こんな時間に外に出たことなんて、ここに引っ越してから一度も今までなかった。この辺は治安が良くて助かるなと思いながら鍵を閉め、エレベーターに向かって歩く。
チーン、と大きめの音が響いて、誰か起きてしまわないだろうかと顔を顰めながらマンションを出た。
外は思っていた以上に寒くて、たまに思い出したように吹く風がコートの隙間をすり抜けていった。11月の寒さを舐めていたことを後悔しながらも、私はマンションの周りをくるっと一周することにした。
「侑希もそろそろ将来のこと考えないとだな」
こないだ久しぶりに電話をかけてきたお父さんに言われた言葉を思い出す。大学4年間はきっと、私が思ってる以上にあっという間に過ぎる。
将来、私は何になりたいんだろう。
最近ずっと考えていることが、頭を過ぎる。
大学は名前で選んだから興味がある分野も特にないし、どんな仕事も正直ピンとこない。その点、同居人の凛は、今の仕事を続けるのだから悩まなくていいのがすこし羨ましい。将来性はなくたって、もう私が一生で稼ぐくらいのお金は稼いでいるんだろう。彼女はそんなこと口に出さないし、身につけるものもそこまでこだわっていないから、具体的なことはなにも知らないのだけど。
黙々と歩いていると、マンションのまわりを歩く予定だったのに、いつの間にか少し離れた公園に来ていた。コートの中に突っ込んでいた手は冷え切っている。もう一枚下に着てくるべきだった。
手を擦り合わせながらそろそろ引き返さなきゃなと思いふと横を見ると、弱々しい光を放っている自販機の中で、コーンポタージュがあるのが見えた。
懐かしい。いつだったか、公園で凛が買ってくれたんだっけ。私はあの日初めて、缶でコーンポタージュが売られていることを知った。とんだ世間知らずだったものだ。
そうやって思い返すと、凛は私にたくさんの初めてをくれたことに気づく。
ポケットの小さな財布から小銭を取り出して自販機に入れ、コーンポタージュのボタンを押した。
ゴトっと音がして、黄色い缶が出てくる。それを両手で包み込むと冷たくなっていた手がじんわりとあったまっていった。缶を開けて、こくっと一口飲んでみる。
やっぱり美味しい。でもどうせなら1人じゃなくて、凛と2人で飲みたかった。
飲み切って缶を捨てた後、近くにあった公園の時計を見ると3時前になっていた。いくら外の空気を吸うって言ったって、そろそろ帰らないとだ。
公園を出てマンションに向かって少し早足で歩いていると、前の方から人影が見えてきた。すこし焦った様子でこちらに向かってくる人影は普段なら気にも留めないようなものだが、なんてったって今は深夜の3時。こんな時間に走ってこっちに向かってくるなんて、普通じゃない。そう思った瞬間、ゾワっと冷や汗が背中を伝うのがわかった。
追いかけられたらどうしよう。でも、ここで折り返すと家がもっと遠くなってしまう。スマホも持ってないし、凛を呼ぶこともできない。
立ち止まってそう考える間にも、どんどん人影は近づいてきて、私はついに怖くて動けなくなった。そうしてその場でぎゅっと目をつぶった時、
「侑希!?」
聞き覚えのある声が聞こえてきて、私はすぐに顔を上げた。
「りんっ」
凛に会えた安心から少しだけ涙が出て、そんな私の身体を走って駆けつけてくれた凛がすぐに抱きしめてくれた。
「なんでこんな時間に外に出てんのさ」
家に向かって2人で歩いていると、凛が心配した様子でそう訊ねてきた。
「眠れなかったから。凛は?」
「ちょっと目が覚めて横見たら侑希がいなくて。スマホはベッドのとこに置いてあるし、トイレかと思ったけど全然帰ってこなくて、家の中に気配もないし。玄関に靴がないの見て、慌てて家を飛び出したんだよ」
「わざわざこんなとこまで?」
「当たり前でしょ。女の子がこんな時間に1人で外歩いたら絶対にダメ」
「凛だってたまにこんな時間に帰ってくるじゃん。打ち上げの後とか…」
「あれはマネージャーに家の前までちゃんと送ってもらってるから。今回とはわけが違うでしょ」
普段は温厚なのに、珍しく少し不機嫌そうにそう言われて、私はムスッとしてしまった。
「私だってもう子供じゃないわ。別に1人で歩いてたって、変な人が来たら逃げ切れるわよ」
「さっき腰抜かしかけてたのは誰?」
「さっきのは別にそんなんじゃ」
「明日から10時が門限ね」
少し前を歩く凛にピシャリとそう告げられて、私はブンブンと横に首を振った。
話すのに夢中になってるうちに、いつの間にかマンションの前まで来ていた。私たちは急ぎ足でエレベーターに乗り込んで、自分達の部屋がある階を押す。
「10時って、凛がまだ家に帰ってない時もあるじゃない。それに、私が高校生の時には門限なんてなかったわ。」
「つべこべ言わない。帰ったらLINEで連絡すること。友達と遊ぶ時は言ってくれたら、その日はいいにするから」
「そんなのおかしいわ。なんで凛は良くて私はダメなのよ」
エレベーターを降りて、凛が私の部屋の鍵を開ける。私が先に家に入れられて、凛は慣れた様子で後ろ手で鍵を閉めた。
「私は仕事。だけど侑希は違うでしょ?」
コートを脱いで2人でベッドに向かう。凛が言うことに納得がいかない訳じゃないが、私の方もなんとなく引き下がれないところまで来ていた。
「そんなの理由になってないわ」
私の言葉に凛は、はぁ、と分かりやすくため息をついた。そしていきなりグイッと腕を掴まれ、バランスを崩した私はそのまま後ろにあったベッドに尻餅をついた。
「ちょ、な、なにすんのよ!」
「ほら、全然抵抗出来てないじゃん」
舐めた様子で上からそう言われ、私の頭にカッと血が昇る。私も凛の腕を掴んで全体重をかけて引っ張ると、突然の出来事に流石の彼女もフラッとして、手をベッドについた。
「ちょっと力があるからって、調子に乗らないで。凛だって所詮、ただの女の子でしょ。」
煽り返していい気になっていたのに、横の凛はなにも言わない。そして、そのまま無言でサイドランプが消されたと思ったら、急に肩が強い力で押され、私は呆気なくベッドに押し倒された。
「やめてよっ、ちょ」
遠慮なく私の上に馬乗りになった凛。暗がりではその表情がよく見えなくて、どうしようもなく不安になる。
「ねぇ、侑希。このままこうやって、男の人に襲われちゃったらどうすんの?」
「抵抗くらいできるわよっ!」
「なら、してみなよ」
聞いたことないくらい低い声でそう言われて、目が潤む。なんでこんな事になってるかわからないけど、ここまできたら黙ってられない。私は凛の腰を掴んで、思いっきり身体を捻って抜け出そうとしたが、力の差は歴然。最初から勝てる試合じゃなかった。
「それで力入れてるつもり?」
「うるさいっ」
「こうやって、手入れられてさ」
抵抗が許されないまま、乱暴な手つきで部屋着と一緒にシャツが捲り上げられていく。突然のことに驚いて、彼女の手を必死に掴んで止めさせようとするけど、止まってくれない。
「やっ、やめて」
私に馬乗りになってる凛は私の声に聞く耳なんて持たず、暴れていた手は片手で簡単にひとまとめにされ、ベッドに押さえつけられた。
「ねぇ、どうすんの?」
「ひぅっ」
「可愛い声なんか出しちゃってさ。襲われた男の前でも、そんなことすんの?」
凛の少し冷たい手がお腹に触れて、それにビクッと反応してしまう。上にいるのは凛だけど、凛じゃないみたいで怖い。こんなの、いやだ。
「もっ、やだっ…」
気付いたらぼろぼろ涙が溢れ出して、私は凛に乗っかられたまま泣いていた。
私が泣いてることに気がついた凛が慌てて私の上から退いて、私の頬に触れようとして、でもすぐに手を引っ込めてしまった。
「泣かすつもりじゃなかったんだ。ただ、」
「うぅっ…」
「ごめん、侑希…」
私は泣いたまま毛布を被った。外から何度も謝る声が聞こえたけど、話す気にはなれなかった。
怖くて、すごく嫌だった。凛だったとしても、こんな風に触れられることが嫌だなんて知らなかった。いろんな気持ちがごちゃごちゃになって、悲しくて、怖くて、私はずっと泣いていた。そして泣き疲れて寝てしまった。