その日、凛は珍しく疲れて帰ってきたみたいだった。冬の寒い日だったのに手袋をつけてなくて、朝は巻いていたはずのマフラーも彼女の首元には見当たらなかった。いつものように玄関に迎えに出たけど、彼女と目が合うことはなかった。
「おかえりなさい」
「ただいま…」
「どうしたの?なんか元気ない?」
「ううん、大丈夫。ごめんね」
凛から荷物を受け取って、少し先を進む凛を追いかけた。彼女は洗面所で手だけを洗うと、小さなため息と一緒にストンとベッドの上に腰を下ろした。私はキッチンに向かってパッとお湯だけを沸かしてすぐに彼女の横に座った。
何があったのかは分からないが、悪いことが起こったと言うのは明白だった。聞かべきか聞かないべきか迷って、私はしばらく彼女の横で黙っていた。最初に口を開いたのは凛の方だった。
「あのさ、侑希」
「ん?」
この時凛はもうすでに誕生日を迎え、成人になっていた。本当はずっと、一緒にお酒を飲めるのを楽しみにしていたのだが、レッスンや声に支障が出たらいけないからと、お酒は飲まないと言っていて、それが少し残念だったのは彼女には秘密だ。凛が酔った姿を見てみたいという気持ちはあるが、だからと言って彼女のアイドルとしての姿勢を邪魔する気は一切なかった。だから凛の前でお酒を飲むことはなかったし、家にも置いていなかった。
「ちょっとさ、コンビニ行かない?」
「え、コンビニ?」
「うん。お酒飲んでみたい」
「え、今?」
凛の意外な発言にその時の私は困惑していた。あんなに飲まないと言っていた凛が急にそんなことを言い出したからだ。自暴自棄になっているのかもしれないけど、私の中には酔った凛が見えるというワクワクもあって、わたしは彼女の言葉に小さく頷いた。
「いいわよ。じゃあ、コート持ってくるわね」
「ありがとう」
彼女にコートを羽織らせて、私もダウンを着た。玄関のところでぼーっと立ち尽くしている彼女に無理やり手袋とマフラーをつけさせて、わたしも同じような格好をすると鍵をポケットに入れた。
外は雪が降りだしたみたいで、傘を持っていなかった私たちは少し走って近くのコンビニへ向かった。
「どのお酒が美味しいの?」
「えっと、初めてならこの辺かなぁ。わたしもそんなに詳しくないんだけど…」
「わたしってどれくらい飲めるんだろう」
「凛のお母さんはお酒強い方?」
「うん。お父さんも結構強かったって、前にお母さんが言ってた気がする」
「それならそれなりには飲めそうね。結構酔ってみたい?」
「うん。明日は仕事ないし」
「じゃあこの辺も買ってみるわね」
わたしはみたことあるものをいくつかカゴに入れた。そして適当に選んだアイスやおつまみになりそうなものも入れて、レジに持って行った。
缶がたくさん入ったレジ袋は結構重くて、凛が多い方を持ってくれたけどそれでもなかなか走って帰るのは厳しいくらいには重かった。家に着く頃には2人とも真っ白になっていて、私は走ったからそれなりにあったかくなっていたのだが、同じように走ったはずの凛の手は驚くほどに冷たかった。
「凛、風邪ひいちゃうわ。お風呂入れ直すから、入ってきて」
「うん。ありがとう」
凛を無理やりお風呂場に入れて、わたしはさっき買ってきた缶を冷蔵庫に、アイスを冷凍庫にしまった。
どれくらい飲ませていいものかと考えているうちに、髪が濡れたままの凛がお風呂から上がってきた。
「ちょ、髪の毛。どうしたの?」
「拭いただけで出てきちゃった」
「ちゃんと乾かさないと風邪ひくわよ。ほら、こっちきて。乾かしたげるわ」
「ありがとう」
ソファの下に凛を座らせて、私はドライヤーを手に取った。電源をつけるとブーンと音が鳴ってあったかい風が凛の髪の毛の間をすり抜けていく。誰もが羨やむようなこのサラサラのストレートヘアにこんなふうに触れられるなんて、ファンが聞いたら怒り狂うだろうか。
全部を乾かし切る前に、凛の頭がこくりこくりと前に傾いていて、眠くなってきたのが分かった。どうやらずいぶん疲れていそうだし、お酒を飲むのは諦めて今日はぐっすり眠った方がいいかもしれない。
「凛、眠い?そろそろ寝る?」
「ん、んん…ごめん」
「構わないわ。今日は寝ましょ」
そう声をかけてソファーから立ちあがろうとすると、座っていた凛がおもむろにたちあがって、私の腕を掴んだ。
「どうしたの?」
「お酒、飲みたい」
「え?無理しなくていいのよ?」
「いいから。飲も?」
そう言ってキッチンの方へ消えていった凛。私は洗面所にドライヤーを置いてから、彼女の背中を追いかけた。
冷蔵庫の前に屈んで中身の缶を取り出している途中の彼女から、数個缶を分けてもらって私たちはソファーに座った。
「どれから飲めばいいんだろ」
缶をくるくるまわして表示をみている凛に、私は度数の弱いものを手渡した。
「下になんパーセントって書いてあるでしょ?例えばこれだと3%。これがアルコールの度数なの。3%ならそんなに酔わないから、飲んでみて」
「分かった」
2人で缶を合わせて乾杯をする。私が選んだのは5パーセントのお酒だった。そんなにお酒に強いわけではないが、今日はなんだか飲みたい気分だったのだ。
ゴクっとひとくち口に含むと、アルコールのきつい匂いがすぅーっと通り抜けていった。この味にはなかなか慣れないが、その後に来るポワポワした気持ちよさに紐づけられてお酒を飲みたくなってしまうのだから、人間の体というのは厄介なものだと思う。横を見ると凛も同じように一口飲んでいるところだった。
「どう?飲めそうかしら」
「うん。全然お酒って感じじゃないんだね。ジュースみたいで飲みやすい」
「良かったわ」
2人でテレビを見ながらぼちぼち飲んでいると、そのうちに私はポワポワしてきて酔っ払ってきたのが分かった。そろそろ水を飲んだ方がいいだろうと思い冷蔵庫からペットボトルを2本持って部屋に戻ってくると、凛の手元には最初の缶とは別にもう一缶、少し強い度数の缶が空になっていて、もう次のものに手をかけているところだった。私は慌てて彼女のところに駆け寄るとその缶をとった。
「ペース早すぎ。ほら、水持ってきたから飲んで」
「そう?まだ全然酔った感じしないけど」
「遅れてくるのよ。いいから飲んで」
最初はペースがわからなくてどんどん飲んでしまって、後から倒れるということがよくあると聞いた事がある。普通の大学生なら飲み過ぎで二日酔いは笑える話で済むかもしれないが、凛はアイドルだから何かあったら責任が取れない。私は内心ヒヤヒヤしながら、彼女にゆっくりとペットボトルの水を飲ませた。
「どう?大丈夫?」
「うん、全然」
もう30分くらい経ったけど、凛が酔ってる様子はない。やはり本人が言うようにお酒に強い体質なんだろうか。私のほうはどんどんアルコールが回ってきたのか頭がうまく回らなくなってきて、そんな様子のまま新しく缶を開けた。
話は思っていた以上に弾んで、時計を確認するともう日付が変わってから長針が2周ほど回った時だった。なんだか眩しく感じて部屋の明かりを少しだけ落とすと、横にいた凛がコツンと頭を私の肩に預けてきた。久しぶりのスキンシップに心が舞い上がるのが分かったけど、悟られないようにして私は水をひとくち口に含んだ。
「眠くなってきちゃった」
「歯磨いて寝る?」
「うん」
私たちはそうして、歯を磨くために洗面所に向かった。