初めてうちに来た時、帰り際になって「次会った時にハグしよう」なんて、なんともない顔で抜かしてきた凛。そのせいで私は次に会うまでの一週間ずっとドキドキしていて、前日はうまく眠れなかった。
土曜日の午後から会う約束をしていたため、午前中は自分の部屋でひとり、星空蒼の配信をチェックしていた。
こうやって画面を通じて見ると、星空蒼と凛とは本当に別人みたいに感じられる。前髪が上がっているだけで、少しメイクをするだけで、人はこんなにも変わるのかと感心してしまうくらいに。
でも、ふと出てしまう素の笑い方や咳払いは、やっぱり凛のそれで、そんな自分しか知らない秘密に、どこか優越感を感じてしまう。
配信も終わって数時間経った昼過ぎ。私は凛にメッセージを送った。
[配信お疲れ様。今日は何時くらいに来れそう?]
返信はなかなか来なくて、スマホをいじったり課題をしながら待ってみるけど、どうしてもLINEの通知が気になってしまう。なかなか赤いマークがついてくれないLINEのアイコンを眺めながらベッドに寝っ転がる。
そうこうしているうちに、私はベッドの上で寝落ちしてしまったらしく、ピコピコッという通知の音で目が覚めた。
[ごめん、返信遅くなって。これから事務所出るから]
時計を見れば17時前。アイドルだから、配信以外にもたくさん仕事があるんだろう。
私は[お疲れ様、何時でもいいわ。待ってる]と返信して、スマホを伏せると、軽くシャワーを浴びるために一階に降りた。
何度もチェックした服にお気に入りの香水をつけて、自分の部屋でソワソワしながら待っていると、凛からメッセージが送られてきた。
[もうすぐつくー]
私はそのメッセージを見るなり、慌てて階段を駆け降りて、玄関の前でスマホを見ながら待機する。
数分後、ピンポーンとインターホンの音が聞こえた。私はいじっていたスマホからすぐに顔を上げて、勢いよく扉を開けた。
「よっ」
深く帽子を被った凛が、そっと手を上げてこっちを見た。挙げられた前髪、配信の時からは少し崩れているものの、はっきりした目鼻立ちをさらに強調させるメイク。
今日は凛じゃない、星空蒼だ。
「ど、どうも」
「なにそれ笑。なんでそんな他人行儀なの笑」
「別に、これが普通よ」
ふはっ、と口元を押さえて笑った凛、じゃなくて蒼くん。ドキッと心臓が鳴ったのが自分でもわかった。
「おじゃましまーす」
「はーい」
2人で一緒に私の部屋に入ると、凛はバタンとソファーに倒れ込んだ。
「うわぁ〜、疲れたぁ〜」
「ちょっと、凛ってば」
「疲れたんだよー、今日は」
うつ伏せからくるっと体を回して、ソファーの上で仰向けになった凛。
いくらなんでもくつろぎすぎじゃ…。でもきっと、今日はそれくらい疲れてるんだろう。
普段の凛がこんな事してるなら叩き起こしてるかもしれないけど、今日は蒼くんだし、私の気持ち的に簡単には手を出せない。
そんな凛を、ソファーの横で立ったまま見つめていると、凛がおもむろに手を左右に大きく広げた。
「おいでー、侑希ー」
「な、なによ」
「こないだの約束。次会う時、ハグするって言ったでしょ?」
「ぅっ…」
「ふはっ。恥ずかしい?」
「ちょ、と、トイレ行ってくるわ!」
「はーい笑」
階段を降りてトイレに駆け込む。
鍵をしっかりかけて体を壁に預ける。
むりむりむり。やっぱり、ハグとか絶対できない。だってそんなの、良くないじゃん。ファンが推しとハグなんて、そんなの許されないじゃん。私の中の天使が、そう言って必死に私を説得している。
でも…。私はどうせ、弱みを握るなんていうファンとして最悪なことをもうしてしまってるんだから、いっそ出来ること全部した方がいいのか…?こんな機会ないだろうし、向こうが持ちかけてきた話なんだし…。
いや、やっぱり無理よ!!
出来ないと分かった以上、いつもよりバカになった頭をフル回転させて、この場を切り抜ける方法を考える。
ていうか、こんなにトイレいたら怪しがられる。私はわざとトイレを流して、そのままキッチンに向かった。
なんだかんだと色々考えているうちに、名案が浮かぶ。そうだ、お菓子で釣ろう。
一旦、ケトルでお湯を沸かした後、戸棚の中を覗く。ここには貰い物のお菓子が食べきれないくらいたくさん置いてある。その中から、無難なクッキーを選んで、紅茶のティーパックと一緒にお盆に乗せた。カチッと音が鳴って、お湯が沸いた。私はケトルもお盆に乗せて、階段を上がった。
「おっ!おかえりー」
凛はソファーに座って漫画を読んでいた。私はさっき持ってきたお盆を置いて、ティーパックにお湯を注ぐ。
「え、クッキー?!」
「そうよ。この紅茶も飲んで」
「ほんとに?!嬉しい!!」
凛は漫画を横に置くと、私が出したクッキーをパクッと一口かじった。
「ん!!めっちゃ美味しい!」
「そう。良かったわ」
私がカップを渡すと、凛はすぐに口をつけた。
「あっちぃ!!」
「少し冷ましてから飲みなさいよ」
舌を出しながら涙目になってる凛に呆れてそう声をかける。
「なんか侑希、お母さんみたい笑」
「落ち着きないあなたが、子供みたいなだけよ」
「うぇーん」
「もう、めんどくさい赤ちゃんね」
そのあとはソファーの上で横に並んで、この前みたいにおしゃべりをした。ハグのことを忘れさせる目的は上手くいって、なんなら私だって忘れてしまっていた。
スマホの画面を見せるために凛が私に近づいてきて、その瞬間、ふわっといい匂いがした。香水みたいな強い匂いじゃなくて、多分、柔軟剤の匂いだ。
握手会で初めて会った時の匂いと一緒で、なんだか緊張してしまい、私はスッと凛から距離を取ってしまった。凛はそんな私の行動に少しだけ反応したが、すぐに話の続きをし始めた。
さっきまで凛と喋っていたつもりだったのに、意識した途端、私の推しが隣に現れる。脳がバグる。隣にいるのは、星空蒼だけど、星空蒼じゃないんだから。
色々考えていて、凛の話を全く聞いていなかった。そのうち、喋る声が止まったことに気づいて横を向くと、凛がジト目でこっちを睨んでることに気づいた。
「え、なに?」
「なんかさ、今日距離遠くない?」
「そ、そんなことないわ」
「こないだ結構仲良くなれたと思ったんだけどなぁ〜。私の勘違いだった?」
コトっと首を傾けて、こっちを見る凛。
だって今日は、蒼くんだから。そりゃ、こないだみたいに簡単に近づけるわけないでしょ。
私が目線をあちこちに、行ったり来たりさせていると、凛は私の変化の理由に勘付いたのかニヤッと笑った。
「あ、わかった〜」
「な、なによ」
「この髪型とメイクのせいでしょ。今日は蒼くんだから」
私が言い返せないでいると「もー、単純なんだから」って言いながら、凛はソファーの上で一気に距離を詰めてきて、私の肩に頭を預けた。
「ちょっ」
「ほら、よろこべよろこべー。大好きな蒼くんだぞー」
「なによ、それ」
「だって侑希は、蒼くんが好きなんでしょ?今日は蒼くんなんだから、堪能しときな〜」
「生意気なやつ…」
私に頭を預けて、また漫画を読み出した凛。そんな彼女になんだか少しだけムカついて、その頭を小突いてやると「いてっ」と、別に痛くなさそうな声が返ってきた。