「一昨日なんですけど……」
池を渡る風で乱れる髪を手で押さえて、りりんが俺に笑いかけた。
「うちで、お昼にまかないの蕎麦を打ったんです。月に一回くらいテストみたいにやらされるんですけど……」
「りりんの手打ち蕎麦なら食べてみたい」
りりんが恥ずかしそうに笑った。
「いつもなら、何だかいろいろ考えながら打つんですけど。ダンジョンで走ったときみたいに、何も考えないで打てたんです。そしたら、合格だって父と兄に言われました」
「へー。すごいじゃない」
エリカに打ったメールの返事が来た。
『りりんと心中する気か?』
俺は一ミリも死ぬ気なんかない、死ぬとも思っていない。死ぬならエリア13でとっくに死んでる。
『入って、帰って来る気だからエリカに頼むんだ』
何度かエリカとメールのやりとりをして、エリカが『りりんと話しをさせろ』と言ってきた。それを伝えると、りりんがあわてたようにスマホを取り出した。
「すみません……また勝手なお願いして。はい……はい……そうです……」
りりんがエリカと話しているあいだ、俺は池の周りを散策する人やランニングしている人たちをぼんやり眺めていた。あの人たちには、仲良くボートに乗っている俺とりりんが幸せそうに見えるのだろうか。
ここにいるのはろくでなしの兄に人生を狂わされた女の子と、今現在絶好調でダンジョンに人生を狂わされている男だ。
「みんな……ダンジョンなんて知ってるのかな?」
調べてみると、大泉学園と調布の方にあるらしい。両方ともここからは遠い。だからこの周辺は
「連れて行って、いただけるそうです」
「そうか……」
エリカに借りができる。
「でも、一緒に中に入るって。おっしゃってます」
「え?」
「外で心配してるよりも、一緒に行ったほうが気が楽だしリスクも下がるって」
それは確かにそうだろう。でも俺はエリカに対する借りが増える。
「あの、それから……」
りりんがちょっと口ごもった。
「なに?」
「ひとつダンジョン探査があるから、一緒に来てほしいそうです。それで、あたしの件はチャラだって」
エリカは、貸しはしっかり取り返す。話している間にエリカからショートメールが来ていた。
『明後日の朝9時に迎えに行くから準備しておけ』
どこのダンジョンとは書いていない。
「明後日の朝から、どっかに連れて行かれるらしい」
「明後日なら空いてますし、お店も定休日だから。あたしも行きます」
りりんが言いだして、俺はうっかり口に出したことを後悔した。
「いや……りりんが来ても、危ないだけかも知れない」
「圭太さんが働かされる原因、あたしですから。責任取ります」
そんなわけで、工房の前で俺はりりんと一緒にエリカを待つはめになった。
「絶対……エリカに怒られる」
「あたしが勝手についていくだけです。ご迷惑はかけません」
それと同じセリフを前にも聞いたような気がした。赤いインプレッサがやってきて、目の前で停まった。
「何でりりんがいるの!」
エリカの第一声がやっぱりそれだった。「来るな」「行かせろ」の押し問答が続いて、結局エリカが折れた。
「時間を無駄にさせないでちょうだい!」
そしてやっぱり俺が怒られる。
「りりんに聞かせたの、エリカじゃないか」
「ちょっとトラブってるダンジョンなのよ!」
「どこのダンジョンですか?」
りりんに聞かれて、エリカがルームミラーごしにりりんを睨んだ。
「町田の、方正大学のキャンパスにあったの。それまで大学でも気がついていなかったんだけど、人が出入りしたところを職員が見たらしいのね。それで調べてみたらスライムがいて、ダンジョンだってわかった」
りりんにではなく、俺に説明していた。
「人って、学生とかじゃなく?」
ダンジョンが見つかっただけで騒ぎになることはあるけど、エリカが俺を引っ張り出すのだから何かヤバいことがあるはずだ。
「どう見たって学生じゃないんだって。それがキャンパスの中で何やってるのか、調べてくれって頼まれたの」
「またキノコ?」
「知らないわよ」
「何でエリカさんに声がかかったんですか?」
後ろの席でりりんが聞いて、エリカが迷惑そうにルームミラーを見た。
「あそこにゼミでお世話になった教授がいてね。人づて先生に話しが回って、先生あたしが何をやってるか知ってたの」
「あー。しがらみってやつ」
「うるさい! 放り出すよ!」
今日のエリカは、やけにりりんに対してあたりがきつい。井の頭公園でデートしていたことは知らないはずだけど。
インプレッサは八王子バイパスを通って、方正大学のキャンパスに入った。守衛所でエリカが手続きをして、大学の中をぐるぐる走る。
「御崎エリカですー。いまキャンパス入ったところです、どこ行ったらいいんですか? はい……体育館、総合の方ですか? はい」
大きな体育館の前にインプレッサを停めて、エリカはもう一度電話をした。
「いま総合の前ですけどー、どこ? テニスコートの、トイレのとこ? はい、わかります」
俺たちは車を降りて、トランクルームからダンジョン装備を下ろした。りりんが素早くメガネとマスクをしてキャップをかぶる。
三人とも何やら物々しい格好になって、テニスコート向かいにあるトイレの横で少し待った。トイレと体育館の間に行き止まりの道路があって、そこに学生が集まって山の方を見上げている。あっちにダンジョンがあるのだろう。
大学の人が来るのを待つ間に俺たちは交代でトイレに入る、ダンジョンに入る前の鉄則だ。
「御崎さん、わざわざありがとうございます。本当に助かります」
大学の職員らしい人が2人と、学生らしい女性が一人やってきて、俺たちをトイレの裏にある山に案内した。低い山の中程、草で隠れそうな穴の周りに柵が置かれている。
「誰も気がつかなかったんですか?」
エリカが呆れたように言う。
「この向こう側は霊園があるだけなんで、普通ここは誰も登らないんです。たまたま登って行った人を見かけたんで、調べて見たらこれがあったんです」
「で……中のことはぜんぜんわからない?」
「私がちょっと入って見たんですが、スライムがいたんですぐ出ました。そのあと立ち入り禁止にしていたのですが、1時間ほど前にサークルの学生が入ってしまったんです」
「え?」
職員と一緒に来た女性が、ぺこんと頭を下げた。
「説明して」
職員に急かされて、女性はおろおろした様子で説明を始めた。
「あの……私たち。ダンジョン研究会で、あの……主に、都内と神奈川のダンジョンを探検しています。ここは……もう、私たちの庭先ですから。潜らないといけないって部長が言い出して……」
「その辺いいから、中の様子」
エリカが遮って言った。
「あの……入って、120歩で左右に分岐があります。そこまで出たのはスライムだけです」
女の人が言った。ダンジョン研究会だけあって、距離をつかんでいる。
「私たちは右に入って。すぐ下りになって、200歩行かないところで不審者に会いました」
平地で、成人の「一歩」は約70センチだ、でもダンジョンの中での「一歩」は約50センチ。だから距離にするとだいたい160メートル、さっき車を停めたあたりまでの距離だろう。それなら順調に行って30分程度だ。
「不審者はどんな様子? 武器とか持ってた?」
エリカが聞くと、女性は首を振った。
「私は一番後ろだったので……何か怒鳴る声が聞こえただけで、ほとんど何も見えませんでした。私だけ逃げて、部長と、あとふたり捕まっているみたいです」
俺はちょっとため息をついて、頭にバンダナを巻いてヘッドランプをつけた。
「この……人たちは?」
ちょっと不安そうに職員が聞いた。巨大なハンマーを持ったでかいけどやけに若そうな男と、頼りないほど小柄な女性だ。心配になるのも当然だ。
「ダンジョン専門のトラブル処理技術者、スイーパーです。中にいる厄介なものは全部片付けてくれます」
「そうですか……」
「秘密厳守の件はご心配なく」
「はあ……」
俺は余計なことは喋らないで方正大学ダンジョンに足を踏み入れた。ここはできて、あまり時間が経ってないようだ。まだ土が軟らかい。足跡、10人までは入っていないだろう。振り返ってエリカに聞いた。
「不審者が人間だったら、ぶちのめせばいいのか?」
「骨折以下でやめておいてね」