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第57話 (凛side)

侑希を泣かせてしまった。

目の前で啜り泣く彼女に指一本触れることすらできず、私はゆっくりとベッドを降りた。一緒の場所にいることさえ、今の私には許されない気がした。

彼女の様子を伺いながら、泣き声が消えた頃に私もソファーに横になった。さっき彼女のお腹に直接触れた感覚だけがやけに鮮明に残っていて、自分の手がここまで憎らしいと思ったのは初めてだった。


自分なら何をしても侑希は受け入れてくれるんだと、どこかで過信していたのかもしれない。侑希に触れた瞬間、彼女はひどく怯えた顔をしていた。初めて見る顔だった。その目の奥には確かに、私への嫌悪感が透けて見えていた。

あの瞬間、私は彼女に何をしようとしていたんだろう。

そんなこと、考えたくもなかった。


侑希が意地っ張りなのは今に始まったことじゃない。今日出かけていたのも本当に眠れなかっただけだろうし、普段からこんなことをしてる訳じゃないのは分かってる。

門限だって、侑希の言う通り設定する年齢じゃないし、そもそも私に、彼女の行動をそこまで制限する権利もない。

ただ私は、侑希の、自分を大切にしない態度が許せなかっただけ。

本当に襲われたら、彼女はきっとされるがままだろう。そうなったら私は、自分を許せない。

そうやって思う気持ちは本心のはずなのに、自分がさっきやろうとしたことを考えると、こんなこと言えなかった。結局悶々とそんなことを考えていて、私が眠りについたのはカーテンの外がうっすらと明るくなってからだった。


くしゅっ、と自分のくしゃみで目が覚めた。慌ててソファーから身体を起こすと、ベッドの上の毛布は少し膨らんでいて、まだ侑希が眠っているんだとすぐにわかった。

毛布なしで寝るには少し寒かったらしく、私はセーターを上に着て、暖房の温度を上げた。

時計を見ると、もうお昼前だった。休みの日はいつも侑希がご飯を用意してくれて待ってくれているから、1人で起きる休日は久しぶりのことだった。

私は静かに部屋を出て、キッチンへ向かった。


侑希が起きたら昨日のことを謝ろう。それから、少し話をしよう。まずは機嫌を直してもらうために、朝ご飯を作ってあげないと。そう思っていたのに、机に置かれていたものを見て私は思わず立ち止まってしまった。


プレートの上に並べられた小さめのおにぎりが2つと、卵焼き。それから野菜がたっぷり入ったお味噌汁。

今日の朝、2人で帰ってきた時には確かになかった。ラップがかけられたそれらを触るとまだほんの少しだけあったかい。2人分あるということは、彼女もまだ食べてないということだ。自分で作ったのに食べずにもう一度寝るなんて。

胸がギュッと締め付けられる感覚がした。申し訳なさでいっぱいになった。

侑希は私が思っていた以上に健気で、まっすぐで、優しすぎる子だった。私の身勝手な独占欲で、行動を縛り付けていいような人じゃない。


用意されたご飯をレンジであっためて、椅子に座った。手を合わせていただきますをして、パクッとおにぎりを頬張る。中からは大きめの明太子が出てきて、あまりのおいしさにすぐにひとつ食べ終えてしまった。卵焼きも出汁がきいていて美味しい。二つ目のおにぎりは私が1番好きなシャケで、それをお味噌汁と一緒に流し込む。

あっという間にご飯を食べ終えて、私は手を合わせてごちそうさま、と1人でつぶやいた。

彼女の作るご飯は、世界で1番美味しい。でも、今日は何か足りない気がした。お皿を洗いながらそんなことを考えていると、いつもより少し早く洗い終わった理由に気がついてハッとした。

彼女がいないからだ。この家に住むようになって、ご飯を食べるときはいつも横に彼女がいた。実家にいたときは、お母さんも兄弟も、もう食べ終わっていたり寝ていたりして、一緒に食べることはあまりなかった。それなのに、侑希は必ず、私のご飯の時間に合わせてくれていた。

目の前に彼女がいないだけでこんなにも変わるのか。

普段2人でそろってご飯を食べられるのは、いつも彼女が私のことを待ってくれていたからだということに、どうして今まで気づけなかったんだろう。

水切りラックにあげた1人分の食器を見て、私はすぐに彼女のいる部屋へ向かった。


そっと部屋の扉を開ける。ベッドの上で顔と足をぴょこんと出した彼女のお腹は、規則正しく上下している。暖房の温度を上げたから暑くなったんだろう。

私がいつもしてもらってるみたいに、彼女のこともたっぷり寝かせてあげたかったけど、私はあえてベッドに上がって彼女の肩をトントンと優しく叩いた。

「侑希、」

「ん、、」

「もうお昼だよ。これ以上寝たら、また夜寝られなくなっちゃう。起きられる?」

「んんっ…」

寝ぼけて反応が薄い彼女。うっすら開いては閉じてしまった瞼が愛おしかった。

「侑希、昨日はごめんね」

寝ている彼女に声をかけると、少し遅れて言葉の意味を理解したのか、プイッとこちらに背を向けてきた。本気で怒ってる訳じゃなさそうで、ひとまず安心する。

ゴロンと侑希の後ろに私も寝転んだ。そのまま抱きついてしまおうかと思ったけど、ふざけてると思われたくなかったからやめておいた。

「本当に心配だったの。深夜だったし、私も侑希を見つけるまでは不安でいっぱいだったから」

「……」

「だから帰ってから、カッとなってあんなことしちゃった。でも、するべきじゃなかった。門限だって、私が作っていいものじゃないよね。嫌な気持ちにさせちゃって、本当にごめん」

私がそう言うと、彼女はのそのそ動いてようやくこちらを振り返った。

「わたしも、ごめん……」

目線をゆらゆらさせながら、彼女は小さな声でそう言った。小さい子が怒られて謝ってる時みたいな彼女の表情に、変なところでキュンとしてしまう。顔がいいのに無自覚でこういうことをしちゃうから、私は心配なんだよっ!

心の中ではそう言いながら、私はできるだけ自然に彼女を抱きしめた。すぐに彼女の手が控えめに私の腰にまわってきて、許してもらえたことにホッとした。


ご飯のお礼を言って、私は、目の前で遅めの朝ごはんを食べてる侑希をじっと見ていた。あんまり夢中になって見ていたからか、それに気づいた侑希が、何かを疑うような目で私の方を見てきた。

「な、なに見てるのよ」

「侑希のかわいい顔」

「……」

「何か言ってよ笑」

「寝起きだし、かわいくない…」

私からしたら、あんまり開いてない目も、ちょっと寝癖のついた髪も、十分かわいいんだけどな。

でもそれを言ったらまた否定されてしまいそうで、私はニコニコしたまま首を横に振るだけにしておいた。


その日は結局どこにも出掛けることなく、2人でダラダラと休日を謳歌した。溜めていたアニメを見たり、買ってあったプリンを食べたり、2人で並んで過ごす時間はあっという間に過ぎていく。

ふと、カレンダーに目を移す。

あと数週間経てば今年も終わる。前は早く大人になりたくてたまらなかったのに、いざ成人を迎える年に近くなってみると、歳をとるのが少し怖い。

学歴を捨てて将来の約束されてない職場に飛び込んだことに後悔は全くないが、それでも先のことを考えずにのうのうと生きてられるほど私も馬鹿じゃない。今はそばに侑希がいてくれるけど、いつかそうじゃなくなったら。

隣に支えてくれる人がいない生活なんて、想像がつかない。お父さんが死んだとき、お母さんはどれだけ傷ついたんだろう。どれだけ不安だったんだろう。

「凛、どうしたの?」

突然、横にいる侑希に声をかけられる。

「え?」

「なんか険しい顔してたから。朝からちょっと鼻声だし、もしかして調子悪い?」

こちらを覗き込む侑希から、私は慌てて目を逸らした。

「昨日夜寒かったからかな」

「え?あ、」

昨日私がソファーで寝たことを思い出したのか、途端に気まずそうな顔になる侑希。

分かりやすく変わった表情が可愛い。

「ごめん……」

「なんで侑希が謝るのさ。そんな顔しないでよ。ね?」

ぽんぽんっと頭を撫でて、羽織っていたブランケットを侑希の肩にかけてやる。もうそれ以上のスキンシップなんていくらでもしてるのに、私の行動ひとつで少し赤くなってくれた耳にすごく安心した。いつまで私のこと好きでいてくれる?って聞くことができるなら、どれだけ安心できるんだろう。

「侑希はさ、将来なにになりたいの?」

「うーん。まだ迷ってるわ。やりたいこととか、よく分からなくて」

「そっか。そうだよね。こないだまで高校生で勉強勉強言われてたのに、大学生になった途端にもう将来のこと考えなきゃいけないなんて、大変だよね」

「うん。私も凛みたいに、夢とか目標とか、あったらよかったんだけど…」

「これからちょっとずつ探していかなきゃだね」

「そうね…」

歯切れの悪い返事をして不安そうに俯いた侑希。こうやって、未来に対しての漠然とした不安を抱えたままみんな少しずつ大人になっていくんだろうか。

来年の春には侑希が、夏には私が、20歳の誕生日を迎える。誕生日プレゼントはなににしようか。一緒に暮らしてるんだから、今までの誕生日よりちょっといいものを贈っても引かれはしないだろう。

暗いことばっかり考えてても良くないと思い、私はスマホをタップして、ブックマークをつけていたアクセサリーのページを開いた。

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