あと25枚でスライムガラス500枚達成というところで、スライム粉がほとんどなくなった。
「どーしよ……」
残りを使い切って明日の朝からダンジョンに入るか、それとも今から行って要るだけ取ってくるか。
「25枚分だと……20あたりまで潜らないと無理だな」
マトリが捜索に入って、りりんがダッシュしたあの後だ。入り口からエリア13まで、ほとんどモンスターが出なくなってしまったのだ。
そして20より奥だと、行って戻ってくるだけで4時間近くかかる、朝イチで入っても出てくるのは昼過ぎだ。それから工房で作業ってのは嫌だった。
「しゃーない……これから行くか」
いまから入っても、暗くなる前に出てくることはできるだろう。長袖のTシャツに着替えていつもの大ハンマーを持って、カートを曳いて西三丁目公園に向かった。
「お? 今日は半端な時間から入るんだな」
入場名簿を書いていると、杉村のおっちゃんに言われた。
「材料なくなったんで……ずいぶん入ってますね」
午前中に4組、昼過ぎに2組が入っている。
「一人で来て、何も持たないで入ろうとするのが何人もいるから困るんだよね―。追い返してるけどさ」
きっとりりんのファンだろう。りりんがリベンジでやったダンジョンダッシュ以来、ここを見に来るだけの人間も増えたらしい。
散々おっちゃんの文句を聞かされて、ようやく俺はダンジョンに入った。
スライムすら出なくなったダンジョンは何だか寒々とした雰囲気で、俺の足音とカートのホイールの音ばかりが虚ろに反響する。
「マナが……枯れるんだっけ?」
土の中で暮らしている虫たちをモンスターに変身させ、人間にスキルという超能力を与えてくれる謎パワー。でも、あまりたくさんの人間がダンジョンに出入りするとマナは吸いつくされてしまうらしい。
「スライムも何も出なくなって……」
マナが枯れたダンジョンで、俺のスキルはどうなるのだろう?
考えてもわからないことを考えながら、エリア13を通り過ぎた。あのホールの中ではパーティが騒いるらしくて、笑い声や歓声が聞こえてくる。
エリア15、やっとスライムがいた。ガラス化だけさせてそのまま置いて行く。帰りのカートに隙間があったら回収すればいい。
「これって……ただ仕事してるだけだよな」
今更なことを俺はつぶやく。これは探検でも冒険でもない、ダンジョンに来てただ作業しているだけだ。
エリア20でようやくまともにスライム狩りをして、必要なだけ粉を集めることができた。でも感動どころか満足感もない、やるべき仕事の一部を達成しただけだ。俺は虚ろな気分で虚ろなダンジョンを後にした。
おっちゃんにドックタグを返そうとして、その後ろにエリカがいたことに気がついた。
「あれ? 24行くの、月曜だよね?」
「うん……」
エリカの様子が何だかおかしい。まさか、りりんとデートすることを知られたはずがない。あれは俺とりりんしか知らないことだ。エリカが立ち上がって、俺の腕を引いて少しテントから離れた。
「13西でマトリが押収した物の中に、ロストした人の持ち物としか思えない物があったの」
エリカはバッグからクリアファイルを取り出して、A4のプリントを引っ張り出した。
「これ……」
そこに印刷されていた写真は、見覚えのある工作用のハンマーだった。もう一枚のプリントは、ハンマーの柄がアップになっていた。『空吹硝子工芸』とマジックで書いてあるのが読めた。
「親父のだ……」
俺がそう言うと、エリカが目を閉じて小さく頷いた。
「来週、ここの警察署で身元がわかりそうな遺留品の展示と引き渡しがあるわ。たぶんそれで裁判所に
それだけ言って、エリカは去って行った。
「面倒かけさせやがって……」
俺はもう一度プリントに目をやってつぶやいた。そして重いカートを曳いて家に帰った。プリントを見て母も妹も泣いたが、俺は何の感情も湧いてこなかった。
「シッソーセンコクって……」
ググってみると。家庭裁判所で失踪宣告を出して貰えば、死体がなくても親父は法律上死んだことになる。
「そしたら、保険金とか……降りるのか」
それで少し家計も楽になるだろう、しばらく仕事は休んで高校だけは卒業しておこうか。泣いている母と妹を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
局のアシスタントディレクターに付き添われて、輝沢りりんはメイクを落とす時間もなく
車寄せで待っていたのはタクシーではなく黒塗りのハイヤー、りりんはハイヤーなんて初めての経験だった。シートもソファのような快適さで、りりんは何度も眠りそうになった。
りりんを乗せたハイヤーは台場から首都高速道路に乗り、約束の時間少し前に水道橋駅近くのビルに到着した。車寄せには広告代理店の女性スタッフが待っていて、慌ただしくりりんをエレベーターに引っ張り込んだ。
案内された28階の会議室では、大きなテーブルを囲んで十数人の男女が待っていた。奧の一人が立ち上がって、りりんに頭を下げる。
「輝沢さま、お忙しいところをお越し頂きありがとうございます。DQコミュニケーション営業企画部長の髙橋と申します」
DQの社員と広告代理店と映像製作会社のスタッフに次々と名刺を渡されて。いったい何が始まるのかと、りりんはパニックになりそうな自分を叱咤した。電話では『通信会社のCMに出てもらえないか』と聞かれただけで、詳しい内容は何も話して貰えなかったのだ。
「輝沢さまには、今年の秋から放映する予定の新型スマートフォンとDQコミュニケーションとのコラボCMで、メインキャラクターをお願いしたく。本日お越し願った次第です」
「……え?」
りりんの脳がその意味を理解するまで2秒ほどかかった。そして、何か聞き間違えたのではないのかと自分の耳を疑った。
「あの……メイン……です、か?」
「はい。弊社の企画会議でぜひにとの声が多くあがりまして、まず輝沢さまの意向を伺いたいと思います。その前に、私どもがなぜ輝沢さまにご出演をお願いすることを希望するに至ったのか、少し説明させて頂きます。映像、お願い」
スーツ姿の、たぶん自分の父親くらいの男性から『輝沢さま』と呼ばれて、りりんはひどく心地が悪かった。テレビ局などでは、どこへ行っても『りりんちゃん』なのだ。
プロジェクターで映し出されたのは、ユーチューブにアップしているりりんの『ダンジョンアタック』10分バージョンだった。
ナレーションは一切ない。前の『チャ・りーんジ』でりりんが担ぎ出されてくるシーンがちょっと入ってすぐに暗転、『りりんザ・リベンジ』と小さくタイトルが出る。そして西3丁目公園でりりんがストレッチをしているシーンから始まる。
『壁走り』で画面が真横になり、定点カメラに壁を走るりりんが映ったとき、会議室の中でいくつも声が上がった。転倒のシーンでは女性の悲鳴が上がる。
ダンジョンからボロボロのりりんがよろめき出て、手を振ってからへたりこむところで画面は暗転して『
「この、輝沢さまのダンジョンチャレンジランが次期のコマーシャルコンセプトにぴったりであると、弊社内でも
髙橋部長が言うと、その向かいに座っていた女性が頷いて後を受けた。
「新型ガジェットは小型軽量でありながら多方面の意味でタフというのが売りで、輝沢さんのイメージにもぴったりなんです。ところで……最初の、輝沢さんが担がれて出てきたところ。あれは何があったのですか?」
そう聞かれて、りりんは少々要領を得ない説明をするしかなかった。あの時は気絶していたので何も覚えていないし、二度目に入ったときのことは話したくなかった。
空吹圭太と御崎エリカしか知らないことだが、自分が男4人を蹴り倒したなんてとても言えない。
「モンスターに襲われて……気絶しちゃったのが悔しくて」
その後でマトリが捜索に入ったことなどりりんは知らないし、ダンジョンマッシュルームが何なのかも知らなかった。
「やっぱりダンジョンの中を走るシーンが要りますよね……」
「スマホを見ながら走るのって、アリですか?」
広告代理店と映像製作会社の間で、どんなイメージで映像を作るかが話し合われている。それをりりんはただぼーっと聞いていた。きっとこれは企画が正式にスタートする前のオリエンテーションなのだ。だがあまりに突然の話しで、りりんは自分のこととは思えなかった。
「輝沢さん。パルクールの動きを見せて頂くこと、できますか?」
急に話を振られて、りりんは額に汗がにじんだ。
「あの……そこ、いいですか?」
りりんは会議室の中を見回して、窓際の広くなったところを指した。
膝はまだ少し痛むし、こんなスペースでできる技は限られていた。それに普段パルクールの時にはくシューズではないし、足元は踏ん張りがきかない厚手のカーペット。それでもやるしかなかった。
「フッ!」
「うおお……」
オジサンたちの呻るような声。小さくて細いりりんの体が、アクロバットのように跳んで空中で回転する。
かなり危なっかしかったが、何とかバタフライツイスト、
「やっぱりこれで行きたいね!」
「輝沢さんなら女子高生で充分通るから、制服姿でスタートして……」
何だかもう、りりんが出演することは決定になってしまった雰囲気だった。
「あの。家族と……相談、させてください」
企画書が詰まった封筒を持たされて、家まで送ってくれるハイヤーには広告代理店の女性が同乗して契約に関することを説明してくれた。
「ワンクール、3ヶ月ごとの契約になるのね……」
そして小さな声で告げられたギャラの推定額にりりんは固まってしまった。思っていた金額より、
「どーしよ……」
高尾山口駅近くの高尾橋でハイヤーを降りて、りりんは憂鬱そうに独り言をつぶやいた。普通の芸能人なら、これは大チャンスで飛びつく契約のはずだ。
「こんな仕事したら。もうタレント、辞められなくなっちゃう……」
りりんは額に手をやって、指先に茶色っぽいものがべったりと付いたので戸惑った。まだドーランを落としていなかったことを思い出した。