輝澤りりんは泥沼から這い出るような気分で目を覚ました。しばらくの間ベッドの上でぼんやりと天井を見上げて過ごし、起き上がろうとした。
「あう……痛い……」
上半身に力をこめようとすると背中と腰がみしみしと音を立てるように痛む。ひざを曲げようとすると脚の筋肉があちこち
「なんか……食べないと……」
だが冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターとスポーツドリンクとゼリー飲料しか入っていない。
「……4時?」
スマホを覗きこんでりりんは不審そうにつぶやいた。ここへ帰ってきたのが午前9時、疲れ切っている上に、体があちこち痛むので顔だけ洗って寝てしまったのだ。
「今日の……4時かな?」
頭の中がまだ寝ていて、意味不明なことをつぶやいた。防犯シャッターが閉まっているので窓は真っ暗、朝なのか夜なのかもわからない。
「げほっ! げふ……げほっ!」
ミネラルウォーターを飲んでむせて、それからゼリー飲料をすすった。それでようやく頭が働き始めた。体中に貼った湿布を剥がして、髪を濡らさず傷口修復絆創膏が剥がれないように慎重にシャワーを使った。
「うわ……」
鏡を見て、眼の下にクマができているのに絶望した。化粧で少しごまかして、それから地味な服に着替えて外に出た。実家周辺と違って、人が多いここでは帽子とマスクとメガネがいる。
「うう……うう……」
時々痛みで呻きながら、できるだけの速さで歩く。パルクールをやっていて知った治療法で、
湿布と痛み止めにカップスープとタマゴサンドとアイスクリーム、エナジードリンクとビタミンドリンクを買ってワンルームマンションに帰ってきたとき、暑くもないのにりりんは全身にびっしょり汗をかいていた。
アイスと飲み物を冷蔵庫に入れて、しばらくりりんはベッドに倒れ込んだ。意識を失わないように呼吸を整えてから、スマホを操作して耳に当てた。
「毎度ありがとうございます。
電話に出たのが仲の良い店員さんだったので、りりんは詰めていた息を吐いた。3日も実家に帰っていないから、もし父や兄が電話に出たらもの凄く怒られるだろう。
「あの……りりんです。明日、収録が早いんで、友達のところ泊めてもらいます。お母さんに言っておいてください」
このマンションのことは実家の母でさえ知らない。世話になっている会計事務所に紹介してもらった1Kの賃貸マンションなのだ。収録が遅くなって高尾山口の家まで帰り、寝る時間もなくまた出かけなくてはならないときには西荻窪駅まで10分のここに泊まる。
うめきながら服をぜんぶ脱いで、昨日着ていた服と一緒に洗濯機に放り込む。それからボディーペーパーで体を拭って、またあちこちに湿布を貼った。
「しばらく……生脚出せないなー」
りりんは絆創膏の上から膝に手を置いて言った。膝の
「空吹さんと……デート。どーしよ……」
アイスクリームを少しずつ食べながらつぶやいた。予定は来週の火曜日まで埋まっている。りりんはプロダクションに所属せず営業もしていないのだが、人気がある割にギャラが安いので仕事が切れない。
「それより、明日か。体……動くようにしておかないと」
明日の収録はひな壇に座っているだけだが、この体では何もしないで座っているだけでも苦痛だ。控え室は他のタレントと一緒だから、着替えずになるべくそのままスタジオに入れる格好で行った方がいいだろう。
いつ意識を失ってもいいように、りりんはスマホのアラームをセットした。食欲は全くなかったがタマゴサンドを2パック、無理やり口に押し込んだ。
「うー」
秋葉原のレベルMAX肉汁麺をぺろっと平らげて「驚異の胃袋」と呼ばれたりりんの胃が、たった4切れのサンドイッチで悲鳴を上げていた。ベッドで体を丸めて、りりんはしばらく吐き気をこらえていた。
「なんか……まだ、手の感触……してる」
恐怖を紛らわせるために、空吹圭太に肋骨がメリメリ音を立てるほど強く抱いてもらった。脇から背中にかけて、まだその感覚が残っていた。そこにそっと指先を這わせながら目を閉じて、りりんはあっという間に眠りに落ちた。
御崎エリカは日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅に降りて、何度か迷いながら愛宕稲荷神社にたどり着いた。メールで
「うわ……」
大鳥居を潜って参道の行き当たりにあったのは、とんでもなく急で長い階段だった。その横には傾斜の緩い階段もあるが、なにやら凄く遠回りに見える。
「48、49……」
さずがに一気に登ることはできず、エリカは途中でひと息入れた。
「これ……転げ落ちたら、死ぬわ……」
上から見ると、階段の傾斜はもっと急に見えた。途中で何段だったかわからなくなったが、80段以上あったのは間違いなかった。
階段を登り切ると、そこには朱塗りの鳥居がぎっしりと立ち並んでいる。奉納銘には大企業の名前も目立つ。
「お参りに来たわけじゃないけど……」
一応作法に従って、エリカは
二礼二拍手一礼して社務所はどこかと見回していると、巫女さんがやって来るのが見えた。
「御崎エリカさんですか?」
「はい……」
なぜこの巫女は自分のことを知っているのか、エリカは戸惑いながら返事をした。そしてその巫女を見直して、気がついた。
「あっ……あの……桐島、志保さん?」
「はい。ウェブ会議ではお世話になりました」
巫女装束の桐島志保が、にっこり笑って頭を下げた。
「巫女さんが、本職ですか?」
愛宕稲荷神社の応接室で、志保が淹れてくれたお茶を飲みながらエリカは思わず聞いてしまった。
「文部省のお仕事は参事官の補助で、まだお膳立てみたいなものですから。それに、私は祖父の代理で行かされてるみたいなものです」
「代理って……そんなこと、できるんですか? お祖父様は……どんなお方です?」
志保が困ったような笑みを浮かべた。
「某会社の会長です。大臣のお尻をひっぱたいて、ダンジョン研究の新型災害研究班を立ち上げさせた人物です」
文部科学大臣に言うことを聞かせられる人物とは何者なのか、エリカはちょっと考えてすぐに諦めた。簡単に公にはならないことだろう。
「ダンジョンに関しては、諸官庁が揃って扱いかねている問題ですからね……新型災害研究班の参事官は他のセクションとかけ持ちなので、ほとんど全部私に任せっきりです」
「え?」
「私。産業総合研究所の地質調査総合センターで助手をやっていたんですけど、体を壊して退職したんです。実家の手伝いしながら、そのうち結婚しようかなーって考えてたんですけど。あ……その
塗りの小皿に置かれていたのは『
「そしたら、祖父が立ち上げた研究所に引っこ抜かれて。いきなり文科省の参事官補を押しつけられて……でも毎日仕事があるわけじゃないから、家にいるときは本業の巫女です」
志保は巫女装束の両袖を上げて、肩をすくめた。
「あ……ここ、ご実家だったんですか」
考えてみれば当然だった。そうでなかったら神社に来てくれなんて言われるはずがない。
「それで……御崎さんのご用って何ですか?」
エリカは立川市の高琳寺で起こっている異変について説明した。
「ちょっと筋が違うのはわかっているんですけど、寺社を統括している文科省に
「うーん……」
志保は半分に割った最中を持った手を止めて、窓の外に視線をやっていた。
「神社やお寺の……立川市の宗教法人ですから東京都の
『やった』とエリカは腹の中でほくそ笑んだ。今のところ、厚生労働省では手の出しようがない案件だったのだ。
「御崎さんは、そのお寺の中で何が行われていると思ってますか?」
指先についた最中の皮のかけらを優雅な仕草で皿に払い落としながら志保が聞いた。ちょっとした所作が、エリカには真似できないほど美しい。
「同じ立川市の、西3丁目公園ダンジョンで違法植物の栽培が行われていて。厚労省が捜索に入ったの、ご存じですか?」
「はい、ダンジョンマッシュルームですね。そのものは押収できたんですか?」
「いえ、全部運び出された後でした。押収できたのは栽培に使った道具だけです」
エリカが答えると、志保は目を閉じで頷いた。
「同じことが、高琳寺で行われている……その可能性があると」
志保が目を閉じたまま言った。
「本堂の屋根を修理すると、
エリカが説明すると、志保がゆっくり目を開いた。
「大阪の
志保は小さなため息をついて続けた。
「これは……一刻も早く、何か手を打たないといけませんね」