撮ってる!」
おっさんの形相が変わった。今頃になって大学の職員が撮影をやめるように言っているけど、学生の数が多すぎる。おっさんを制止しようとした職員が突き飛ばされた。
わめきながら振り回すおっさんの腕がりりんの顔にあたって、キャップとメガネとマスクが全部飛ばされた。
「お前ら! 一緒に来い!」
エリカと女子学生ひとりがおっさんに捕まった。二人を引きずるようにしておっさんはダンジョンに戻ろうとしている。
「やめろ! おい!」
俺は学生をかき分けるようにしておっさんを追いかけようとした。そのとき、『どすん』と肩に衝撃があった。なにか、大きな物体が俺の上に乗って……。
『パカン!』
軽い音がして『おっさん』がよろけた、俺の目の前にりりんが降り立つ。何が起こったのかやっとわかった。りりんが俺の肩を支えにして、空中回し蹴りでおっさんの横っ面にヒットを入れたのだ。
おっさんが頭を両手で抱えて片膝をついた。エリカがおっさんに肘打ちを入れて、女子大生の手を引いて逃げる。
「うわ!」
またりりんが空中にいた。空中で派手に斜め回転して、おっさんの後頭部に『踵落とし』みたいな蹴りを入れた。
「おわあ!」
大学生のどよめく声。おっさんがつんのめって、顔から地面に倒れ込んだ。周りにいた学生たちがよってたかっておっさんを押さえ込む。
「撤収!」
エリカにせき立てられて、車まで走って戻った。
「また、派手にやったわね」
「すみません……」
後ろのシートでりりんが小さくなっていた。
「瞬殺でケガ人でなかったら、結果オーライよ」
エリカと一緒に拉致されそうになっていた女子大生が後から走ってきて、りりんのキャップとメガネを届けてくれた。
「輝澤りりん……さん?」
「はい……」
「助けてくれて……私も、サークルの人たちも。ありがとう」
りりんが窓から手をさし出して、女子大生と握手した。
「後は大学に任せる。とりあえず、どこかでお昼にしましょ」
誰かと電話で話していたエリカが、ため息交じりに言ってインプレッサのエンジンをかけた。