本校舎一階の1番奥に保健室がある。
奇跡的にそこに着くまで、一度も先生に会わなかったので、私達は誰にも怪しまれることなく、授業中の静かな校舎の中を移動する事ができた。
保健室の前まで来ると彼女は立ち止まって、躊躇うことなくドアに手をかけようとするから、私はすぐに彼女を引き留めた。
「どこも悪いとこなんてないわ。保健室の先生に何って説明するつもりなの?」
「今日は先生休みだから中は誰もいないよ。誰か来たら、ちょっと休んでるフリすればいい」
「授業はどうするのよ。私たちが休むこと、先生に伝えてないわ」
「一時間くらいだいじょーぶ。そっちのクラスの授業なに?」
「古典よ」
「古典の先生、いつも出席ちゃんと取らないから」
「あなたは?」
「今日は午後、物理の先生休みだから自習なのさ〜」
それでも渋る私を放っておいて、彼女は慣れたようにベッドの方に向かうから、私は周りを確認した後にドアをきっちり閉めて同じようにベッドの方に向かった。
ベッドのカーテンを開けて中に入ると、彼女が笑顔でこっちに来いと手招いている。先生にバレたらどうしようという不安で頭がいっぱいだった私は、特に何も疑いもせずに私は彼女の元へと進んだ。
その瞬間、手を強く引かれて、ぐるっと体がまわった。
「きゃぁっ!!」
すぐに背中に柔らかいベッドの感触があって、天井が目に入った。
「ちょっと、そんなおっきい声出さないでよ。誰か来たらどうすんのさ」
「な、何するのよ!!」
「ベッドに寝かしてあげただけじゃん。一応体調不良っていう名目で休むんだからさ」
横になった体に、サッと毛布がかけられる。
「それに月宮さん、本当に熱あるんじゃない?」
「えっ?」
「さっきからずっと顔赤いし」
ベッド脇の椅子に座った彼女は、体を起こした私の顔を覗き込んだあと、急激に距離を詰めてきた。
「な、なに」
無言でどんどん顔を近づける彼女。鼻と鼻がくっつきそうになるくらいまで近づいてきて、思わず目をギュッとつぶった瞬間に、そっと前髪が上げられて、おでこにコツンと何かが触れた。
「熱は、ないか」
遅れて聞こえてきた安心したような声に、私は閉じていた目をゆっくり開いた。
「びっくり、した…」
「あ、もっと赤くなってる」
「か、からかってるの?!」
「ふふっ。月宮さんって、おもしろいね」
「うるさいわよ…」
顔が赤いのを隠すように、私は毛布の中に潜り込んだ。
「ごめんって、からかいすぎた」
「やりすぎよ…」
「顔、出してよ」
私は目もとだけ毛布から出した。目線をずらせば横にいる整った顔が、ニコッと優しく微笑んだ。
「次の授業まで、まだ30分くらいあるなぁ」
「そうね」
「ふぁ〜、眠くなってきちゃった」
「寝たら?」
「いいの?じゃ、遠慮なく」
彼女はそう言うと、私の被っていた毛布を持ち上げて、中に入り込んできた。
「ちょ、ちょっと!」
「んー?」
「なんで同じベッドなのよ!」
「え、隣のベッド行ったら喋れないじゃん」
なんでもなさそうにそう言う彼女。そんなに当たり前な顔をしてそう言われれば、なんだか過剰に反応してしまう私が間違っているような気がしてきて、私は言い返すのをやめた。
「ねーねー」
あくびをしていたから眠いんだと思っていたのに、ベッドに入ってすぐに、背中の後ろから彼女が話しかけてきた。
「なによ、寝ないの?」
「んー、喋りたいなって思って」
「はぁ…」
まだほんの1時間くらいしか喋っていないのに、彼女には振り回されてばっかりだ。そもそも私は彼女の弱みを握っていて、私の方が立場が上のはずなのに。でも、こんな風に彼女の自由さに引っ張られても、不思議と嫌な感じはしなかった。
「月宮さんってさ、結構真面目ちゃんな感じ?」
「まぁ、そうかもしれないわね」
「へぇ〜。適当に生きた方が楽じゃない?」
「ここはうちのおじいちゃんが建てた学園なんだから。その孫の出来が悪いなんて、学園の信用に関わるじゃない」
「そんなに真面目なくせに、人の弱み握って脅しなんかするんだぁ〜」
「そ、それは…」
「ふはっ。じょーだんだって。それくらい星空蒼のこと、好きで居てくれてるってことでしょ?普通にうれしいよ」
「あっそ…」
「素直じゃないなぁ。あ、そういえば」
一生話を続けそうなスピード感で、彼女が後ろから喋りかけてくる。アイドルの仕事と勉強で毎日大変だろうに、その上こんな厄介ごとにまで巻き込まれて、彼女は疲れていないんだろうか。自分が蒔いた種なのに、そんな事を心配してしまう。
「あなた、昨日遅くまで配信してたじゃない。喋ってないで、はやく寝なさいよ」
「へー、本当に全部見てくれてんだね」
「文句ある?」
「ふふっ、ないよ」
「…」
「ねぇ、こっち向いてよ」
「絶対無理」
「なんで?」
「無理なものは無理なの」
今後ろを振り向いてしまえば、きっとすぐ目の前に彼女の顔がある。そんなの、耐えられるはずがない。こんな生意気なやつでも、一応私の推しなんだから。
「はいはーい。あ、そういえば月宮さん」
「なに?」
「月宮さんって、なんか呼びにくいんだよね。普段はなんて呼ばれてるの?」
「学校では、月宮さんとしか呼ばれないわ」
「下の名前は?」
「侑希」
「ゆきちゃんね、りょーかい」
「別に、呼び捨てでいいわ…」
「ゆき、ね」
「そっちは、なんて呼べばいい?」
「んー、流石に学校で蒼って呼ばれるのは困るからなぁ。普通に下の名前で、凛とか?」
「凛…」
「そう。呼べそう?」
「たぶん」
なんだかんだ、その後いろいろと話し込んで、結局私たちは2人して寝落ちしてしまったらしい。
もぞっと後ろが動く感覚がして、私は目を覚ました。時計を見れば6限が終わる時間を過ぎている。私は毛布を引き剥がして飛び起きた。
「ちょっと、あなた!!起きなさい!」
私の後ろで、スースーと気持ちよさそうな寝息を立ててる彼女。なかなか起きないので、私は強めにその肩を叩いた。
「なにぃ…」
「もう6限終わってるじゃない!!」
「あ、ほんとだぁ。ふぁ〜、よく寝たぁ」
「ちょっと、あくびしてる場合じゃないわ!!」
「大丈夫。優等生の侑希が一回休んだくらいじゃ、先生は気にも留めないよ」
危機感がなさそうにそう言って、再び毛布に潜り込もうとした凛をもう一度叩き起こして、私達は教室に向かった。
校舎にはほとんど人が残っていなくて、どこからか吹奏楽部の練習の音が聞こえていた。私たちはそれぞれの教室に向かい、自分のバッグに荷物を詰め込むと慌てて学校を出た。
幸い、私の授業は出席がなかったし、凛のクラスは自習だったので、2人とも成績に響くことはなかった。
「侑希は帰り道どっち?」
「私は駅方面よ」
「じゃ、一緒に帰ろっか」
「凛もなの?」
私の問いかけには答えず、凛は目を細めて笑った。
「え、なに?」
「名前、呼んでくれた」
「そっちだって、私の名前呼んでるじゃない」
「うん。うれしいっ」
凛はこっちを向いて、また嬉しそうに笑った。
それだけで、またドキッと跳ねた心臓。これに慣れる日がいつになるのか、私にはまだ分からない