最近夏休みが終わった侑希とは時間が合わないことが増えた。夏休みに子どもと触れ合うバイトをしていた彼女はどうやら学校の先生を目指しているらしい。空きコマもだいぶ少なくなってるみたいだし、家に帰っても勉強している姿を見ることが増えた。彼女がやりたいことを見つけたのは嬉しいと思う反面、少しだけ寂しい。そんな気持ちはグッと飲み込んで、私は家に帰ると彼女のために、ミルクと蜂蜜をたっぷり入れた紅茶を用意した。
「あ、ごめん。ありがとう」
見ていたらしい参考書から顔を上げた侑希は、お風呂に入った後だからメガネをかけていて、普段は見ないその姿に心臓がどきっとするのが分かった。ちょっとした変化にすぐに心臓が跳ねてしまうこの厄介な現象はなかなか治ってくれないみたいだ。侑希の方はそんな私を見て、少し首を傾げた。私、そんなに変な顔をしてたのか?
「仕事で疲れて帰ってるのにごめんね」
「ううん。最近頑張ってるね」
「そうなの。目標があると頑張れるわ」
「そりゃいい」
少しそうやって雑談をしていたところで、先ほどベッド脇の充電器に繋いだばかりのスマホがゆるく揺れる音が聞こえた。すぐに反応してしまうのは、仕事病とでもいうんだろうか。私は侑希からくるっと体を後ろに回して、スマホを手に取って確認した。表示された名前はナツさんからのものだった。もう随分と遅い時間だから、嫌な予感がする。私は侑希に軽く断りを入れて廊下に出た。
「もしもし」
「あ、もしもし。蒼さんですか?」
「うん。こんな遅くにどうしたの?」
「あのですね、今周りに誰かいますか?」
「いや、家だけど。侑希が部屋にいて、私は廊下に出てるよ」
「分かりました。ちょっと今から外に出ることってできますか?」
「え、外?いけるけど…」
「何があるか分かりませんから、すみません。もうすぐ家に着くので、ついたら連絡しますね」
「分かった、待ってる」
ナツさんの電話を切ってすぐに部屋に戻ると、不安そうな顔をしている侑希と目があった。
「どうしたの?何かあった?」
「ナツさんに呼ばれたんだ、多分ダンスレッスンのことかな?大したことないよ」
「こんな遅くに?出るの?」
「うん。多分遅くなるから、侑希は寝ててね」
「分かったわ…」
ダンスレッスンが嘘だってことは、もう彼女にはバレてるんだろう。不服そうな顔をしながらも彼女は、玄関に向かう私の後ろをゆるゆるとついてきた。
「ほんとに寝てて良いからね」
「分かってるわ。遅いから気をつけて」
「うん。ありがとね」
彼女から鍵を受け取って靴を履く。出る直前にゆるく手を振って家を出た。外の廊下を歩きながら下を見ると、ナツさんの車が止まってるのが見えてそのすぐ後にスマホに通知が入った。
エレベーターを降りながらスマホでナツさんに今降りると連絡をして、一階に着くとすぐにナツさんの車に乗り込んだ。ナツさんはすぐに車を走らせた。
「お疲れ様です。こんな遅くにごめんなさい」
「いや、寝てなかったから大丈夫だよ。どうしたの?」
「こないだ、蒼さんが女の子だと分かるようなコメントをしてるリスナーがいるって話があったじゃないですか。結構前になるんですけど、覚えてますか?」
「もちろん。それがどうしたの?進展があったの?」
「はい、あれから事務所の何人かでずっと出どころを調べていたんですけど、あれを打ち込んだ人が分かったんですよ」
「で、誰だったの?まさか私が知ってる人?」
「はい、それが…」
ナツさんが教えてくれたのは、高校の時に仲が良かった遥香が通う大学の子らしい。遥香とはしばらく連絡を取ってないしどうやって過ごしてるのか分からないが、おそらく彼女がそのコメントを書いた子に私のことを喋ったのだろう。遥香自身はちょっと強引なところがあるが、わざわざネットに書き込んだりする性格ではないはずだ。
「遥香さんとは高校時代、仲が良かったのですか?」
「うん。普通に良かったよ」
「じゃあもしかすると、その友達がアンチとかかも知れないですね。遥香さんはなんとなく話してしまって、みたいな」
「そうだね」
私も告白されてから関わり方が分からなくてそっけない態度をとってしまった記憶はある。だからと言って、遥香はそんなことをしないはずだ。
ナツさんの車はわたしの住む街を抜けて、海の方へ向かって走っていた。お昼頃から天気の悪い外を眺めながらわたしはこれからどうしようと考えていた。書き込んだ人物が誰かわかったのは大きな進歩だが、だからと言って直接その人に、わたしが女の子であることを言いふらすのをやめろということはできない。車にはしばらく沈黙が流れていて、ぽつりぽつりと雨がふりだしていた。