横向きになっていたりりんのウエラブルカメラが少し動いた。気を失ったわけではないらしい、気絶している間にスライムにまとわりつかけると凄く危険なのだ。
動画の音量を上げてみると、りりんの喘ぐような呼吸音が聞こえた。
「ああ……あうう……」
画面が揺れて、りりんの手が映りこんだ。りりんはスケボーをやるときみたいなプロテクターなんかつけていない。もろに転んだならかなりのダメージだろう。
「いたい……いたい……」
泣くような声も聞こえる、どこかケガをしたのだろうか。助けに行きたいところだが、りりんがここで折り返してからもう10分以上経っている。もうかなり離れた場所だろう。
「立て! りりん。立って!」
「あ……ああ……」
俺の声が聞こえたかのように、呻きながらりりんが体を起こした。
「むか……つくぅー」
前にも聞いたことがある低い声。自分を呪ったのだろう。画面が激しく揺れて、りりんの腕や脚が映った。ケガのチェックをしたのだろう。
「ちょっと……滑って、転んじゃいましたー」
これはライブの視聴者に向かって言ったのだろう。
「だいじょうぶ……行けます」
またりりんが走り出したけど、よろけている。明らかにスピードも落ちている。
「うう……うう……」
どこか痛むのか、走りながら呻き続けている。りりんを気遣いながら、俺は通路の壁に取り付けたカメラを回収していく。
「あ……こいつか?」
一台のカメラが取り付けた場所から外れて、離れたところに転がっていた。その手前には蹴散らされたみたいにズタズタに千切れたスライム。りりんはこいつを踏んで滑ったのだろう。
「ここ……エリア8か、あいつ速いな……」
そろそろ出口にたどり着く頃だ。ライブ映像を見ると、りりんのウエラブルカメラにダンジョン出口の光が映っていた。
「ああ……ああ……」
りりんの息遣いが荒い、そして走っていると言えないほど遅い。なにしろほぼ2時間走りっぱなしなのだ、もう体力だって限界だろう。それでもりりんは出口が近づくとスピードを上げた。
「よし。りりん、頑張れ」
りりんがダンジョンを出た。公園はものすごい数の人間で埋まっている。カメラが切り替わって、よろけるようにして走り出てくるりりんを映し出した。ジャージが砂埃にまみれて、手やひざに血がにじんでいる。
「応援、ありがとうございましたー! りりん、生還しましたー!」
そう言ってりりんは公園につめかけた人たちに手を振った。そしてそこにへたり込んだ。オペレーターが駆け寄ってりりんの顔に何かあてている、たぶん酸素だろう。そこで人垣に遮られてりりんの姿は見えなくなった。
これでりりんが何をなし遂げたのか、りりん本人にしかわからない。広告収入や再生回数のためでないことだけは確かだ。成功したのだから、そのうち話してくれるだろう。
カメラを全部回収して俺がダンジョンから出たとき、芝生に腰を下ろしていたりりんがよろよろと立ち上がった。待っていてくれたのだ。
「ありがとう、ございました」
包帯を巻かれた右手をりりんがさし出した。
「おめでとうって、言っていいのか……こんな無茶なこと、もう二度とやらないでくれ」
俺はりりんの手をそっと取りながら言った。りりんが頷く。
「スライム踏んでたけど、ちゃんと落とした?」
「ぜんぜん気が付きませんでした。出てきてから言われて、アルコールで洗いました」
りりんはオペレーターの車に乗って家に帰り、見物の人たちもいなくなった。公園はいつものように杉村のおっちゃんだけがいる静けさを取り戻していた。でも、もう一人残っていた。
「何てムチャなことやらせたの!」
エリカが俺を睨みつけて言った。
「一人だけでもやるって、止めようがなかった」
俺が言うと、エリカはため息をついた。
「りりんは何考えてこんなことやったの?」
「わからない。成功したら教えてくれる約束になってる……どうしても、やらなくちゃいけなかったらしい」
「あの子がお金や人気のために無茶するとは思えないし……お兄さんがダンジョンで行方不明なんだっけ?」
りりんの「下のお兄さん」は、経験もないのに地元のダンジョンに入って出てこなかったのだ。
「関係はありそう。スキルを手に入れて、お兄さん探しに行くって言ってたし」
「手に入ったの? スキル」
「わからない。最初からパルクールは半端ない動きだし」
あれがスキルだとしても、ダンジョン探索にはあまり役に立たないだろう。
「りりんには何で雇われたの? また寿司?」
「メニューは決めてない」
俺は半分だけ本当のことを言った。りりんとデートだなんてエリカには言えない。
「エリア24に行くの、来週の月曜にしたいんだけど。いい?」
「わかった」
エリカが圭太と別れてコインパーキングに停めた車に戻ると、どこからともなく女性が現れた。
「エリカ、お久しぶり」
声をかけられたエリカは一瞬立ちすくんだ。
「麗奈?」
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
「恐い家のお嬢様が私に何の用?」
「ヤクザみたいに言わないで。テキヤはお祭り支えて神社さんやお寺さんにご奉仕してるんだから、違法なことなんか何もやってないのよ」
「知ってるわよ、ちょっとからかっただけよ……いま何やってるのよ」
「
「家の仕事、ホントに継いだの? 」
「いまは西松乃会十六代目よ」
府中市を本拠地にして、武蔵野国分寺から八王子まで、お寺や神社の祭礼に出るたくさんの屋台を取り仕切り世話をする『テキヤ』と呼ばれる団体だ。暴力団と違って、反社会的勢力とは見なされていない。
助手席にテキヤの親分である片勢麗奈を乗せ、エリカはインプレッサを走らせた。麗奈の話は少々厄介なことであるらしい、車の中は密談に最適なのだ。
「大学の同窓会、出てるの?」
「入省ですぐあっちに回されたんで、結局一度も……麗奈は?」
「テキヤとヤクザの区別つかなくて、今でもみんな、あたしをヤクザの娘だと思ってるのよ。大学で普通に話してくれたの、あんただけだったし」
「根性ねじ曲がってたから、あんたと合ったのよ」
エリカがそう言うと、麗奈は寂しそうに笑った。
「マトリは辞めたの?」
「顔が割れたんじゃね」
エリカはインプレッサをホームセンターの駐車場に乗り入れた。
「中国でね、いまダンジョンをバカスカ爆破してるんだって」
麗奈が言った。
「わざわざ爆破? 塞ぐだけじゃダメなの?」
「あの国、上から下まで腐りきってるからね。塞いだことにしてワイロ貰って、犯罪組織を見逃すなんて普通のことよ」
麗奈はエルメス・ケリーのバッグからペッツのディスペンサーを取り出して、タブレットをつまみ出して口に入れた。
『あのバッグ、確か300万か400万するよね……』
そのとんでもない高価なバッグから取り出したペッツを、麗奈は何気ない仕草でエリカに勧めた、ヘッドマスコットが白い猫のアニメキャラクターだったのが何となくおかしかった。
「地方の公安が腐りきってるから、中央政府が人民解放軍を使って強硬手段に出ることになって。中に人がいようが何だろうが、お構いなしに爆薬仕掛けてドカン!」
麗奈は手をパッと開いて見せた。
「あんまり派手に爆破したものだから、ダンジョンが全部崩落して近くのマンションが倒壊したなんてこともあるらしいよ」
麗奈はもうひとつペッツを口に入れて、ちょっとエリカに顔を向けた。
「これは、さる筋から聞いた話しなんだけど。中国がそんな状態なんで、日本に逃げてきて仕事をする中国人の組織が増えてるんだって」
「さる筋って?」
エリカが聞くと麗奈は曖昧に笑った。
「さる筋よ……あっちの方の
「なるほどね……ダンジョンで、仕事……」
エリカが言うと、麗奈が小さく頷いた。
「そ、エリカの方面の仕事ね」
ペッツをエリカに差し出しながら、麗奈が続けた。
「どうしてあたしに?」
エリカが聞くと麗奈が肩をすくめた。
「あたしが
「それはどうも……確かに漠然としすぎてるわね」
エリカがため息をついて言った。
「これだけのことだったら、わざわざ出てこないわよ」
エンジンを掛けようとしていたエリカが、手を止めて麗奈を見た。
「この近くに
「墓地にダンジョンがある……」
エリカの声も表情も固くなった。
「あそこが、おかしな事になってるよ。お寺の所有者が変わって、墓地が工事現場みたいになってるの」
麗奈を乗せたまま、エリカはインプレッサを走らせて高琳寺へ向かった。車を降りるのも停めるのもまずいと麗奈が言うので、ゆっくり前を通り過ぎた。
「なに、やってるんだろ?」
「何かしらね? 監視カメラまであるし、見られたくないことらしいね」
お寺の山門は閉じられて『立ち入り禁止』のコーンが立てられ、墓地は鉄囲いで中が見えない。
「ここ
「乗っ取られた?」
「みたいね。こんな土地売っぱらってもたいした儲けにはならないし、代表者は中国系の不動産業者だし」
麗奈が言うと、エリカの眉間に深い皺がよった。